車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

源平藤戸合戦 in 岡山県倉敷市藤戸

2021年09月20日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

武家の棟梁である源氏と平家との間で、1177年から1185年にかけて繰り広げられた「源平合戦」。壇ノ浦の戦いで平清盛の孫に当たる『安徳天皇』が水底に沈み、源頼朝が征夷大将軍となった事で、その戦いは一応の決着を見ます。

そんな源平両軍の合戦の足跡は、今も至るところに残されています。今回は偶然遭遇した「源平藤戸合戦」の記念碑からの引用・・と言っても資料となる画像は僅か数枚😔、なので内容もかなり底の浅いものです。

旧児島郡の北西端にあたり、倉敷川の西岸に位置する藤戸。かってこの一帯は「藤戸の鳴門(藤戸海峡)」と呼ばれ、特に狭い地点は「渡(と)」と呼ばれ、海上交通の要衝となっていました。

寿永3年(1185)、一ノ谷の戦いに敗れ西へ逃れた平行盛軍は、500余騎の兵を率いて備前児島の篝(かがり)地蔵(現:倉敷市粒江)に城郭を構えます。「吾妻鏡」によると、波濤が激しく船もないため、渡るのが難しく、盛綱らが浜辺にくつわを止めていたところ、よもやここまで来ることは叶うまいと、行盛はしきりに挑発してきます。(屋島でも似たような事があった気が・・・)

ところが源範頼率いる追討軍は、藤戸の海路三丁余りを騎馬のままで押し渡り、向こう岸に辿り着くや行盛を追い落とし、見事勝利を得たのです。

騎馬のままで海峡を渡ってくる範頼の姿を見た時の平家一党の驚愕は、どんなものだったのでしょう。「平家にあらざれば人にあらず」と奢り高ぶっていた平家の一族にとって、全く別の意味で「人にあらざらぬ・・鬼神」に思えたかもしれません。

さて、「藤戸合戦」で劇的な勝利を収めた盛綱ですが・・実はこれには隠された悲劇があったのです。倉敷川に架かる藤戸大橋。その欄干に刻まれた、「謡曲:藤戸」のレリーフ。まずは前段・・功を上げ児島の領主となった盛綱の前に立ち、お前が息子を殺したのだと泣き叫び詰め寄る老母の姿。「海に沈め給ひしを せめてハ弔はせ給へや 跡とむらわせ給へや」

実は盛綱に藤戸の浅瀬の存在を教えたのは浦の漁師でした。しかし盛綱は先陣の功を他人に奪われることを恐れ、その若者を殺害していたのです。後段では、殺害を後悔した盛綱は若者の法要を営む事となりました。やがて明け方近くに若者の亡霊が現れ、盛綱に祟りを及ぼそうとします。「御弔ひハありがたけれども 恨みハ盡きぬ妄執を 申さんために来りたり」しかし盛綱の供養に満足しやがて成仏するというお話。

川岸に沿う丘上には、源平合戦に所縁のある真言宗の古刹・藤戸寺があり、その門前町として当地の中心的集落が生まれました。藤戸寺門前町の名物菓子であった「藤戸饅頭」は、長い時代を経た今も、名物菓子として知られています。

訪問日:2017年4月5日

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倉敷チボリ公園:エトセトラ in 岡山県倉敷市

2021年09月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

今から15年前、義姉たちと一緒に「倉敷チボリ公園」に行った事があります。今Wikiさんで調べると「かつて岡山県倉敷市寿町(JR倉敷駅北口前)に所在した公園、都市型テーマパーク。」と紹介されています。

1997年、旧倉敷紡績(クラボウ)倉敷工場跡地に開園された「倉敷チボリ公園」。モデルとされたのは、デンマークのコペンハーゲンにある世界最古のテーマパーク「チボリ公園」。園内にはデンマークやアンデルセンをイメージしたアトラクション、庭園、ショップ、レストラン、劇場などが点在していました。

