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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

下山田(しもやまだ)八幡宮 in 岡山県瀬戸内市邑久町

2021年10月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

瀬戸内市邑久町下山田に鎮座される「下山田(しもやまだ)八幡宮」。御祭神は『応神天皇・仲哀天皇・神功皇后』。

由緒「豊前国から天治元年(1124)宇佐八幡を勧請し社殿を創建した。古棟札に 神主大脇神左衛門 奉上棟若宮造立第四度大願主 蔵林坊 西門坊 其時領主河本左衛門進秀勝八幡鎮座天治元年(1124)時天正八庚辰年(1580)九月十八日宗一言一 とあり、往古、習合の時代には彌陀八幡宮とも奉称されていた。」神社庁HP

長い石段を登った先にある随身門。境内には深い緑が影を落とし、照りつける真夏の日差しを柔らかく遮っています。

随身門の内より、左右それぞれの手に剣と弓を握って神域を守護される随身様。これまで多くの随身様を見てきましたが・・・何でしょう?モデルの名前が数人は浮かんできそうな、親近感溢れるおっとりとしたお顔。

随身門を潜った先より神域を守護されるのは、扁平頭とくるくるカールのたてがみが可愛らしい、明治三十九年丙午三月生まれの浪速狛犬さん一対。

随身門からさらに長い石段を登った先に、拝殿が見えてきました。流石に息が上がって暫くは神前に向えません😓

拝殿前より神域を守護されるのは、昭和十年八月建立の狛犬さん一対。石工のお名前は『馬場??』と記されています。やはり扁平頭でくるくるたてがみですが、随身門前の狛犬さんに比べると随分とスマートで、更にロングの巻き毛がかなりお洒落。それを意識した姿勢がまた、お可愛いらしい😊

拝殿木鼻の彫刻は阿吽の龍。上目遣いの玉眼がなんとも個性的で良い表情。

社殿の後ろには更に長い・・長い石段があり、その先に「境内社:天津神社」が鎮座されています。

「天津神社」のご祭神は、それぞれの地域の「天津の神」とされており、こちらでのご祭神が何方なのかは不明。もしかしたら拝殿のどこかに説明があったかもしれませんが、確認できませんでした。

拝殿前より神域を守護されるのは、大きな玉を抱いた、昭和十二年三月吉日建立の広島型玉抱き狛犬さん一対。阿吽の表情や形が違って見えるのは、それぞれ別の石工が生み出したからでしょう。上手く読み取れませんが『船○&三木以和』と二人の名が刻まれています。

参拝日:2011年8月17日

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大窪(おおくぼ)八幡宮 in 岡山県瀬戸内市邑久町

2021年10月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

瀬戸内市邑久町大窪に鎮座される「大窪(おおくぼ)八幡宮」。御祭神は『仲哀天皇、応神天皇、神功皇后』

由緒「寛永7年(1630)、豊前国宇佐より分霊を勧請。同年、明石城主小笠原忠政、一町二反五畝の黒印領を寄せて以来、累代十五石の黒印領を捧げた。明治7年(1874)、村社に列せらる。」神社庁HPより

御本殿の彫刻は、天上を見上げて咆哮する龍。鋭い刃のような鱗に覆われた体は、御祭神の守護をされるには必要な姿なのかもしれません。

ご亭主殿の大好きな細工瓦が見事な拝殿。こちらは逆巻く波の中から飛び立とうとする龍でしょうか?

神文の丸瓦の上に顎を乗せ、鳥衾の角をつけた鬼も負けじとばかりの迫力で、参拝者を見下ろしています。

その拝殿前より神域を守護されるのは、昭和7年(1932)5月建立の浪速系狛犬さん一対。

たてがみや尾に鋭角が多い割りには、やんちゃ小僧の風貌が何とも可愛く、愛らしい印象さえ与えます。この位置からだと尾っぽが羽のように見える。

「摂社:稲荷神社」「摂社:天神社」。少し離れた左手の瓦の社は、竃(かまど)の神

境内右奥に並ぶ「摂社:倉稲神社」は穀物の神。「摂社:牛神社」は牛馬の病気平癒の神とされます。

かってはこの神門のうちにも、神域を守護される随神さまがいたのでしょうか?覗き込んだ訳では有りませんが、外からでは中の様子は全く窺うことが出来ませんでした。

参拝日:2010年3月2日&2020年1月1日

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豊原北島(とよはらきたじま)神社 in 岡山県瀬戸内市邑久町

