車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 岡山県旧瀬戸町(岡山市東区)

2021年09月10日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧赤磐郡瀬戸町(せとちょう)は岡山県の南東部に位置した町です。岡山市、備前市、瀬戸内市、赤磐市に隣接。町域の中央に鉄砲山と呼ぶ小高い山があり、その東側を吉井川、西側を砂川が流れ、南西部と北東部にはやや平地が広がるが大半は標高100m - 350mの丘陵地となっています。古代においては備前国磐梨郡「物理(もどろい)郷」の一部であったとされ、吉井川沿いの北東部に位置する宗堂地区には、ここでしか咲かないと言う「宗堂桜」があり、岡山県指定天然記念物に登録されています。「町の木:マツ」「町の花:サツキ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、磐梨郡(いわなしぐん)物理村(もどろいそん)、赤磐郡万富村・潟瀬村・玉井村が発足。

1900年、 郡制の施行により、赤坂郡・磐梨郡の区域をもって赤磐郡が発足。

1915年、物理村が町制を施行、改称して第一次赤磐郡瀬戸町が発足。

1951年、万富村が町制を施行、赤磐郡万富町となる。

1955年、瀬戸町、万富町、潟瀬村、玉井村が合併、第二次瀬戸町が発足。

2007年、岡山市に編入合併。

2009年、 岡山市が政令指定都市に移行、瀬戸地区は岡山市東区となる。

マンホールには中央に旧町章のある規格タイプのみで、集排用も規格タイプとなっています。

昭和43年(1968)1月1日制定の町章は「セトを図案化し、若々しく、力強く調和がとれて発展する瀬戸町の姿をあらわしています。」合併協議会資料より

砂川に架かる瀬戸橋の欄干に見つけた二つのモニュメント。瀬戸町は「文化の町」だそうです。

もう一方にはとても立体的な「宗堂桜」のモニュメント。何も知らない人が見たら絶対に「バラの花」と思う😅

撮影日:2009年5月5日

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ご当地マンホール in 岡山県旧建部町(岡山市北区)

2021年09月09日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧御津郡建部町(たけべちょう)は岡山県のほぼ中央に位置した町です。岡山市、赤磐市、久米郡久米南町・美咲町、加賀郡吉備中央町に隣接。町名は、日本武尊の功名を伝えるための御名代の地「武部」に由来。「行こか岡山戻ろか津山、ここが思案の深渡し」と古くから俗謡に歌われた福渡は、岡山と津山のほぼ中間にあり、かつては備前から美作路の要衝として。天領となった後は、旭川の渡し場や高瀬舟の船着場を擁した宿場町として発展。また建部地区は、備前池田藩の家老、建部池田氏の陣屋を中心に繁栄しました。「町の木:ヒノキ」「町の花:キンモクセイ」「町の鳥:メジロ」を制定。

しぼりたての建部町内産牛乳を100%使用し、凝固剤や酸化防止剤、香料等の添加物を一切加えずに作る「建部ヨーグルト」。個人的に一押しです😄

旧キャッチフレーズは「自然を学ぶ!自然を守る!自然に親しむ!たけべ」

明治22年(1889)、町村制の施行により、津高郡建部村・上建部村、赤坂郡竹枝村、久米南条郡福渡村・鶴田村が発足。

1900年、津高郡が御野郡と合併し御津郡に。赤坂郡が磐梨郡と合併し、赤磐郡に。 久米南条郡が久米北条郡と合併、久米郡となる。

1922年、福渡村が町制を施行、久米郡福渡町となる。

1955、 鶴田村と合併、新たに久米郡福渡町となる。

1955年、建部村、上建部村、赤磐郡竹枝村が合併し第一次御津郡建部町が発足。

1967年、久米郡福渡町と合併、第二次御津郡建部町が発足。

2007年、建部町が岡山市に編入合併。

2009年、岡山市が政令指定都市に移行した為、岡山市北区建部町となりました。

マンホールには、旭川に泳ぐ魚、川岸に咲く桜が情緒豊かにデザインされています。

昭和43年(1968)8月31日制定の町章は「「タケベ」をうまく図案化し、町の和と将来の飛躍と発展を象徴したものです。」合併協議会資料より

中央に「農」、下に「建部町」と表記された仕切弁、おそらく農業集落排水用のものでしょう。

撮影日:2013年2月20日

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箕島(みしま)神社 in 岡山県岡山市南区灘崎

2021年09月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市南区箕島に鎮座される「箕島(みしま)神社」。御祭神は『櫛振命(くしふりのみこと)』。「吉備海部」の直祖とされます。