しかし諸々の事情と経営難が重なり、2008年12月31日、わずか11年で幕を下ろします。今こうして当時の画像を見直してみると、あの綺麗な建物はどうなったのだろうか?あの素敵な銅像は今何所に置かれているのか・・気にかかります。

チボリ公園のシンボル的キャラクターだった「おもちゃの兵隊さん」。ショップでもアトラクションコーナーでも人気者だったよね。

閉園後、倉敷市は跡地の再開発を行い、2011年11月23日「倉敷みらい公園」をオープンさせました。倉敷駅北口から見る「アンデルセン広場」。その中心にはおとぎの世界の時を刻んだ「からくり時計」が、今も時を刻んでいます。

訪問日:2006年5月4日

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おとぎの世界の建物は、わずか11年で姿を消しましたが、普通に人々が生きていく町並には、長い歴史を生き抜いてきた建物が残されています。倉敷市鶴形に残る「日本基督教団倉敷教会教会堂」は大正12年(1923)に建てられた登録有形文化財の教会建築。まるで小高い丘の上に立つ聖堂を連想させます。

木造一部コンクリート造(木骨コンクリート造)三階建、カラーベスト葺で、建築当時の様相を極めて良好に残し、町の景色に溶け込んでいます。設計者は文化学院の創立者として知られる『西村伊作』。大正、昭和を代表する建築家としても知られています。

四脚門の山門は「浄土宗 誓願寺」。マンホールサミットでの時間待ちに気になりながら、結局参拝できなかったお寺。

ああ・・そういえばこの飾瓦はどこにあったんだろう?どうして建物の写真が無いのか忘れてしまったけれど、こんなに綺麗な宝袋の飾瓦はきっと初めてだと思う。

「林源十郎商店発祥の地」と書かれた自然石の石碑。個人のお店なのですが、倉敷においてはかなり有名な店舗のようです。

あれもこれも、忘れ難い思い出の中の一コマ。記憶の中に鮮明に息づく景色、ゆらりと薄いヴェールの向こうに見え隠れする景色、時の向こうに残るそれらの全てが、もう一度ここにおいでよと手招きしています。

訪問日:2013年7月26日&2017年4月3日

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阿智(あち)神社 in 岡山県倉敷市本町

2021年09月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

倉敷市本町に鎮座される「阿智(あち)神社」。御祭神は、海上交通の守護とされる・宗像三女神『多紀理毘売(たぎりひめ)命・多岐都比売(たぎつひめ)命・市杵嶋比売(いちきしまひめ)命』

由緒「倉敷の古名は「阿知」であり、当社は倉敷総鎮守の神社である。社記には神功皇后三韓征伐の途中、暗闇に航路を見失われ宗像三女神に祈願された時に、三振りの剣が雷鳴と共に天空から明るく輝いてこの地に降ったため、応神天皇の御代に妙剣宮(妙見宮)と称してこれを祀ったと記されている。明治の神仏分離令により妙見宮を阿智神社に復号。境内には蓬莱思想に基づいた日本最古の鶴亀様式の古代庭園とも伝えられる天津磐境の他、盤座・磐境が点在する。」岡山神社庁HPより抜粋

時間に急かされての参拝は、兎にも角にもご亭主殿の狛犬さん優先😅。結果、神社紹介としては非常にお粗末なものになりました。が、今更愚痴って見ても詮無き事。まずは東坂の石段、下より、八十八段の米寿段、六十一段の還暦段、三十三段の厄除段。随身門入り口手前に建立された〆柱の脇より神域を守護されるのは、八手の様に開いた尾が印象的な文化十四年(1817)丁丑八月建立の浪花タイプ狛犬さん一対。剥落が痛々しいのですが、阿吽共にとても優しい表情です。

狛犬さんに励まされて随神門口に至り、そこから内側の七段、拝殿の五段、更に荒神社の三段で母なる神の身の内、生命力の根源に達すると云われています。

荒神社の鳥居前より神域を守護されるのは天保11年(1840)建立の玉乗り狛犬さん一対。玉乗りと言うと尾道・広島型が有名ですが、こちらの玉乗りさんはそのいずれとも異なった雰囲気。