2021年10月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

瀬戸内市邑久町北島に鎮座される「豊原北島(とよはらきたじま)神社」。主祭神は『応神天皇、神功皇后、媛大神』。餘慶寺の東に隣接し、神仏習合の形態を今に留めています。

「舒明天皇6年(634)豊前国宇佐より勧請、神社東の鎮座石の上にわらをとき敷いて奉祀したことから、「ときわら」が荘名の「とよはら」となったと社伝にいう。北島は往古この地が島であったことを示し、豊原荘北島に座す神社で延喜式外の古社、従五位上豊原北嶋明神・上八幡大菩薩・正八幡宮ともいわれ、平安時代には近衛天皇の勅願所・白河・後鳥羽院領の鎮守神でもあった。明治3年、豊原北嶋神社と社名を改める」神社庁HPより

表参道鳥居の左右より神域を守護されるのは、安政7年(1860)庚申6月吉日建立の狛犬さん一対。岡山県内の社寺では比較的良く目にする浪速タイプですが、天狗の葉うちわのように形よく開いた尾と、平ったい頭が特徴的な一対です。

現社殿は鎮座1300年を記念して、本殿を大正8年(1919)、他の社殿を昭和14年に、往時の様式によって改築。しかし、2002年に本殿以外を失火により焼亡。2006年に拝殿・幣殿・釣殿が再建されました。

境内社「気比(けひ)神社」。御祭神は『足仲彦(たらしなかつひこ)命、 仲哀天皇』。食物の神とされています。

お社の左右より神域を守護されるのは、扁平頭と葉団扇尾っぽの狛犬さん一対。下半身のふっくらさが親近感を抱かせます

境内社「正一位稲荷大明神」「御祭神は倉稲魂神京都の伏見のおいなりさまをお招きしたと古記にあります。もとは倉にある稲の神霊を祀ったことからはじまったといわれ、生産、商業、家内安全などの神様です。昔このところには老松がしげり狐火がよくみられて「お稲荷様のおつかい」といっていました。」案内版より

神明鳥居の奥に鎮座されるのは、境内社「天神社」『天津(あまつ)神、 菅原道真公 大富幸範(おおどみゆきのり)公』を奉ります。

児島高徳の一族、射越(いこし)・和田・今木・大富・三宅氏などにゆかりの社とされ、社殿は慶応3年(1867)の改築。もとは岡山市西大寺射越に鎮座されていました。

「東遥拝所」「昔、神社創起のとき、この山上の大岩の上にわらをとき広げて神座として神霊を奉祀したと古い社記にあります。その鎮座の石は今東の社家の邸内にうつしています。この山は古くは日待山といい日の出を拝み、太陽神の遥拝(ようはい)所でもありました。神社名ともなっています豊原という荘名は豊かな美田にという願いと神座のときわらにかかわる名だとの説もあります。」案内版より

最後は、豊原北島神社の祠官(しかん)で、国学者・歌人でもあった『業合大枝(なりあいおおえ)翁』歌碑

【まよひきの むかつ嶋根も 霞む也 常世をかけて 春や立らむ】

(眉(まゆ)を引いたように見える向うの島々も、立春の今日は霞の中に浮かんで、この世のものとも思えない眺めだ。この世だけでなく、遠い異国(常世の国)のはてまでも、春はやって来ているのだろう。)

参拝日:2012年4月25日

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餘慶寺(よけいじ) in 岡山県瀬戸内市邑久町

2021年10月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

瀬戸内市邑久町北島に門を構える天台宗寺院「上寺山・餘慶寺(よけいじ)」。三十三年に一度開帳されるという秘仏「千手観世音菩薩」を本尊とします。また、中国三十三観音霊場第二番札所、山陽花の寺二十四か寺第十六番、百八観音霊場第三番としても知られます。

