車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

総社宮(そうじゃぐう) in 岡山県総社市総社

2021年10月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

総社市総社に鎮座される「總社宮(そうじゃぐう)」。御祭神は『大名持命 (おおなもちのみこと)・須世理姫命(すせりひめのみこと)』。

相殿神に『高御産霊神(たかみむすびのかみ)・神産霊神(かみむすびのかみ)・魂留産霊神(たまとめむすびのかみ)・生産霊神(いくむすびのかみ)・足産霊神(たるむすびのかみ)・大宮売神(おおみやのめのかみ)・事代主神(ことしろぬしのかみ)・御膳神(みけつかみ)』『備中国内:延喜式神名帳記載の神社三〇四社の神 、官社十八社、国司の神名帳記載の田社:二百八六社。』備中国は現在の岡山県西部を指します。

歴史「当地には総社ができる以前、仁徳天皇の皇妃・八田皇女の名代として八田部(八部)が設けられたという。のち御友別(応神天皇妃の兄)の子孫が当地に移住し国造となり、野俣神社(現 境内社の沼田神社)を建て周辺一帯の総社とした。大化後、当地に備中国総社が創建。室町時代には戦火に遭って社殿が焼失、1429年に再建。天正年間(1573年-1592)に再び焼失、貞享4年(1687)に再建され、彩色二十四孝の絵馬が奉納された。」Wikipediaより

南参道鳥居の左右より神域を守護されるのは、文化2年(1805)乙丑冬12月建立の狛犬さん。備前・備中地方の神社ではお馴染みの、扁平頭と波口が何とも可愛い一対。

日本の律令制において、国司着任後の最初の仕事として、赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することが義務付けられていました。しかしその為に要する時間・人員はかなりの負担であった事から、平安時代になってこれを効率化するため、国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化されたのが「惣社(そうじゃ、すべやしろ)」の始まりとされています。

やがて国司が力を失うとともに多くの国々で総社は廃れていきますが、備中国の総社は、全国的にも珍しく現代までその姿が維持され、祭られている祭神の数や社殿規模は全総社中、最大とされています。・・三百二十四社への参拝が一社ですむ・・これ以上の効率化は無いですね😊

東参道回廊の前より神域を守護されるのは、ちょっとふくよか系で扁平頭の狛犬さん一対。体系の所為か顔立ちの所為なのか、ずいぶん幼く見えます。

南参道から拝殿へと続く回廊。ここは人気の撮影スポットなんだと、居合わせた人が教えてくれましたが、確かに美しい。多分そこに居るのが誰であっても絵になる光景だろうと思います。

回廊の中ほどに作られた随神門

拝殿正面、回廊の梁に奉納された「天ノ岩戸開キ神々」の神楽面。ちなみに神楽での「天ノ岩戸」は私の大好きな演目の一つ。神楽団によって微妙に違いはあるものの、桶の上で軽妙に拍子をとりながら踊る『天宇受売命』に魅了されています。

後楽園の築造に際して参考とされた三島式庭園:沼田池。古代の様式を今に伝えた佇まいは、木立の影を落としこむ水の色とあいまって、神秘的でさえあります。

石橋の先に祀られるのは「境内社:厳島神社」

沼田池南に鎮座されるのは式内社・野俣神社の論社とされる「境内社:沼田天満宮」。その右手に鎮座されるのは「笑主(えがす)神社」。「えびす」ではなく「えがす」とカナがふられていました。

後になって見返してみれば、参拝できなかった境内社のなんと沢山残された事・・大好きな狛犬さんでさえ撮りこぼしています。前もって下調べをしていないと往々にしてある事なんですが、それにしてもねぇ😅