「境内社:菅原神社」。御祭神は『菅原道真公』。相殿には明治43年(1910)に近郷より合祀された『日本武尊・大物主命・猿田彦神』が祀られます。

鳥居の内、社殿前より神域を守護されているのは天保9年(1838)4月建之の玉乗りさん一対。尾の形状、玉にもたれかかる姿、先の狛犬さんとよく似ているように感じるのは、もしかして同じ石工さんの作品かも😄

「倉敷護国神社」、旧倉敷地区3,416柱の英霊の御霊が祀られます。

鳥居の内、社殿玉垣の左右より神域を守護されるのは弘化5年(1848)建之の出雲型狛犬さん一対。阿吽共に出雲系としては驚くほど、穏やかで優しい顔立ちをしておられます。

「城山稲荷社」。御祭神は『倉稲魂うかのみたまのみこと)』。現在のアイビースクエアの位置に、かつて城山と呼ばれた丘状地があり、そこにお祀りされていた城山稲荷神社を遷座。

本殿西側にある鶴亀の「磐境(いわさか)」は古代庭園とも呼ばれており、古代神々を天上よりお招きし、天津磐境(あまついわさか)として祭祀を行った場所と伝えられています。

絵馬殿から見る倉敷の市街。昔はもっと近くに海があり、沢山の船が多くの人や荷物を載せて行きかっていたのでしょう。そうした人々にとっては、海の守り神であり「道主貴(みちぬしのむち)」『宗像三女神』を祀る社の存在はとても力強く思えた事でしょう。

県天然記念物の指定を受けた「阿知の藤」は、「あけぼの藤」という品種で淡いピンク色の花房をつけます。倉敷市の市花として様々なキャラクターを生み、またマンホールのデザインにも採用されました。

参拝日:2013年7月26日

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倉敷美観地区 in 岡山県倉敷市中央

2021年09月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

「白壁の蔵屋敷、なまこ壁、柳並木の風景、情緒豊かな町並みが楽しめる倉敷美観地区。伝統的な建物が作り出す町並みや、倉敷川沿いのレトロモダンな風景が、世界中の人を魅了し続けています。」公式HPより

白漆喰海鼠壁の屋敷や蔵が立ち並ぶ、倉敷川の畔。さらに鶴形山南側の街道一帯は、倉敷観光の重要拠点として「倉敷川畔伝統的建造物群保存地区」「国重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。

観光雑誌やパンフレットに必ず登場する「倉敷川の景観」。思い起こせば
独身時代も含めて八回も訪問していました。最初は学生時代に一度、二度目は愛娘と二人、その後はご亭主殿と一緒に四回。残りの二度はマンホールカードと、あわよくば観光も😅。

それほどお気に入りの倉敷美観地区で、必ず立ち寄るのが「エル・グレコ (EL GRECO)」。ここは当時の倉紡社長『大原総一郎』が、美術館鑑賞の余韻を楽しむ場所として昭和34年に建てたとか。蔦のからまる壁、赤い庇、白いドア・・珈琲の香りと一緒に運ばれてくるのは、ご亭主殿との幸せな時間。

そういえば・・確か学生時代に母と来たはずの「大原美術館」。あまりにも古い事なので何を見たかなんて覚えていないけれど、その時買って貰った「大原美術館」の冊子は今も大切に本棚にあります。

ご亭主殿と来館したのは二度ですが、二人で改めて鑑賞した収蔵作品は、些細な会話も含めて今も鮮やかに蘇って来ます。と言っても私達の会話ですから、決して「美に触れて」なんて高尚なもので無いのは確か😅

大原美術館の向かい、倉敷川を挟んだ今橋のたもとに立つ「旧大原家住宅」。寛政年間の建築といわれる入母屋造の母屋、本瓦葺に白漆喰が目にも鮮やかで、美観地区にしっとりと溶け込んでいます。(大原家に関しては「語らい座 大原本低」に詳細があります。)