天平勝宝元年(749)に『報恩大師』により開基。当初は日待山日輪寺と称され、報恩大師建立の備前四十八ヶ寺の一つとして栄えたと伝えられます。

国指定重要文化財の「本堂」は永禄13年(1570)の建立。室町時代の特色をよくあらわした入母屋造・本瓦葺の木造建築。

また、文化12年(1815)に建立された「三重塔」は、岡山県の重要文化財に指定。

瀬戸内市指定文化財の「薬師堂」は、本堂と同じ大きさの五間堂で、享保19年(1734)に再建した際の棟札が現存。その建築様式から中世の仏堂の形式を残しており、古い薬師堂の形式を継承した可能性が高いとされます。

屋根の東西に軒唐破風を持つ「鐘楼」は、嘉永3年(1850)の再建とされ、「薬師堂」と同じく市重要文化財に指定。

屋根の話題が出たところで、重要文化財の本堂にはとてもユニークな顔立ちの鬼が参拝者を出迎えてくれます。どちらも甲乙つけ難いのですが、強いて言えば「鳥衾(とりぶすま)」を頭に載せた鬼の「投げやり感」が何とも良い味。

薬師堂の向かって左隣には鎮守社として「日吉社(山王権現)」。さらに「愛宕社」が鎮座されています。それぞれに鳥居が建立されているのも、神仏習合の形態が残されている寺社らしい佇まいです。

1989年に再建された「地蔵堂」。かっては「十王堂」と称しましたが、本尊に地蔵菩薩を祀ることから地蔵堂と改名。十王は地蔵菩薩の化身とされており、地獄において亡者の審判を行う10尊を言います。

弁天池に鎮座されるのは「弁財天」。この季節、水が少ないのか酷く寒々しく見えます。

御詠歌【倹約に 身を慎みて 驕りなく たゞ良きことを すれば餘慶寺】 

上寺山の一画に、上寺山児島高徳公史跡保存会供養塔建設委員によって昭和45年に建立された「児島高徳公・和田範長一族・供養塔」があり、傍らには建立の由来書が立てられています。

要約すれば「この地に居を構えていた和田範長一族によって『児島高徳』が7歳の頃から育てられ、25歳の出陣まで住んでいた。」という事で、詳細は「上寺山 児島高徳公 和田範長一族 供養塔建立の由来」で検索して頂ければ、全文が読めます。
また『児島高徳』って誰?という方には「児島高徳 後醍醐天皇」で検索してみて下さい。備前の国に生まれた私にとって、『児島高徳』は馴染みの深い武将の一人です。

参拝日:2012年4月25日

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ご当地マンホール in 岡山県旧邑久町(瀬戸内市)

2021年10月17日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧邑久郡邑久町(おくちょう)は岡山県の南東部に位置した町です。岡山市、備前市、邑久郡牛窓町、長船町に隣接。吉井川の三角州である千町平野は県下有数の穀倉地帯であり、錦海湾に面した玉津地区は、かっては日本最大の塩田「錦海塩業」として繁栄。裳掛地区は空海ゆかりの旧跡や黒井山等覚寺、瀬戸の曙、源平ゆかりの船越、など、多くの名所を有します。画像は一本松展望台から見る玉津地区。「町の木: ウバメガシ」「町の花:ツキミソウ」を制定。

展望台に建立された万葉歌碑【 ぬばたまの  夜(よ)は明けぬらし多麻(たま)の浦に  求食(あさり)する鶴(たず)  鳴き渡るなり 】歌に詠まれた多麻の浦は、家島が見渡せる海辺(塩田跡地含む)がそうであるといわれています。

また尾張地区は重要文化財を擁する「餘慶寺」があり、『竹久夢二』や人形芝居の第一人者『竹田 喜之助』の出身地としても知られています。

山陽自動車道:瀬戸PA「竹久夢二生誕の地」

明治22年(1889)、町村制の施行により、邑久郡邑久村・福田村・今城村・本庄村・笠加村・玉津村・裳掛(もかけ)村が発足。

1952年、邑久村、福田村、今城村、豊原村、本庄村、笠加村が合併、邑久郡邑久町が発足

1954年、邑久郡邑久町が玉津村を編入。

1958年、 邑久郡邑久町が裳掛村を編入。

2004年、邑久郡牛窓町、長船町と合併、瀬戸内市邑久町となりました。

邑久町独自のデザインマンホールは無く、仕切弁等の上水道関連の規格蓋が幾つかあるのみ。「邑久」「農」の文字がある仕切弁は、千町平野農道に設置。

青く塗られた枠の中に「邑久」「仕切弁」の文字がある角型の仕切弁。

「尾張」「農」の文字がある排泥弁。「尾張」は邑久町の中心地で、現在の市役所所在地である「瀬戸内市邑久町尾張」として残っています。

中央に「お」の文字がある中型のマンホール。所見では「おく」の事かと思ったのですが、良く考えれば「おすい」の事でした。それ以外は全くの規格蓋のみという、残念なマンホール探索でした。