1994年10月24日、総社宮境内は「史跡:総社跡」として、総社市指定文化財に指定されました。

参拝日:2009年9月20日

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ご当地マンホール in 岡山県総社市

2021年10月10日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

総社市(そうじゃし)は岡山県の中南部に位置する市です。2005年3月22日、総社市(初代)、都窪郡山手村、清音村が新設合併し、新たに総社市が発足しました。岡山市、倉敷市、井原市、高梁市、加賀郡吉備中央町、小田郡矢掛町に隣接。市域を北西から南に高梁川が貫流し、北部・西部は吉備高原の南部にあって丘陵地帯を形成。市街地の中央部は元来、高梁川の氾濫原で小盆地を形成。古来より吉備国の中心地域であり、吉備分国後は備中国の国府が置かれ、国府が廃れた後も、備中国総社宮の鳥居前町・街道の宿場町・浅尾藩の陣屋町として栄えてきました。この頃の正式な地区名は「八部(やたべ)」ですが、総社宮を中心に町が構成されていた事から通称「総社」と呼ばれ、これが町の名の起源とされます。桃太郎伝説のモデルとされる吉備津彦命と鬼神・温羅の伝説が古来より残り、温羅の居城でもある「鬼ノ城」跡、また、画聖・雪舟の生誕の地でも知られ、備中国分寺や大小多数の古墳など遺跡・史跡が非常に多く、「備中国分寺の五重塔」は、観光地吉備路のシンボルとして有名です。「市の木:モミジ」「市の花:レンゲ」「市の鳥:タンチョウ」を制定。

キャッチフレーズは「地域・文化・自然が支える心豊かな生活交流都市」

明治初期、賀陽郡八部(やたべ)村・刑部(おしかべ)村、小寺村の一部が合併し、賀陽郡総社村が発足。

明治22年(1889)、町村制の施行により、賀陽郡井手村と合併。第二次賀陽郡総社村が発足。

賀陽郡服部村・阿曽村・浅尾村・池田村・日美村 ・富山村が発足。

下道郡昭和町・新本村・山田村・久代村・秦村・下倉村・水内村・神在村、窪屋郡三須村・常盤村・日美村・富山村が発足。

1896年、総社村が町制を施行、賀陽郡総社町となる。

1900年、郡制の施行により、窪屋郡と都宇郡が合併し都窪(つくぼ)郡に。賀陽郡と下道郡が合併し吉備郡となる。

1908年、吉備郡総社町が浅尾村と合併。

1951年、吉備郡総社町が服部村、神在村と合併。

1952年、吉備郡下倉村、水内村、日美村、富山村が合併、吉備郡昭和町が発足。

1954年、吉備郡総社町が秦村、都窪郡三須村と合併。

1954年、吉備郡総社町が新本村、山田村、久代村、池田村、阿曽村、都窪郡常盤村と合併、総社市が発足。

1972年、 吉備郡昭和町を編入。

数多くの歴史的観光資源を有する総社市ですが、マンホールに独自のデザインは無く市章だけの規格蓋です。

昭和29年(1954)10月23日に制定された市章は「「そ」の字を模様化したもので、上部は、総社宮の千木とカツオ(鰹)木を象徴し、下部は市民の和と団結、円満な市政と堅実な発展を希うものである。」公式HPより

市章はありませんが自治体名が表記された消火栓。

1954年以前の井戸式消火栓の角蓋。町名には、総社宮の正式名称であった「總社町」の文字が使われています。

撮影日:2009年9月20日

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荒神社 in 岡山県早島町前潟

2021年10月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

早島町前潟に鎮座される「荒神社」。御祭神は『火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)』

〆柱のうちより神域を守護されるのは、柔らかな毛先を思わせる狛犬さん一対。独特の幼さを感じさせる風貌は獅子のようにも見え、その四肢は力強く台座を踏みしめています。

境内に由緒等は無く創建等は不明。荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んだと言われています。各県の荒神社の数を挙げると、岡山がダントツの多さで200社、次いで広島140社、島根120社(兵庫:110社、愛媛:65社、香川:35社、鳥取:30社、徳島:30社、山口:27社)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めています。

境内には小さな石の祠が鎮座されていますが、これも地荒神と呼ばれる神の社でしょうか。

荒神社の近くに祀られていた地蔵様、それが荒神社と共に祀られたものであるのか、全く別の意図で建立された像なのか不明。

お地蔵様の側には「吉備津稲荷・金毘羅由加田の口」への道標が残されています。撫川から早島を結ぶ道は「鴨方往来」と呼ばれていましたが、この道標もその名残かもしれません。

境内入り口にあった「舟本津出場(港)跡」の案内には、かって早島町が、い草=早島とされるほどの全国的な知名度を誇った頃、この港からい草を加工した畳表などが積み出された事。汐入川を何艘もの帆掛け舟が出入りしていた為、相当の賑わいがあった事などが、古地図と共に記されています。

