車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

清洲古城跡公園 in 愛知県清須市清洲

2016年12月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市清洲古城、清洲城の対岸に位置する「清洲古城跡公園」。公園入り口には大正11年(1922)に建立された「清洲古城蹟」の碑。

昭和63年(1988)に緑豊かな市民の憩いの場として再整備された「清洲公園」。正面の一段高い場所、天守台跡には『織田信長公』を祠る小社が大切に祀られています。

公園内の一段高くなっている場所に建つ『織田信長公』の像。永禄三年(1560)「桶狭間の戦い」に出陣する織田信長、この時二十六歳。見据える彼方には2万5千の大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元が待ち受ける「桶狭間」。この時、信長公が首にかけた数珠は、味方の士気を大いに高めたと言われています。

「右大臣織田信長公古城跡」碑は、弘化年間(1844~1847)の頃、清洲総年寄であった『武田晨業(ときなり)』が建立。晨業は五条川に埋没していた古塁石を発見し、これに『尊寿院雲阿僧正』が揮毫し、本丸跡に建立したものです。

また右手の碑は、宿場町の清州宿で本陣役を務めた『林恪』が、文久2年(1862)に建立した「清洲城墟碑」。碑文は、戦国の世を統一し太平の世を築いた信長、それを継いだ秀吉の功績を讃え、またその偉業は清洲を本拠として尾張を平定したことに始まること等々、更に『林恪』が建碑を思い立った経緯が細かく刻まれています。

「右大臣織田信長公古城跡」碑の近くに置かれていた「織部灯籠」。俗にキリシタン灯籠とも呼ばれますが、刻まれたお姿は、私にはお地蔵様以外のお姿は見えません。

「清州ふるさとの館」に展示されていた能面六作。能と言えば信長が出陣の際に謡い舞ったという「敦盛」の一節。ずっと昔、戦国漫画のワンシーンで、炎に包まれた本能寺の館の中、低く謡を口ずさみ舞う信長の姿が子供心にも鮮烈で今でもその場面を思い出す事が出来ます。

【~人間五十年 下天(げてん)のうちを くらぶれば~~ 下天のうちを くらぶれば~ 夢 幻の如くなり~~】

豊かな緑に包まれた清州公園。時折列車の通過する音が聞こえる以外、後は爽やかな緑の葉擦れのみ。

春の最中の、淡い紫の藤棚。

私たちが訪問した後の2012年夏、信長公の銅像の脇にドラマ館の前にあった濃姫像が移設されました。桜の名所としても知られ、市民に親しまれているこの公園は、「始まりの地~二人の愛と希望の丘」と称し、夫婦円満、恋愛、立身出世、必勝祈願のパワースポットとなったとか。部下に裏切られ本能寺で自害して果てた信長さん・・本当に立身出世、必勝祈願で良いんですか?(^^;)

訪問日:2011年4月24日

 


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