町章の制定月日は不明。「町名の頭文字「邑」を図案化したものです。」

邑久町の名産がデザインされた舗道タイル。邑久町虫明地区は「曙カキ」の産地として著名。「曙カキ」のブランド名は、平清盛の父・平忠盛によって詠まれた玉葉和歌集内の一首からとられました。

【虫明の 迫門(せま)の曙見る折ぞ 都の事も 忘られにけり】

生産面積一位の岡山県のピオーネ。県内では邑久町裳掛(もかけ)地区が最初に栽培に成功しました。

江戸時代から伝わる伝統工芸「虫明焼」は、岡山藩筆頭家老であった伊木家のお庭焼きを原点とする茶陶窯です。

『神功皇后』の愛馬伝説にまつわる謂れがある、邑久町玉津地区「尻海」。三韓征伐の潮待ちの折、一行は時間潰しに牛窓半島の岬に鏑矢を打つと言う余興を催す事になりました。その折に海に乗り入れた愛馬「白鷹」は船に戻れなくなり、入り江を泳ぎ何処かに行ってしまいました。「尻海」という地名は、このとき走り去る馬のお尻を見た場所「尻見」が転じたものと伝えられています。

撮影日:2013年3月27日&2018年8月17日

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ご当地マンホール~其の二 in 岡山県瀬戸内市

2021年10月16日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

瀬戸内市のマンホール~其の二では瀬戸内市になってから作成された邑久地区のマンホール、自治体章を変えただけの旧長船地区・旧牛窓地区デザインマンホールを紹介していきます。

中央に瀬戸内市市章がある邑久地区のマンホール。昭和42年頃に裳掛地区に導入され栽培が始まった「ピオーネ」と、「千町平野」で収穫される瀬戸内米の稲穂。中央に「瀬戸内市」、左下に「おく」、右下に「おすい」の文字。

倉敷マンホールサミット:展示マンホール。

邑久町玉津地区のマンホールには、邑久町尻海の「神田稲荷神社」で2年に1度開催される春祭り「だんじり巡行」の様子がデザインされています。左下に「せとうち」、右下に「おすい」の文字。

旧長船地区のマンホールには「町の花・菊」「刀鍛冶」デザインされ、自治体章が瀬戸内市市章に変えられています。左下に「おさふね」、右下に「瀬戸内市おすい」の文字。

倉敷マンホールサミット:展示マンホール。

旧牛窓地区のマンホールには「ヨット」と「本蓮寺三重塔」。周囲に「オリーブ」がデザインされ、自治体章が瀬戸内市市章、右下が「瀬戸内市うしまど」の文字に変えられています。

倉敷マンホールサミット:展示マンホール。

撮影日:2007年8月4日&12月7日&2015年8月12日

2016年3月30日:2018年8月13日

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ご当地マンホールとマンホールカード第5弾 in 岡山県瀬戸内市

2021年10月15日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

瀬戸内市(せとうちし)は岡山県の南東部・東備地域に位置する市です。2004年11月1日、 邑久郡邑久町、牛窓町、長船町が合併し、瀬戸内市が発足しました。岡山市・備前市に隣接。西部は、吉井川を挟んで岡山平野の一部を成す「千町平野」で、大半は標高100mから300mの山林。南部・東部は瀬戸内海に面し長島や牛窓諸島の島々が点在し、海岸部は瀬戸内海国立公園の区域内に指定されています。「市の木:オリーブ」「市の花:きく」「市の鳥:めじろ」「市の海産物:牡蠣」を制定。

キャッチフレーズは「100年先へ、人の輪がつながるまち」

瀬戸内市の観光プロモーションイメージソングとして作られた「ふらり瀬戸内いいきもち」。市民である義姉に聞きましたが、まるっきり知らないとの事でした😅

マンホールには、新たに市の特産品として生産が進む「レモン」と「オリーブ」がデザインされています。(駅前・観光協会・図書館前に設置。)