参拝日:2010年8月10日

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ご当地マンホールとマンホールカード第10弾 in 岡山県早島町

2021年10月08日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

都窪郡早島町(はやしまちょう)は岡山県南中央部に位置する町です。岡山市、倉敷市に隣接。町名の通り室町時代以前は島でしたが、干拓により地続きに。南部は干拓地で岡山平野の一部を形成、中央部にかつて島であった丘陵があり、北部も同じく丘陵。江戸時代、早島は「干拓のまち」「い草のまち」「旗本の陣屋まち」「金毘羅往来のまち」として栄えてきました。町内にある瀬戸中央自動車道・早島インターチェンジは、日本で一番面積が広いICです。「町の木:カイヅカイブキ」「町の花:サツキ」を制定。

キャッチフレーズは「風格ある往来ロマンのまち早島 高福祉社会のオアシス都市」・・・以前調べた時は「はやしま 夢織る町」だったのですが、時代と共に変わっていくようです。

明治22年(1889)、町村制の施行により、都窪郡早島村・矢尾村・前潟村が合併、都窪郡早島村が発足。

1896年、早島村が町制を施行、都窪郡早島町が発足。

マンホールには岡山と四国とを結ぶ「瀬戸大橋」、そして手を繋ぎあう人々がデザインされています。

児島湖流域下水道浄化センター・展示蓋

倉敷マンホールサミット会場:展示蓋

昭和62年(1987)3月9日制定の町章は「「早」を図案化したもので、昔ここが島であった事を全体の形で表しています。」公式HPより

戦国時代の終わりごろ、早島町南部に築かれた汐止め堤防「宇喜多堤」。築堤420周年記念事業イメージキャラクターとして誕生した『うっきー』は、 備前宰相と言われた『宇喜多秀家公』がモデル。でも、戦国の貴公子に「うっきー」って・・😅

   

撮影日:2010年8月10日&2017年4月5日&2019年8月14日

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2019年8月7日、第10弾として全国61自治体で61種類(累計455自治体539種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「早島町」のマンホールカードは、「早島町町民総合会館「ゆるびの舎」」でいただけます。

1998年に設置開始されたマンホールには「瀬戸大橋」と「早島」の文字がデザインされています。

「1991年から採用しているマンホール蓋です。 1985年頃から下水道整備を開始し、下水道をより身近に感じていただくため、町民の皆様からマンホール蓋のデザインを公募し、集まったイラスト270点の中から選ばれた作品です。本デザインは真ん中に瀬戸大橋のイラストと「早島」の文字を配し、外周には町民の輪がそれをしっかりと支えている姿が描かれています。このデザインは町民が団結して未来の早島へ向かって突き進むことをイメージして図案化されたものです。 この蓋は早島町内各所(役場、早島駅前等)に設置していますので探してみてください。」

訪問日:2019年8月14日

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ご当地マンホール in 岡山県旧真備町(倉敷市)

2021年10月07日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧浅口郡船穂町(ふなおちょう)は高梁川の西岸に位置した町です。倉敷市、総社市、浅口郡真備町に隣接。町域南部は平坦ですが、北部は丘陵となっており、モモ・温室栽培マスカット、スイートピーなど果樹・花卉の栽培を中心とした農業が盛ん。また、2003年より「ふなおワイナリー」が開設され地元産のマスカットを主原料としたワイン作りが営まれています。「町の木:ヤマザクラ」「町の花:バラ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、浅口郡船穂村が発足。

1940年、船穂村が町制を施行、浅口郡船穂町が発足。

2005年、吉備郡真備町と共に倉敷市に編入。倉敷市船穂町となりました。

マンホールには「町の木 :ヤマザクラ」の中に、特産のマスカットがデザインされています。

倉敷市の市章に変わった旧船穂地区のマンホール。

倉敷マンホールサミット展示蓋

昭和43年(1968)9月20日制定の町章は「円満、健康、勤勉を表し、将来に向かって益々多幸なる発展を表現したものです。」合併協議会資料より

撮影日:2010年9月20日&2017年4月3日

 

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ご当地マンホール in 岡山県旧真備町(倉敷市)