由緒「勧請年月日は不詳であるが、箕島には氏神が東西にあり、現箕島神社の境内地に八幡宮がある。東部の汗入の「汗入御崎宮」を八幡宮境内に遷座し、箕島神社と改称した。現在本殿が二棟あるのは、両氏神を一境内に奉斎したためである。」岡山神社庁HPより

鳥居の内、石段参道の上より神域を守護されるのは、明治34年(1901)6月建立の尾道型玉乗り狛犬さん一対。平らに伏せた耳がいかにも周囲を警戒しているという印象を与えています。

「箕島神社」の拝殿は双殿造りと呼ばれるもので、二つの本殿を一つの拝殿で繋ぐという珍しい形式なのですが・・・画像がありません😔 なのに何故か拝殿屋根の留蓋で遊ぶ神獣さんは写している・・。

一応鼻が長くて牙が有り、両耳が垂れているところを見ると「象」かなと思うのですが・・どうでしょう?・・それにしても象は珍しいです!

もう一対は八幡神社側の屋根から、興味津々と言った風情で境内を見下ろす阿吽の獅子。

阿形さんの「高所は苦手なんです・・」的な表情と、しがみ付くような前足がツボ😆

折角ここまで来て、良い神社を見つけたのに残された画像がこれでは何とも中途半端。帰路の途中にたまたま出くわした予定外の神社だった事が原因ではあるのですが、後で見返した時の残念感は半端ありません。

参拝日:2010年8月10日

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ご当地マンホール in 岡山県旧灘崎町(岡山市南区)

2021年09月07日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧児島郡灘崎町(なださきちょう)は岡山県南部、岡山平野の南に位置した町です。岡山市、倉敷市、玉野市に隣接。町域の大半は江戸期より昭和期にかけて干拓された土地で占められた平坦地、南西部は常山(307m)などの山林で形成されています。「町の木:カシ」「町の花:サツキ」を制定。

旧キャッチフレーズは「水と緑とふれいのまち」

明治39年(1906)、児島郡灘村全域と彦崎村の一部が合併し、藤田組により干拓された児島湾干拓第1工区0.36km2を加え、児島郡灘崎村が発足。

1949年、灘崎村が町制を施行、児島郡灘崎町が発足。

1959年、児島郡郷内村植松を編入。

1964年、農林省により干拓された児島湾干拓第7工区の一部0.92km2が編入。

2005年、岡山市に編入合併。

2009年、岡山市が政令指定都市に移行し、灘崎の行政区は南区となりました。

マンホールには、「町の木:樫」と、「町の花:サツキ」がデザインされています。カラーマンホールは「児島湖流域下水道浄化センター」の展示蓋。

昭和34年(1959)9月制定の町章は「灘崎の頭文字「ナ」を図案化したもので、円の外部にはみ出しているのは、将来の発展を意味し、更に「ナ」の変形は米、麦が新しい芽を吹き出している事を表している。」合併協議会資料より

撮影日:2009年9月21日&2016年8月17日

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御津~あちこちウォッチ in 岡山県岡山市北区御津

2021年09月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

マンホール撮影の途中にふらっと立ち寄った二つの寺社。本当に通りすがりに手を合わせた程度なので、きちんと画像も残していません。でもそのままボツにするのが惜しまれ、あえての紹介です。

