車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

清洲(きよす)城 in 愛知県清須市

2016年12月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市朝日城屋敷、五条川に架かる朱塗りの「大手橋」を渡った先に見えてくる「清須城」

大手橋のこの位置が絶好のロケーションポイントらしく、御亭主殿の他にもポーズをとっている観光客。清須市のシンボルともいえる「清須城天主閣」ですが、1989年に再建整備された模擬天守 (-"-)。

「室町時代応永12年(1405)、尾張国の守護職:斯波義重が、下津城(稲沢市)の別郭として建てたのが清須城の始まりとされる。文明8年(1476)の戦禍で下津城が焼失した為、守護所は清須に移転。尾張国の中心地となった清須は、京や鎌倉に連絡する往還と伊勢街道が合流する交通の要衝として尾張の政治・経済・司法の中心地となった。 弘治元年(1555)に那古野(なごや)城から入城した織田信長は、尾張を統一掌握。やがて永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに勝利し、ここ清須から天下統一への第一歩を踏み出した。」清須市公式HPより抜粋

「天正10年6月2日、光秀の謀反により本能寺で自害して果てた織田信長。清須会議の後、城主となった次男の信雄は清須城の城郭改修に着手。それは天守を備え、東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域の中に城下町のあらゆる機能を備えた城塞都市として過去最大の規模であった。」と続き・・

「関ヶ原の戦いでは、東軍の重要な軍事拠点となり、関ヶ原以後、城の主は家康の四男、九男へと変遷。 慶長15年(1610)、家康は、清須城廃城と名古屋城築城を命じ、町の機能全てが移転する「清須越」を決行。これにより尾張の政治・経済・司法の中心は清須から名古屋へ移り、清須城とともにその城下町は歴史から姿を消し去った。」と結ばれます。

1989年、四百年近くの年月を経て甦った「清洲城」。とは言え・・歴史的な遺産として見るには流石に無理がある煌びやかな佇まい(^^;)

ここは潔く「観光地」として割り切るのが良し(^▽^)/

そうと気持ちを切り替えれば、これはこれで土産話の材料としては充分(笑) まずは大手門。その左右に続く「信長塀」は、兵庫県西宮神社の大練、京都市三十三間堂の「太閤塀」と共に「日本三大練塀」と言われるもの。

名の由来は、桶狭間出陣途中、熱田神宮に戦勝祈願した信長が大勝した礼に築地塀を奉納した事に由来。土と石灰を油で練り固め、瓦を多数積み重ねて作った「信長塀」はそれをモデルに作られました。

天守の入り口に作られた中庭。三重県の菰野砂利が敷き詰められた上に、岐阜御岳石の巨石が配されています。天守閣へはこの庭の横に設けられた通路を通っていきます。

高い所は大の苦手。必要不可欠な場合以外は避けたい私に付き合って、天守閣の観光はこれで終了(笑)

「復元された本石垣は、平成八年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清州公園前の五条川右岸(現地は下流二〇〇米に銘板で表示)で発見されたもので、清州越直前の本丸南側の石垣と考えられている。
石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている。」清州城の石垣より

大手門の近くにあった白漆喰壁の土蔵。特に説明など無かったので、清州城とは無関係だったかも。

ドラマ館の前に建てられた「農姫(信長の妻)像」と、観光地お約束の顔出し。 ご亭主殿曰く、一気に力が抜ける・・そうです(^^;)

訪問日:2011年4月24日

五条川の対岸に位置する「清洲古城跡公園」。続きは明日に (^▽^)/。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ご当地マンホール in 愛知県... | トップ | 清洲古城跡公園 in 愛知県清... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

神社仏閣・名所・観光・愛知県」カテゴリの最新記事