2021年10月06日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧吉備郡真備町(まびちょう)は高梁川の西岸に位置した町です。倉敷市、総社市、浅口郡船穂町、小田郡矢掛町に隣接。町の北東部は高梁川西岸に、地区の南北端は丘陵となっており、その丘陵間は比較的広い平野部で中央部を高梁川支流の小田川が東流し、地区南東端で高梁川と合流。丘陵には竹林が多くタケノコが特産品として有名。また奈良時代の豪族『吉備真備』の出生地としても知られており、真備の町名はそこから付けられました。「町の木:竹」「町の花:サツキ」を制定。

明治33年(1900)、町村制の施行により、吉備郡箭田(やた)町・呉妹(くれせ)村・二万(にま)村・薗(その)村・大備(おおび)村・穂井田村が発足。

1952年、箭田町、呉妹村、二万村、薗村、大備村が合併、吉備郡真備町が発足。

1956年、真備町が吉備郡穂井田村大字服部の一部を編入。

2005年、浅口郡船穂町と共に倉敷市に編入合併、倉敷市真備町となりました。

マンホールには、竹の町・まきびの里をアピールする「マービーちゃん」と、「町の木:竹」「町の花:サツキ」がデザインされています。

倉敷市の市章に変わった旧真備地区の親子マンホール。

昭和52年(1977)10月1日制定の町章は「天平文化の象徴である八角堂と「マビ」を意匠化し、伸びゆく町を象徴。発展、力強さ、民主性、調和を表したものです。」合併協議会資料より

撮影日:2009年9月20日&2017年4月5日

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ご当地マンホールとマンホールカード第12弾 in 岡山県倉敷市

2021年10月05日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

倉敷地区の南に位置する水島地区。施設名や地域通称であった水島の名が、初めて行政上正式な地名となったのは、1951年に旧連島町内で区画整理事業が行われ、水島の名が住所表記として採用された事に始まります。水島地区の南部は、コンビナートが広がり自動車や鉄鋼などの製造業を支える、西日本有数の工業地帯。、一方、水島地区北部の連島地域と福田地域は、良質な土壌と高梁川の水に恵まれ、ブランド化されたごぼうや、レンコン、生姜の栽培など農業が盛んなエリアとなっています。倉敷市水島東千鳥町にある水島臨海鉄道は全国的にも珍しい貨物と旅客を輸送する西日本では唯一の臨海鉄道です。

マンホールには導入予定の「貨物機関車DD200形式」と「ヒマワリ」、「 水島臨海工業地帯」がデザインされています。

「水島臨海鉄道の頭文字をとったオリジナル車両MRT300形式」と「ヒマワリ」「水島臨海工業地帯」がデザインされています。

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岡山在住の義姉よりマンホールカードが届きました。

2020年7月1日、第12弾として全国53自治体で62種類(累計535自治体667種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため配布延期となっていた倉敷市Dは、2020年7月3日よりの配布。  「倉敷市D」のマンホールカードは「水島臨海鉄道 水島駅」でいただけます。

2020年に設置開始されたマンホールには「水島臨海工業地帯」と「キハ205号」、「ひまわり」がデザインされています。

「瀬戸内海に臨む水島臨海工業地帯と倉敷市中心部を結ぶ水島臨海鉄道は、2020年に営業開始から50周年を迎えました。 発足当時運航していた蒸気機関車の汽笛音に由来する「ピーポー」という愛称で、今も地元の方や鉄道ファンに親しまれています。 この蓋は、「キハ205号」という車両をデザインしており2017年3月に引退するまで30年以上にわたり活躍しました。 現在の主力車両は「MRT300」で、公募により選定されたひまわりが車両に描かれています。 本鉄道の車両とひまわりをデザインした蓋は全部で3車両。 他2種類は、倉敷市駅と栄駅の駅前に設置していますので探してみて下さい。」

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ご当地マンホールとマンホールカード第6弾 in 岡山県倉敷市玉島

2021年10月04日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

倉敷市西部に位置する旧玉島市は、江戸時代に干拓により築かれた玉島新田や阿賀崎新田に位置します。市域平野部は、江戸時代初めごろまで七島・柏島・乙島などの島々に囲まれた甕ノ海(もたいのうみ)と呼ばれた内海。八島から道口一帯は甕ノ泊といわれた天然の良港であり、中世から備中国の海の玄関として発展してきました。江戸時代初期に玉島港(阿賀崎港)が開かれてからは、「山陽の小浪華(こなにわ)」と呼ばれ、岡山県西部を代表する港町として繁栄。今でも玉島の町の中には、問屋や船着場の跡などが残され、岡山県指定町並保存地区に指定。また、万葉集に「玉の浦」と読まれた沙美地区は、明治15年(1882)に日本最初の海水浴場が開場された事でも知られます。画像は倉敷市玉島地区にある「羽黒神社」の鳥居。