内倉・新倉・中倉・内中倉・北倉・壬生倉・西倉・・二階建、切妻造のこれらの土蔵はいずれも江戸時代後期から大正初期に建てられたもの。土地も含めてすべてが国の重要文化財に指定されています。文化財指定後も居住用に使われていたため、建物内部は非公開。ところが、2018年4月に「語らい座 大原本邸」として一般公開されるようになったそうで、これはまた再訪問の口実ができたかも。

大原家とは道路を挟んで東隣、静かなモノトーンの世界に唐突に出現するのは、大原家の別邸「有隣荘」。大原家七代目当主・大原孫三郎が、病弱な妻のために昭和3年(1928)に建設したものです。

建物はその後迎賓館として使用され、昭和22年(1947)には昭和天皇の宿泊所としても使用されたとか。緑色の瓦屋根の美しさから「緑御殿」とも呼ばれるこの建物。対岸からは建物全体と、それを取り巻く赤茶の土塀越しに、空を突くような松の大木が見えます。

その大木に腰掛けて楽しそうに足を揺らす二人の少年・・の下半身。これを見たのは、初めてご亭主殿と倉敷を訪れた2006年の5月。その衝撃は今もはっきりと記憶に鮮明😱 あの足だけの二人がその後どうなったのか・・ご存知の方がいらしたら是非とも後日談を!

2009年に開館した「倉敷物語館」。南側の長屋門や塀は江戸中期のものだそうです。

和風建築が並ぶ一画でパッと華やいだ雰囲気を漂わせているのは、下見板貼り白塗の木造洋風建築「倉敷館」。旧倉敷町役場として大正6年(1916)に建てられたもので、現在は無料休憩所・案内所として開放。マンホールカード一弾の配布が決定した際には、ここが配布場所となりました。

倉敷館と並んで建つのは、江戸時代末期の米倉を改装した「倉敷民藝館」。倉敷における古民家利用の第一号として開館し、伝統的建造物保存のきっかけとなりました。

美観地区には重要文化財の「井上家住宅」や、登録有形文化財の「旧第一合同銀行倉敷支店(現中国銀行倉敷本町出張所)」等々。とてもその全てを紹介するなど無理な話。

それだからこそ何度でも訪れたくなる魅力があるのかもしれません。一つ辻を変えれば、あそこも・・ここも・・と、その度ごとに新しい出会いと発見があります。

折々の季節を映し出しゆったりと流れる倉敷川。春には一面の桜吹雪に包まれる桜並木も、いまはまだ固い蕾を大切に包み込み、川行く人を見守っています。

新緑の季節、濃い緑の柳を潜り抜ける川風に誘われて聞こえてくるのは、風雅な尺八の音色。まるでスローモーションのような世界の中で、私たちはしばし時を忘れて立ち止まります。

美観地区の外れにある水門のハンドルには三方に龍が刻まれています。水神でも有る龍によって守られる倉敷川の流れ、そこに暮らす人々・・やがてその流れは児島湖へと至るのです。

うっすらと夕闇に包まれ始めた倉敷美観地区・・・普通ならこんな時間まで滞在する事は無いのですが、この時はマンホールサミットの開催日だったことも有り、珍しい写真が撮れました。

訪問日:2006年5月日&2013年7月26日&2017年4月3日&11月18日

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ご当地マンホール~規格蓋&上水道関連蓋 in 岡山県倉敷市

2021年09月16日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

一部のコアなファンしか受けない規格マンホールですが、デザインの無い鉄の蓋にも沢山の歴史が込められています。

昭和42年(1967)10月1日制定の市章は「倉敷の「クラ」を図案化したもので、横へ広がる翼は瀬戸内経済圏の中核都市として、産業・文化・観光の調和ある住みよい理想都市を目指して飛躍発展する姿を表します。また、円は市民の団結と融和を象徴しています。」公式HPより