2004年11月1日制定の市章は「イニシャル「S」の文字をモチーフに、市の将来像である「豊かな自然と歴史を活かした交流と創造の都市〜つなぐ・いかす・つくる〜」のイメージをあらわし、新市 瀬戸内市の魅力と活力あふれる繁栄発展を表徴したものです。」HPより

瀬戸内市マスコットキャラクター「セットちゃん」。みんながドキドキワクワクしたものを、自由自在に髪型で表現しています。

撮影日:2017年8月8日&2018年8月13日

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2017年8月1日、第5弾として全国50自治体で52種類(計191自治体222種類)の マンホールカードの無料配布が 開始されました。瀬戸内市Aのマンホールカードは「瀬戸内市立美術館」受付にて頂けます。

2017年に設置開始されたマンホールには、中央に大きく「レモン」と周囲に「オリーブ」がデザインされています。

「2017年春から採用しているマンホール蓋です。 下水道をより身近に感じてもらうため、瀬戸内市が、市内の小・中学校にマンホール蓋のデザインを呼びかけ、集まったイラスト136点の中から選んだ作品(市立中船中学校・橘夢果さん作)です。 本デザインは市の名産品等について調べた学習の成果が反映されており、市内で産地化を進めている「レモン」を中心に、市の木「オリーブ」とカラフルな花をあしらった可愛らしい蓋が完成しました。 この蓋は、市内8か所(市役所本庁、JR邑久駅・JR長船駅等)に設置してありますので、ぶらぶらと気ままな蓋旅(ふたたび)を楽しんでみてはいかがでしょうか。」

訪問日:2017年8月8日

2017年11月8日、倉敷マンホールサミットにて頂いた瀬戸内市のマンホール缶バッジ。

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ご当地マンホール in 岡山県旧清音村・旧山手村(総社市)

2021年10月14日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧都窪郡清音村(きよねそん)は岡山県の南部に位置した村です。岡山市・倉敷市・総社市・都窪郡山手村・吉備郡真備町・浅口郡船穂町に隣接。「清音」の由来は、高梁川の清流を間近にみる所に位置する事から、「山水有清音」の古語にちなみ命名。高梁川の左岸、小田川との合流点に開け、古くから交通の要地であり、山陽道における高梁川の渡河地点として発展してきました。「村の木:マツ」「村の花:ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、窪屋郡黒田村・古地村・軽部村・上中島村・柿木村・三因村が合併し清音村が発足。

1900年、郡制の施行により、都宇郡と窪屋郡が合併、都窪郡となる。

2005年3月、総社市、都窪郡山手村との対等合併により新たに総社市となりました。

マンホールには「村の花:ツツジ」と「高梁川の流れ」・「二匹の鮎」がデザインされています。

村章の制定年月日は不明「「き」というかな文字を象ったもので、「き」の第一と第二画を鋭角的なV字形とし、ここに未来への限りない躍進の意味をこめています。」合併協議会資料より

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旧都窪郡山手村(やまてそん)は岡山県の南部に位置した村です。岡山市・倉敷市・総社市・都窪郡清音村に隣接。南部は山林となり北部は平地。古代吉備王国の一部であった事から古墳が多く、村の半分が「吉備路風土記の丘」県立自然公園に指定。角力取山古墳や福山合戦の舞台となった福山城跡など、数多くの遺跡が残されています。画像は明治時代に種油業を営んでいた富裕家の屋敷で「山手村郷土館」として公開されています。「村の木:マツ」「村の花:モモ」「村の鳥:ウグイス」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、窪屋郡西郡村・地頭片山村・岡谷村・宿村が合併し、山手村が発足。

1900年、郡制の施行により、都宇郡と窪屋郡が合併、都窪郡となる。

2005年3月、総社市、都窪郡清音村との対等合併により新たに総社市となりました。

マンホールは村章のない自治体名のみが表記された規格品が2枚のみ。

昭和51年3月制定の村章は、「「山て」の文字を図案化したもので、自然と史蹟に恵まれた郷土と村民の和と将来の発展を表したものである。」合併協議会資料より

撮影日:2009年9月20日

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備中国分寺:五重塔 in 岡山県総社市上林

2021年10月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

総社市上林にある真言宗御室派寺院「日照山:備中国分寺」。『薬師如来』を本尊とします。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された、備中国国分寺の後継寺院にあたります。