明治22年(1889)、町村制の施行により、浅口郡玉島村・阿賀崎村・乙島村・柏崎村・長尾村・溝口村・池田村・水口村・黒崎村が発足。

1897年、玉島村、阿賀崎村が合併、玉島町(初代)が発足。

1902年、玉島町、乙島村・柏崎村が合併、新たに玉島町(2代)が発足。

1903年、池田村、水口村が合併、浅口郡富田村が発足。

1925年、長尾村が町制を施行、浅口郡長尾町が発足。

1952年、浅口郡玉島町が市制を施行、玉島市が発足。

1953年、玉島市が浅口郡富田村・黒崎村・長尾町を編入。

1956年、玉島市が吉備郡穂井田村(服部の一部除く)を編入。

1967年、倉敷市・児島市と対等合併、倉敷市玉島となりました。

干拓としてスタートした玉島地区のマンホールには、繊維産業の礎とも言える綿花がデザインされています。

資料がない為確証はありませんが、市制が施行された昭和27年に制定されたと思われる市章。「玉の中央に円を置く事で「玉 島」を現したもの」と思われます。

玉島地区のご当地キャラクター『たまべぇ』。ネーミングからして「おたまじゃくし」っポイのですが、はてさて・・?その正体は。

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2017年12月9日、第6弾として全国64自治体で66種類(計252自治体293種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「倉敷市C」のマンホールカードは、「旧柚木家住宅(西爽亭)」でいただけます。

2017年に設置開始されたマンホールには「綿花」がデザインされています。

「倉敷市が3市合併(旧倉敷市・児島市・玉島市)から50周年を迎えた平成29年、「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」のストーリーが、日本遺産に認定されました。 干拓地で始まった綿花栽培はやがて、繊維産業へと発展。 倉敷を世界に誇る「繊維のまち」に成長させるとともに、江戸時代の伝統的な商家群と明治時代以降の洋風建築が調和する町並みを創り出す礎となりました。 本マンホール蓋は、なまこ壁のイメージを背景に、綿花を描いたもの。 市内には各地区の特色を表現した蓋が10種類以上ありますので、日本遺産のストーリーを紡ぐ31の文化財とともにお楽しみください。」

訪問日:2017年11月18日

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マンホールサミット in 岡山県倉敷市

2021年10月03日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

2017年11月18日、倉敷公民館にて中四国地方では初となる「マンホールサミット倉敷 文章を紡げ マンホーラー」が開催されました。

この日のため、前日に岡山在住の兄宅にお泊りをして準備も万端。当日は生憎の雨。にも拘らず長蛇の列で開催場所の画像を残せなかった為、別の日に写したものを・・。

開始と共に、サミット会場で一人一枚配布されたマンホールカードと、マンホールデザインの缶バッジ。

配布されたカードはサミットでの限定バージョン。裏面の配布場所地はサミット会場となった「倉敷公民館」。写真には「倉敷館」が使われています。

マンホールカードの生みの親と言っても過言ではない、憧れのマエプロの『山田秀人』さんに遭遇して、ドキドキの記念写真😍

会場内では中国地方各地のデザインマンホールの特別展示&カードの特別配布もあり、思いがけない地域のカードを頂いてニコニコ。

マンホールのデザインをそのまま生かしたオリジナル玄関マットの展示・・流石にこれを踏めるマンホーラーはいない気がする😅

開催時間までを利用して各種のイベントにも参加。

倉敷市のデザインマンホール(新品です)を使った「マンホールdeホットケーキ」、美味しく頂きました。

岡山県内のマンホールが大集合。芝生の上に展示されたマンホールは・・先ほどまで降り続いていた雨の為にコンデションが今ひとつ・・え~~~い、お気に入りのハンカチの一枚や二枚!!