上下、同じに見えるマンホールですが、下のマンホールには沢山の穴が二周に渡って開けられており、このタイプは雨水用として設置されます。

下の二枚は、児島市の路地を探索中に見つけた旧倉敷市・市章の雨水用マンホール。こうした古い蓋が見つかると、それが残されていた事に感謝したくなります。

明治27年(1894)制定の市章は「「倉」の文字を図案化」したものと思われますが、詳細は不明。

旧倉敷市章の量水器が登場したところで、上水道関連の規格蓋。

規格蓋だけではあまりにも色気が無いので😄「水道局イメージキャラクター・くらっぴぃ」が登場する消火栓・仕切弁・空気弁。

白壁の蔵と懐かしい消防車がデザインされた消火栓。キャラクターも悪くありませんが、こんなシックなデザインがあると、足元を見るのが楽しくなります。

倉敷市所属の、くらしき環境キャラクター『くらいふ』。暮らしやすい倉敷をつくりたいとの願いから誕生しました。

最後は明治43年(1910)に設立された「岡山ガス」社章の表記された角蓋。供給区域は、岡山市・倉敷市・赤磐市・玉野市・総社市・早島町です。

撮影日:2009年9月21日&2010年8月10日&2013年7月26日

撮影日:2016年8月17日&2017年4月3日

倉敷市には、地区によって全く別のデザインマンホールが存在します。旧倉敷市内の紹介が終わったら、順次紹介していきます。

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ご当地マンホール in 岡山県倉敷市

2021年09月15日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

倉敷市のマンホールは実に多彩。総社市と境を成す倉敷市浅原地区に設置された集落排水用のマンホールには、特産の「桃」を中心に、両サイドに桃の花がデザインされています。

倉敷市浅原地区排水処理施設

倉敷マンホールサミット展示蓋

倉敷市の一般的なデザインマンホールは、市章を中心に、藤の花房が一杯にデザインされています。デザインの元となった「阿知の藤」は、阿智神社にある曙藤という珍種で、根回り約1.5m、根元周囲約2.2m、同種の藤としては全国一で、樹齢は550歳とも言われています。

特大親子マンホール

こちらは全く趣が変わって、倉敷センター街に設置された案内表示のマンホール。単なる場所・方向の案内ではなくマンホールとして機能しているのが凄いです。

撮影日:2010年8月10日&2013年7月26日

撮影日:2016年8月17日&2017年4月3日

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ご当地マンホールとマンホールカード in 岡山県倉敷市

2021年09月14日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

倉敷市(くらしきし)は岡山県の南中央部に位置する市です。2005年、倉敷市が浅口郡船穂町、吉備郡真備町を編入。岡山市、玉野市、総社市、浅口市、小田郡矢掛町、都窪郡早島町に。また海を挟み、香川県坂出市、丸亀市に隣接。県下第2位(中国地方では第3位)の人口を擁し、岡山都市圏を形成。市の中心部、倉敷川沿いの一帯は江戸時代に幕府直轄領として繁栄し、白壁の町並みは県内有数の観光の街として知られています。

また瀬戸内工業地域の中核都市として、石油コンビナートなどを含む水島臨海工業地帯を形成。西日本を代表する工業都市の一つで、工業出荷額は岡山県内の約45%、全国の市町村で第6位を占めています。市の中西部を高梁川が北から南に流れ瀬戸内海に注ぎ、平野の多くは干拓地や沖積平野で占められており、児島地域を除き比較的平坦。市内には児島、亀島山、玉島、連島など「島」の付く地名が多く、それらの地域は文字通り「島」であり、干拓により陸続きになって今の市域が形成されました。「市の木:クスノキ」「市の花:フジ」「市の鳥:カワセミ」を制定。

キャッチフレーズは「新しい文化が華ひらく」「ひと、輝くまち 倉敷」

明治22年(1889)、町村制の施行により、窪屋郡倉敷村・葦高村・大市村・万寿村・児島郡藤戸村が発足。(旧玉島市・旧児島市は別項目で)