岡山市北区御津金川に鎮座される「七曲神社」。御祭神は不明。「もと佐波山の麓に御鎮座であったのを、慶長八年日置忠俊が金川を領有するとともに、城山の東五丁ほどの山麓に奉遷したという。寛永九年池田光政が備前に国替えとなって、小神富久を新に神事を執行わせた。寛文九年に現在地に奉遷した。延宝二年卜部兼方が神籬・正印霊を御筥におさめて遷宮した。延宝三年日置忠明が新社殿を造営した。その後度々修築したが、現在の社殿は昭和十三年に竣工したものである。」岡山神社庁HPより

鳥居の内より神域を守護されるのは刈り上げ頭がとてもユニークな狛犬さん一対。材質の硬さを思うとこの細かい彫刻は賞賛に値します。

大きく裂けた口でにんまりと笑う阿形さん・・・誰かに似ていると思ったら・・御津彦様!😲! 毎年10月の例祭には獅子舞が奉納されるそうですが、案外こちらの獅子・狛犬がモデルなのかもしれませんね。

鳥居のずっと奥、茶色い山肌をさらした臥龍山の中腹に鎮座される御本殿には明治3年に建立された備前宮獅子さんもいたそうですが、あの山肌を見た時点であっさり挫折。唯一の心残りは、忠魂碑に並んで建立されていた『滝善三郎・義烈碑』を見逃した事。

金川地区はかって備前池田氏の家老:日置氏の陣屋町として栄えて来ました。慶応4年に起きた神戸事件において、その責めを一身に負って切腹した日置氏の家臣『瀧善三郎』。事件の詳細は「滝善三郎・慶応4年・神戸事件・切腹」で検索すると、詳しく述べられています。その碑の前に立てなかった事が悔やまれます。

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七曲神社と並ぶ地に境内を構える「日蓮宗不受不施派本山:龍華山・妙覚寺」。これも御縁と思い参拝させて頂きました🙏🙏。

建長四年(1252)12月の銘が刻まれた、岡山県指定有形文化財の梵鐘。傍らの案内に寄れば、「銘によれば はじめ御堂関白藤原道長の建立になる京都法勝寺の末寺備前金剛寺の鐘になり。天正十年高松城水攻めに使用され、その後長く土中に埋まる。後明治三十八年妙覚寺の有となり県下三鐘の一に数えらる」

珍しい寺紋の鬼瓦、天狗の羽団扇に似ているとも思ったのですが、葉の数が七枚なのでそれとは違いますね。下の説明をもっとよく見ておけば良かったのですが・・

そういえば、帰路に通った宇甘川に架かる三谷橋には、親柱に天狗の絵のレリーフがありました。御津金川地区にはそういった伝説があるのでしょうか?

その橋から見える山の中腹に、まるでモニュメントのように聳える土柱を見ました。もしかしたら岩柱なのかもしれませんが・・

ズームで・・コレが何なのか今も気になっているのに、さっぱり正体が分からない😩

参拝日:2013年3月20日

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ご当地マンホールと御津彦 in 岡山県旧御津町(岡山市北区)

2021年09月05日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧御津郡御津町(みつちょう)は吉備高原の南部に位置した町です。東は赤磐郡山陽町・赤坂町、北は御津郡建部町、西は加茂川町、南は岡山市に隣接。町域は丘陵と山林で占められ、町のほぼ中央部を北から南に流れる旭川が宇甘川・新庄川などの支流を集め、町を二分。集落はこれらの川の流域に開けた平地や盆地を中心に分布。主集落金川は南北朝時代には備前守護代松田氏の城下町として、また、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては、鵜飼派の雲生・雲次らの刀工が活躍。江戸時代には岡山藩家老の陣屋が置かれ、河港宿場町として栄えてきました。「町の木:モミジ」「町の花:ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、津高郡金川村・牧山村・宇垣村・宇甘西村・宇甘東村、赤坂郡五城村・葛城村・布都美村が発足。

