自由に観光ができる事の幸せを噛み締めつつ(笑)、次に訪ねたのは倉津川に明治20年(1887)に架けられた石造アーチ橋「天童眼鏡橋」。
「もともとの名は多嘉橋(「高橋」の表記とも)。幅7.7m、長さ13.3mの規模で、地元産の山寺石を積んで造られました。東北地方のアーチ橋は、当時の県令であった三島通庸による土木政策からも大きな影響を受けました。長崎の眼鏡橋が湾曲した床面を持つのに対し、この橋は、ローマの水道橋のような水平な床面になっています。」公式HPより
眼鏡橋から見る風景は、広大な天竜川ではなく明治村に作られた水辺公園。そこに、かって広島湾小那沙美島に明治37年(1904)に建造された「小那沙美島燈台」があります。
「円筒形の燈柱に燈篭と天蓋が据えられた、総高さ6.7mの鋳鉄造り。燈柱は直径50~60cmの円筒4本を積み重ねて建造され、工期短縮の必要と立地条件に適した構造となっています。上部の点検用デッキは6本の持送りで支えられ、燈籠には8面の曲面ガラスを組み込み、円錐形の銅板製天蓋と球形の冠蓋が載ります。」公式HPより
愛知県刈谷市にあった広瀬酒造の酒蔵「菊の世酒蔵」。もともとは明治初年(1868)頃に、現在の愛知県碧南市新川に穀物倉として建てられ、明治28年(1895)に刈谷市に移されました。
「木造2階建ての桟瓦葺きに梁間9間(約16.3m)、桁行き18間(約32.7m)、幅2間(約3.6m)の庇がついた大きな建物になっています。建物は、地上部分の半分と地下を鉄筋コンクリート造とし、明治村の収蔵庫として使用しています。(収蔵庫内部は非公開)」公式HPより
ここは二人にとって非常に思い出深い場所。良い思い出は忘れ難いものですが、悲しい思い出も何故か心に刻み込まれて、唐突に蘇ってくるものです。十数年前、ここで記念写真を撮ろうと、カメラをセルフにして、機嫌よく二人で並んだ瞬間・・・・・折からの突風でカメラが飛ばされ、それっきり壊れてしまったのです。この場所に立った瞬間、あの何ともやるせない涙が蘇ってきました(-"-)
西洋の教会と言うのは往々にして華やかで目を引くものが多く、遠目からでもその存在に目が奪われます。
続いては16世紀に来日したフランシスコ・ザビエルを記念し、京都・河原町三条に建てられたカトリック教会堂。近代古都で布教の拠点となった「聖ザビエル天主堂」。
「フランスの篤志家から寄付を募って資金を集め、河原町三条にあった旧大名の蔵屋敷を購入してこの教会堂が建てられたのは明治23年(1890)の事。建設にあたり、図面はフランスから取り寄せたとも。設計は東京で在日宣教師の一人であったパピノ神父が担い、施工は信者であり、大阪で大工の棟梁をしていた『横田彦左衛門』と伝えられています。」公式HPより
正面の薔薇窓や内陣・側廊のステンドグラスは、色ガラスに白ペンキで草花模様を描いているのが特徴。外側に透明ガラスをはめ、二重になっています。ちなみにこの教会では、キリスト教の信者でなくても挙式が可能だそうです(^▽^)/
「室内は身廊(しんろう)と側廊からなる三廊式で、大アーケード、トリフォリウム、クリアストーリーの3層による典型的なゴシック様式。天井は交差リブ・ヴォールト天井で、4本の柱で囲われた1つの区画の天井を、リブで四分割する四分ヴォールトとしています。柱やリブにはケヤキ材が用いられています。」公式HPより
セレモニーにつきものなのは何と言っても記念写真。文明開化を象徴するハイカラなたたずまいの「高田小熊写真館」は、豪雪で知られる新潟県高田町に 明治41年(1908)頃に建てられたものです。
「明治時代の写真館といえば、文明開化の象徴のような存在でした。この建物も例にもれず、ハイカラな雰囲気の建物。施工はおそらく地元の大工によるものですが、洋風2階建てと全体的に簡素な造りながら、つい人目を惹く洒落た魅力があります。建築時、最も力を注いだのはスタジオの明かりでした。当時は強力なライトなどの照明設備がなく、スタジオ内での撮影も自然光が頼りの時代でした。そのためこの建物では、光量の変化が少ない北屋根の全面をガラス窓にする工夫が成され、昭和の時代まで写真館として営業を続けました。」公式HPより
とにかく広大で、とにかく見どころ満載の大明治のパノラマ、明日から四丁目です(*^^*)
訪問日:2011年6月4日
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