1891年、窪屋郡倉敷村が町制を施行、(初代)倉敷町となる。

1900年、郡制の施行により窪屋郡と都宇郡が合併、都窪郡となる。

1901年、都窪郡葦高村、大市村が合併、都窪郡大高村が発足。

1915年、藤戸村が町制を施行、児島郡藤戸町が発足。

1927年、都窪郡倉敷町、万寿村、大高村が合併し(二代目)倉敷町が発足。

1928年、都窪郡倉敷町が市制を施行、倉敷市(初代)が発足。

1954年、倉敷市が児島郡藤戸町を編入。

1967年、倉敷市、玉島市、児島市が対等合併、(三代目)倉敷市が発足。

1971年、倉敷市が都窪郡庄村を編入。

1972年、倉敷市が都窪郡茶屋町を編入。

2005年、倉敷市が浅口郡船穂町、吉備郡真備町を編入。現在に至ります。

倉敷美観地区、倉敷駅周辺に設置のマンホールには「市の花:藤」が、美しくデザインされています。

「児島湖流域下水道浄化センター:展示蓋

倉敷マンホールサミット会場:展示蓋

イメージキャクター「くらモニちゃん」も、マンホールになりました。

倉敷商工会議所所属の『くらモニちゃん』。倉敷駅前で開催される朝市「倉敷三斎市」から誕生しました。帽子とパンツは白壁、髪飾りとシッポは倉敷市花の藤です。得意のダンスで、街に元気と幸せを運びます。

撮影日:2010年8月10日&2013年7月26日

撮影日:2016年8月17日&2017年4月3日

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2016年4月1日、第1弾として全国28自治体で30種類の マンホールカードの配布が 開始されました。「倉敷市A」のマンホールカードは、「倉敷美観地区倉敷館」でいただけます。


2016年に設置開始されたマンホールには「阿知の藤」がデザインされています。

「倉敷美観地区北側の鶴形山にある阿智神社本殿の裏手に「阿知の藤」と呼ばれる藤の名木があります。この木は、推定年齢が300年とも500年とも言われる、幹回り約1.5mの日本一のアケボノフジとして県の天然記念物に指定されています。5月になると、藤棚全面に淡紅色の花房を付け、倉敷市の市花として多くの市民に愛されています。倉敷駅から美観地区一帯は1955年頃より下水道整備を開始し、1985年頃からマンホール蓋にこの藤の花をデザインしています。市内には藤の花をデザインしたマンホール蓋がこの他にも何種類かありますので探してみてください。」

倉敷市マンホールサミットにて配布されたコースター・缶バッジ

訪問日:2017年4月3日

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築領(ついれう)八幡宮 in 岡山県岡山市瀬戸町

2021年09月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市東区瀬戸町下に鎮座される「築領(ついれう)八幡宮」。御祭神は『仲哀天皇、応神天皇、神功皇后』

鳥居の内、すぐの左手参道に建立される「地神碑」。社日碑と同じく『天照太神・大己貴命・少彦名命・稲倉魂命・埴安媛命』の五柱の神々の名が刻まれています。

由緒「当社の創建は文久2年(1862)である。 社格の古事はないが、当地は神宮皇后の三韓討伐の順路にあたり、その古跡が残っている。」岡山神社庁HPより

石段参道の上、境内入り口の左右より神域を守護されるのは、低く構えた備前宮獅子一対。

首に架けられた注連縄は、まるで逆立つ毛のように鋭く、目はらんらんと輝き・・

備前焼細工物の名人である父に技を習い、自身もまた細工物一筋で励む『二代: 小山一草氏』によって昭和59年に建立された宮獅子さん。噛み締めた牙の間からは低く威圧的な唸り声までもが聞こえてくるようで、圧倒的な力強さを見せつけています。