1900年、 郡制の施行により、御野郡・津高郡の区域をもって御津郡が発足。赤坂郡・磐梨郡の区域をもって赤磐郡が発足。

1915年、金川村が町制を施行、御津郡金川町が発足。

1953年、金川町、牧山村、宇垣村、宇甘東村、宇甘西村、赤磐郡五城村・葛城村が合併、御津郡御津町が発足。

1954年、旧・牧山村の一部が岡山市に編入。

1956年、赤磐郡布都美村の一部を編入。

2005年 、岡山市に編入合併される。

2009年、岡山市の政令指定都市移行に伴い、岡山市北区御津となりました。

マンホールには旧町の木であった「モミジ」と「宇甘川の流れ」中央に町章が表記されています。

1990年1月制定の二代目町章は「町民が互いに手をつなぎ力を合わせる【三つの輪】のイメージに、「力強く自然に恵まれた町のイメージを、今開こうとする花の蕾に見立て、美しさ・優しさを強調し、「MITSU」を配した」旧公式HPより

地元産の野菜などを販売する「みつの里」キャラクターで、御津地区のヒーローとして活躍する『御津彦(みつひこ)』。江戸時代から続く獅子舞をモチーフに誕生しました。お腹の下に住んでいる『鈴彦』と共に、御津の文化や特産品の紹介をしています。

昨今は何所の自治体にでも見られるご当地キャラですが、実は『御津彦』「御津彦神社」のご祭神。

朱塗りの鳥居の奥には、幣を片手に褌一本の半裸で陽気に笑う「御津彦さま」が・・・。実は誕生当初の「御津彦さま」は婚活の真っ最中でしたが、御津彦神社の巫女『きぬむすめ』さんと結ばれ、「婚活成就」が御利益と決まりました😆

でも絵馬は何故か「売り上げ達成」😄 一応神様設定なので、一生懸命に願えば、何でも叶えて下さるのかも知れません。

という事で・・・・「ご利益 あれ!」

撮影日:2013年2月20日&2017年1月3日

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安仁(あに)神社 in 岡山県岡山市東区西大寺

2021年09月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市東区西大寺一宮に鎮座される「安仁(あに)神社」。御祭神は『五瀬命(いつせのみこと)・稲氷命(いないのみこと)・御毛沼命(みけぬのみこと)』

式内社(名神大)、備前国旧一宮で、旧社格は国幣中社。平安時代後期に編纂された延喜式神名帳に「備前国では唯一の名神大社に列せられている。939年における天慶の乱において当社が藤原純友方に味方した為、一宮の地位を朝廷より剥奪されたとされる」・・・その時々のお上の権力は神社の地位まで決める事ができるようです。

由緒「当社の創立年月日は不詳。「続日本後紀」の承和8年(841)2月8日の条に『安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)』とあるのが初見で、「延喜式神名帳」に備前国名神大社とある。 古くは「兄神社」又は「久方宮(ひさかたのみや)」と称したとも伝えられている。社地は、宮城山、別名鶴山といい、元宮は標高80m位の頂上にあった。その後、備前藩主池田家の祈願所として現在の地に鎮座。明治4年国幣中社に列せられ勅使の御参向があった。大正15年皇太子殿下が行啓され、祈年祭・新嘗祭・例大祭には幣帛供進使の参向などがあり、大東亜戦争までは荘厳で隆盛な神域であった。昔はこの鶴山の麓まで海であり、後方の山には磐座や列石があり、古代の祭祀跡と見られるところに、神武東征の船の「ともづな」を掛けたといわれる「綱掛石神社」などがある。」岡山神社庁HPより

社号標の前より御神域を守護されるのは、明治末期から大正初期に『木村宗太郎氏』によって奉納された備前宮獅子さん一対。阿形さんは痛ましいほどの傷ですが、それでも大切に修復されてにこやかに笑っておられます。

四代岡山藩主『池田綱政公』奉献の二の鳥居

神門

参道の先に〆柱。昔は庶民が参拝できたのはこの石段の下までだったと云います。それほど格式の高い神社だったという事です。

石段の先、〆柱の左右より神域を守護されるのは、2002年12月吉日建立の宮獅子さん一対。阿吽ともに中々の迫力で参拝者を迎えてくれます。こうした個性的な狛犬さんが生まれ奉納される限り「狛犬文化」は廃れない。そんな思いを新たにします。