お恥ずかしい話ですが、ここに現存する寺院がある事、この時の参拝で改めて知りました。まぁどの観光案内を見ても、出てくるのは季節の花に彩られた「五重塔」だけ!の写真。普通に寺院があった事を考えていなかった私が物知らず過ぎたのです。

寺伝では、廃寺となっていた国分寺を天正年間(1573~1592)に「備中高松城主・清水宗治」が再興。その後衰微しますが、江戸時代中期の宝永年間(1704~1711)に再建されたと伝えられています。

岡山県指定文化財「経蔵」

折角の御縁でお参りさせて頂きましたが、何と言っても今日の目的は、国重要文化財でもある岡山県内唯一の「五重塔」。

高さ34.315メートル。南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定高さ50メートル。塔跡が残る)を焼失したのち、文政4年(1821)に位置を変えて再建を開始、弘化年間(1844~1847)に完成。

江戸時代後期の様式を濃く残すその姿は、背景を選ばない壮麗さで吉備路の景色に溶け込んでいます。

あと一月もすれば、ここは一面の黄金色に染まるでしょう。人々の命を紡いできた実りの向こうに高く聳える五重塔・・想像しただけで心が躍ります。

訪問日:2007年9月22日

国指定史跡である備中国分寺跡は、聖武天皇が天平13年(741)に仏教の力を借りて天災や飢饉から人々と国を守る「鎮護国家」を目的に建てられた官寺の一つ。その当時の境内は、東西160m、南北178mと推定されますが、南門・中門以外の建物の位置は明らかではありません。

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総社市まちかど郷土館 in 岡山県総社市

2021年10月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

総社宮南鳥居そばに建つ「総社市まちかど郷土館」。明治43年(1910)に旧総社警察署として建てられたもので、市内で現存する唯一の明治洋風建築として2006年3月に登録有形文化財として登録されました。

「敷地東面が総社宮参道に接する角地に建つ。桁行7間,梁行4間半で、寄棟造、桟瓦葺の木造2階建で、東南隅に宝形造、八角形状の塔を配す。基礎は煉瓦積、外装下見板張で、柱形や襷形を現し、開口部廻りに装飾を施す。近代の警察署の建築として貴重。」文化遺産オンラインより

花崗岩の布基礎の上にレンガ積みの基礎

館内には、備中売薬やい草関係など、明治を中心とした資料等、約1600点が展示され一般公開されています。

今回特に目を引いたのが、岡山の置き薬 として活躍した「備中売薬」。そうそう、こんな美形では有りませんが😄、我が家にも大きな行李に薬を一杯詰め込んだ薬屋さんが来てた記憶が・・。田舎の漁師町には何でも診てくれる診療所が一軒と小さな薬局が一軒だけ。定期的に家まで来て、使った薬を補充してくれる薬屋さんはとても重宝だったのです。

見覚えがあるような無いような・・・・さすがに記憶をひっくり返しても思い出せない薬の数々。多分、私の知っている時代よりもっと前なのかも。

「オロナイン軟膏」ではなく、「オロベリン軟膏」😆。そういえば我が家のご亭主殿、怪我をしたら赤チンを、もうちょっと酷い時はオロナインを塗って包帯をすれば治る!と長いこと言い張っていました。ちなみに腹痛は正露丸一点張り。どうしても相いれない部分って・・あるんですよね😔

展示内容は多岐に渡り、いずれも長い歴史の中で培われてきた本物の重みを感じさせる内容。機会があれば総社宮も含めてもう一度と願いつつ・・果たせていません。愚痴はさて置き、最後は大好きな神楽関連から

「国指定重要無形民俗文化財 備中神楽の面  安土桃山時代・神事を中心に生まれた神楽は、時代の変遷の中で、日本神話から取材脚色された・天の岩戸開き・大国主命の国譲り・須佐之男命の大蛇退治など芸能的な分野が加えられ、荒神信仰と共に農耕生活の間に広く普及しました。~」「備中神楽面製作 双葉社様」説明文より抜粋

訪問日:2009年9月20日

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