花頭窓が設けられた拝殿は、神社というより寺の佇まい。

「境内社:荒神社」。御祭神『奥津彦神・奥津比売神』

「境内社:稲荷神社」。御祭神『倉稲魂命・保食神』

「境内社:須賀神社」。御祭神『素戔嗚尊』

末社

最後にもう一枚、備前宮獅子さんのナイスな「お尻」を😄

注連縄の位置が・・絶妙過ぎる😅

叶うなら、もう一度ご亭主殿と一緒に参拝したい神社。こんなに素敵な狛犬さんと再会できたなら、靄にかすんでしまったあの頃の記憶も少しは蘇ってくれるかもしれない・・

参拝日:2013年2月20日

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阿保田(あぼた)神社 in 岡山県岡山市瀬戸町

2021年09月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市東区瀬戸町万富に鎮座される「阿保田(あぼた)神社」。御祭神は『阿保田神(あぼたのかみ)』

由緒「治承四年(1248)、総国分寺東大寺大仏殿は平重衡の兵火により焼失しました。その後朝廷に再建の議が起こり、俊乗坊重源が大勧進職に任じられました。重源は、その建立に必要な木材は周防の国、瓦は備前の国(万富)で調達する事に決め、瓦を焼く工事の安全と良質の瓦を得る加護を得る為に、東大寺の守護神「田向山八幡宮」をこの地に勧請しました。これが阿保田神社の起源です~後略~」境内由緒より

長い石段参道の上、随身門前の両脇より神域を守護されるのは、ゆったりと鷹揚に互いを見つめあう備前宮獅子一対。

製作は『興楽園 第13代 木村長十郎友敬・昭和15年建立』。この世界ではまだお若い部類ですが、すでに長老の貫禄を見せています。こうして並べてみると、まるで難しい禅問答でもしている風情。阿形さんの鋭い答えに吽形さんタジタジ😅

「阿保田神社の称号には諸説がありますが、中世は阿保田明神、近世は正八幡宮、明治以降に阿保田神社に復しています。」境内由緒より

境内の一画に鎮座される境内社二社。社名・ご祭神ともに不明。

例祭の折にはこの境内で奉納相撲が開催されるのでしょう。きっとその時には、境内は活気にあふれ、賑やかな歓声が、御祭神を楽しませるに違いありません。

参拝日:2012年1月25日

 

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素盞嗚(すさのお)神社と宗堂桜 in 岡山県岡山市瀬戸町

2021年09月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市東区瀬戸町宗堂に鎮座される「素盞嗚(すさのお)神社」。御祭神は『素盞嗚尊(すさのおのみこと)』

創建年代、由緒は不詳。当社は寛文元年(1661)5月10日に再建されました。 

境内入り口より神域を守護されるのは、素焼きっぽい色合いを残した備前宮獅子一対。足の部分に「興楽園 作者:森弘一」の刻。

拝殿の奥には三社の境内社が祀られますが、社名などは不明。

また境内の入り口近くには土俵が設けられており、綺麗に管理されています。お祭りなどでの奉納相撲でもあるのでしょうか? これに関しても特に説明等はありません。

境内の一画には五輪塔や墓碑のような碑が建立されています。おそらくですが、この地一帯が妙泉寺の跡地である事と関係があるのかもしれません。

赤っぽい碑の前にある手水鉢は、年代不明の石棺であった事。また石碑はその棺の蓋であったと伝えられています。さすがにそうと知ると手を触れるのがはばかられて・・・😔

寛永年間(1624-1640)、この地には「宗堂山・妙泉寺」という寺がありました。住職であった『雲哲上人』は、参道に数十本の八重桜を植え、春ごとに美しく咲く桜を愛でていました。しかし寺が花につつまれたある春、上人は法難を受け、桜並木の前で絶命。主の死を悼んだ桜は、花弁の一部を内にまきこみ、以来、決して結実しなくなったと言います。

「宗堂桜」は八重桜の新品種で、一個の花に約60枚の花弁、内側の約20枚が反転して巻いているため、二重の花弁となるのが特徴。他に類がないほど珍しい桜であるとして、昭和31年(1956)4月17日、岡山県天然記念物に指定されました。

参拝日:2012年1月25日

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