「くれなずむ」から始まる歌碑。作者名が『星杖』である事以外、読み解けません。

千鳥破風・入母屋造りの拝殿

初詣に相応しい「奉納俵」

拝殿より、幣殿、中門と続き、透かし塀の内に御本殿が鎮まられます。

本殿の左右に向かい合うように建立された「摂社:右浦神社」。御祭神は『幾許神(いくばくのかみ)』

「摂社:左浦神社」、御祭神は『幾許神』。二つの社には、日向国より『五瀬命』に付き従った将軍たちが祀られています。

「末社:荒神社」、御祭神は『お土公様』

「末社:稲荷社」、御祭神は『稲荷大神』

「伊勢神宮遥拝所」

「出雲大社遥拝所」・右「瀧神社遥拝所」

「綱掛石神社」・右「天神社遙拝所」

御神水

頌徳碑 (?)二基

参拝日:2015年1月4日(2021年6月:義姉より摂末社画像の提供有り)

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御祭神一口メモ

『五瀬命(いつせのみこと)』、鸕鶿草葺不合尊と海神の娘:玉依姫との間に生まれた子、初代神武天皇の長兄。

『稲氷命(いないのみこと)神武天皇の次兄。『御毛沼命(みけぬのみこと)』。神武天皇の三番目の兄。

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北居都(きたこず)神社 in 岡山県岡山市東区

2021年09月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市東区東平島に鎮座される「北居都(きたこず)神社」。御祭神は『八束水臣津奴(やつかみずおみつぬのみこと)・築桙等乎留比古(つきほことおるひこのみこと)』

由緒「北居都神社は、ここ平島地区を米作りの地として開かれた八束水臣津奴命と築杵等手留比古命御兄弟神を主祭神として祀る、この地発祥・開拓の祖神、総産土神です。創建年代は定かではないものの、古くは推古八(600)年とする縁起巻物もあります。平島地区の数社を合祀した明治四十三(1910)年、居都八幡宮から現在の名に改められました。」境内由緒書きより

参道石段の半ば、一の鳥居の両脇より神域を守護されるのは、2007年10月吉日建立の獅子顔の狛犬さん一対。台座の古さから世代交代かなと思ったのですが、実はここの狛犬さん、以前は明治32年(1899)建立の備前宮獅子さんがいたのですが、2007年の6月に盗まれたというのです。神域においでになる神獣さんは単なる美術品ではないと、当たり前の日本人なら生まれながらに知っている常識を持たない人種が、近くにいる事が腹立たしい!!😡。

怒りのパワーも手伝って急な石段も苦にならなくなりました😅 その勢いで随身門に。

随身門内より神域を守護されるのは、多分最近お化粧直しをされたのではないかと思われる随身様・・・・筆をもたれた人の感性が色々凄い😅

やっと拝殿までたどり着いて・・・流石に暫くは動けそうに有りません。

拝殿の向かって右手に鎮座される「祇園宮」。御祭神は『素盞嗚尊』

鳥居の前より神域を守護されるのは、2000年10月吉日建立の備前宮獅子さんを下地とされた獅子狛犬一対。参道の狛犬さんの件があるので、もしかしてここも?!と、つい疑ってしまいます。

「祇園宮」拝殿の屋根から参拝者を見下ろしているのは・・・・これは何でしょう???

参拝を終えて何気なくのぞいた祇園宮の拝殿、何とそこに鳥居前の獅子狛犬さんと瓜二つの備前宮獅子さんがおいでになりました。吽形さんだけというのがどうにも・・先の疑いに更に火をつけます。

境内由緒書き続き「この神社と近辺神社との位置を地図上で結ぶと、菱形(ダイヤモンド=玉)や剣の形になります。一方、拝殿の屋根には、八角の鏡(八咫の鏡)の中に「居」の文字をかたどった鬼瓦があり、玉、剣、鏡の「三種の神器」が揃います。神社の位置選定に、先人のすばらしい知恵が生かされたことが分かります。また表参道は東向き、社殿は東南東向きになっています。これはそれぞれ春分・秋分と冬至の太陽の昇る方角です。太陽と関係の深い農耕、米作りとのつながりが、ここからも見て取れます。」