矢掛町から駆けつけてくれた矢掛観光大使の『やかっぴー』と記念撮影をして、矢掛町のマンホールカード頂きました!あ、手前のフグ君は、義姉の為&私の強引なお願いで一緒に参加した兄で~~す。

そうこうしているうちにサミットの開催時間。早目に並んだお陰で三人一緒に前の席に座る事が出来ました。倉敷市長の挨拶、国交省担当者の挨拶に続いて、プロマンホーラー各氏のトーク―、面白イベントに特別プレゼントありと、驚くほどの速さで時間が過ぎて・・

会場の空気に少し酔ってしまって息抜きに外に出た所で、岡山市下水道シンボルキャラクター『モグリン』に遭遇。今更ながらのマンホーラー認定されました😄

8時前に義姉の家を出て只今16時30分。楽しい時間は何故か時計の針がいつもより早く進むみたい。最後は会場の全員で合言葉「繋げよう!マンホーラー」

会場を後にして車に帰りかけた私たちに見知らぬ誰かが記念にとシャッターを押してくれました。兄は奥さん(義姉)の為にせっせと貰い集めたカードの枚数にホクホク😊。男性陣諸君、今日は長時間付き合ってくれて有難うね😄

訪問日:2017年11月18日

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下津井:町歩きin倉敷市下津井

2021年10月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

旧児島郡下津井町(しもついちょう)は、かって児島半島の西南端に位置した町です。下津井、吹上、田之浦、大畠の各大字からなり、瀬戸内海沿岸の丘陵地にあり、古くから港町として繁栄してきました。東部に名峰・鷲羽山を擁し、1954年に西日本で最初の旧石器時代の石器を発見、さらに古墳時代(6世紀)の古墳が現存し、平安時代(927)創建の「式内社:田土浦坐神社」が鎮座されます。街中には江戸時代に廻船問屋や遊廓が軒を並べた頃の面影が残されており、岡山県によって町並み保存地区に指定されています。

タコ漁が盛んな下津井では、「下津井蛸」を使った料理や、天日干しで作る干しダコが人気。輸入もののタコとは全く別物、一度食べるとその何ともいえない柔らかい味わいの虜になること請け合いです。

水産庁が2006年に発表した「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」において、全国の漁村に残る歴史的・文化的に価値の高い施設や史跡などの文化遺産を公募により募集。応募のあった350件から、地域固有の漁業文化や珍しい建築工法・形状などを基準として選定委員会により選定。岡山県では「むかし下津井回船問屋」と「大多府漁港元禄防波堤」が選定されました。

歴史文化財として認定された「むかし下津井回船問屋」。現在は観光の拠点として活用される他、廻船問屋であった当時の建物内部の様子なども公開され、時間を忘れて楽しめます。

天然の良港に恵まれ、古くから「風待ち・潮待ちの湊」として奈良時代・平安時代の文献にもその名が残る下津井。

江戸時代から明治時代にかけては北前船の寄港地として栄え、金比羅参りの渡し場としても賑わった下津井。地名の由来は「吉備児島の下の津」。かつての中心であった郷内地区からもっとも下に位置する港の意味であると云われています。

漁業で栄えた町並みはどこか懐かしく、角を曲がるごとに遠い日の記憶を静かにゆすり起こして、又ふっと遠ざかります。初めて見た景色なのに、なぜかしら涙ぐみそうになるこの不思議な感じは・・何処から来るのか。

ああ、それはきっとこの町の全部に広がる、漁師町独特の海の匂いの所為かもしれない・・少し油っぽくて雑多な何かが混ざった潮の匂い・・路地の匂い。生まれてから慣れ親しんできた町の匂い、家族の匂い。そう、今はもうなくなってしまった我が家の匂いが思い出されるからなのです。

地域の足でもある「下電バス:とこはい号」のバス停。鷲が描かれているので「とこはい」も鷲羽山に関係のある言葉と思ったのですが・・・・実はこれ、「下津井節」の一節に登場する言葉なのです。かっては大きな遊郭もあった下津井。馴染みのお客とその相手をするお女郎さんが「とこはい=床を這う」・・まぁいわゆるその・・18禁な意味でした😅

刻一刻と夏の輝きを失っていく空の下、遠くに見えるあの瀬戸大橋の袂まで行ってみたかったな。今度来る時はね・・・そんな会話を繰り返して、「今度」の場所はどんどん増えていくのです。夕日に染まり金色に輝く海に見送られ、私たちは家路を急ぎます。

訪問日:2009年9月21日

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