武家の棟梁である源氏と平家との間で、1177年から1185年にかけて繰り広げられた「源平合戦」。壇ノ浦の戦いで平清盛の孫に当たる『安徳天皇』が水底に沈み、源頼朝が征夷大将軍となった事で、その戦いは一応の決着を見ます。
そんな源平両軍の合戦の足跡は、今も至るところに残されています。今回は偶然遭遇した「源平藤戸合戦」の記念碑からの引用・・と言っても資料となる画像は僅か数枚😔、なので内容もかなり底の浅いものです。
旧児島郡の北西端にあたり、倉敷川の西岸に位置する藤戸。かってこの一帯は「藤戸の鳴門(藤戸海峡)」と呼ばれ、特に狭い地点は「渡(と)」と呼ばれ、海上交通の要衝となっていました。
寿永3年(1185)、一ノ谷の戦いに敗れ西へ逃れた平行盛軍は、500余騎の兵を率いて備前児島の篝(かがり)地蔵(現:倉敷市粒江)に城郭を構えます。「吾妻鏡」によると、波濤が激しく船もないため、渡るのが難しく、盛綱らが浜辺にくつわを止めていたところ、よもやここまで来ることは叶うまいと、行盛はしきりに挑発してきます。(屋島でも似たような事があった気が・・・)
ところが源範頼率いる追討軍は、藤戸の海路三丁余りを騎馬のままで押し渡り、向こう岸に辿り着くや行盛を追い落とし、見事勝利を得たのです。
騎馬のままで海峡を渡ってくる範頼の姿を見た時の平家一党の驚愕は、どんなものだったのでしょう。「平家にあらざれば人にあらず」と奢り高ぶっていた平家の一族にとって、全く別の意味で「人にあらざらぬ・・鬼神」に思えたかもしれません。
さて、「藤戸合戦」で劇的な勝利を収めた盛綱ですが・・実はこれには隠された悲劇があったのです。倉敷川に架かる藤戸大橋。その欄干に刻まれた、「謡曲:藤戸」のレリーフ。まずは前段・・功を上げ児島の領主となった盛綱の前に立ち、お前が息子を殺したのだと泣き叫び詰め寄る老母の姿。「海に沈め給ひしを せめてハ弔はせ給へや 跡とむらわせ給へや」
実は盛綱に藤戸の浅瀬の存在を教えたのは浦の漁師でした。しかし盛綱は先陣の功を他人に奪われることを恐れ、その若者を殺害していたのです。後段では、殺害を後悔した盛綱は若者の法要を営む事となりました。やがて明け方近くに若者の亡霊が現れ、盛綱に祟りを及ぼそうとします。「御弔ひハありがたけれども 恨みハ盡きぬ妄執を 申さんために来りたり」しかし盛綱の供養に満足しやがて成仏するというお話。
川岸に沿う丘上には、源平合戦に所縁のある真言宗の古刹・藤戸寺があり、その門前町として当地の中心的集落が生まれました。藤戸寺門前町の名物菓子であった「藤戸饅頭」は、長い時代を経た今も、名物菓子として知られています。
訪問日:2017年4月5日