相次ぐ社寺への放火、破壊、そして貴重な文化財や神獣の盗難・・・日本人であるなら、日本人としての大切な部分を捨て去った愚かで哀れな犯人たち。他国の者であるならそのさもしい卑しい根性の犯人たちを、心の底から軽蔑します。

参拝日:2010年8月11日

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御神名一口メモ

『八束水臣津奴(やつかみずおみつぬのみこと)』国引きを行った神。出雲の開闢神・島根と出雲の名づけ親。須佐之男命の子孫で、大国主命の祖父。

『築桙等乎留比古(つきほことおるひこのみこと)』、『八束水臣津奴命』とは兄弟。

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石津(いしづ)神社 in 岡山県岡山市東区

2021年09月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市東区吉井に鎮座される「石津(いしづ)神社」。御祭神は『野見宿禰・応神天皇・菅原道真』

由緒「本神社は備前国総社神名帳に石津神社、又山本氏本に正四位上石津明神と記載され、備前国式内外古社128社の一である。宝暦年中(1751年~1764年)神社書上帳に石津大明神所祭則石津連祖野見宿禰とあるのによって、御祭神は詳に知られる。宝物として、黒田左衛門筆の絵馬一面がある。」岡山神社庁HPより

神門の左右より神域を守護されるのは、 昭和十二年(1937)七月建立の、尾道型玉乗りタイプの狛犬さん一対。

ぺったりと耳を伏せ、キッと前方を見据える顔は、いまにも獲物を追いかけようと構えた姿。

対する吽形さんは慎重に・・・じっと辺りを窺っています。

随身門の向こうに見える長い石段、社殿はこの急な石段の先にあります。

やっと辿り着いた拝殿。両側が柱だけの回廊形式になっており、絵馬殿も兼ねているせいか、非常に明るい雰囲気。

拝殿懸魚の彫刻は、龍の顔と巨大な翼・・・波間から姿を現したという風情ですが、こんな形の翼竜というのは珍しい・・ああ、あれは波間ではなく雲間かもしれない。

拝殿内に奉納されていた絵馬は、秋季例祭の様子を描いたものではないかと思われます。

巨漢で半裸の男と、足元に衣服をまとった小男、もう一人半裸の男が描かれた絵馬。生憎と何を題材としたものかは不明。

境内社に関しては、それぞれに瓦屋根を持つお社が幾社か祀られていましたが、その詳細については例によって例の如く、記録に残さなかった為不明。

参拝日:2012年12月5日

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岩熊(いわくま)八幡宮 in 岡山県岡山市東区

2021年09月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山市東区百枝月に鎮座される「岩熊(いわくま)八幡宮」。御祭神は『仲哀天皇・応神天皇,・神功皇后』

「由緒沿革は不詳。(岡山市の近世寺社建築)に、三間社入母屋造り本殿の建立年代を示す資料はないが、木鼻や海老虹梁の渦の形状等の様式からみて、18世紀前期頃と思われる。」岡山神社庁HPより抜粋

鳥居から真っ直ぐに伸びる石段参道、はるか上に見えていた随身門になんとか辿り着きましたが、すっかり息が上がっています😅

随身門の内より神域を守護されるのは、お雛様の段飾りでお見かけするような、雅なお顔の随身様。お召し物に施された朱の色彩も健在。

随身門の先、拝殿近くにて神域を守護されるのは、明治39年建立の備前宮獅子さん一対。生み出したのは「陶工・森 良明」氏。不思議なもので、良い狛犬さんに出会えると、どんなにきつい参道でも許せる気がします😊

本殿に比べて非常に質素な作りに見える拝殿。漆喰壁の拝殿と言うのはあまり見なかったような気がしますが、実際はどうなんでしょう?

古い鳥居の奥に鎮座される境内社。鳥居額には「正一位稲荷大明神」の刻。

境内に祀られる摂社群。いずれも社名・御祭神の記録がない為、詳細は不明。

参拝日:2012年4月25日

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