前回の終わりに「元気のあるアメリカ経済、元気のない日本経済」、「さてこの経済活動の元気さの違いは何処から来るのでしょうか」と書きました。
という事で、いつも気になっていることを2つ挙げておきたいと思います。
一つはかなり長期的なもので、官民ともにその病理に侵されている問題です。
事の起こりは基本的にはプラザ合意(1985)です。
1980年代、当時絶頂にあった日本経済は、円高(1$=240円→120円)という環境変化の本質に気が付かないままに、真綿で首を絞められるように経済活動のやりにくさ苦しみました。
しかし、政府も日銀も、強いられた円高に対抗する手段を知らず、ただコストを下げ、身を縮め、縮小均衡で対応するだけでした。
2000年代に入って、塗炭の苦しみの先に、微かに明かりが見えた(コストダウンに6割ほど成功)中で頑張る日本経済に決定的なダメージを与えたのは、リーマンショックによる更なる円高(1$=75~80円)でした。
「コストダウンに頑張れば頑張るほど円高になる」という現実の中で、日本経済は進むべき方向感覚を失ってしまったようです。
この間30年余、政治家も企業の経営者も1世代を過ぎ、円高にもがき苦しんだ経験に苛まれた世代がリーダーにという回り合わせになってしまったようです。
その結果、現在不要なものはなるべくそぎ落として、まずは今日の生活だけに配慮するという風潮が、政治にも、企業経営にもかなり一般化したようです。
政治も、今いらないものは削減する、例えば、将来のための研究開発予算の削減、コロナ問題でいえば、保健所の数は大幅削減されていました。雇用面では、日経連の提唱した「雇用ポートフォリオ」が非正規雇用拡大いに利用され、人件費の削減に貢献したようです。
こうした政治家や産業人の「今日の生活を凌ぐことが大事」という近視眼的な思考は、30余年の間に、本能的なレベルにまでなって来ているようです。
コロナ対応が、後追いとバラマキに終始しているのも、その結果のように見えます。
一方アメリカを見てみますと、経済も財政も赤字を垂れ流しながら、研究開発から国民生活(賃金引き上げ消費行動まで、活発で、新技術も科学技術から企業活動まで、(良くも悪くも)元気で、GAFAやテスラが世界で活躍、ワクチンでも世界から信頼される元気と力を持っています。(もちろん基軸通貨国だから出来るという事でしょうか)
日本で事情が変わったのは、2013年、アメリカも日本のあまりの惨状に問題を感じたのでしょうか、日銀がバーナンキ流の金融緩和策を取り、円高の為替レートを購買力平価に近い水準まで正常化できた事からです。
このブログでは、これで日本の政治も、企業行動も、国民の意識も、かつての自信を持って前を向いていた日本に戻るという復元現象が起きるだろうと思っていました。
しかし、30余年、人間の一世代の間、縮小均衡ばかりを追い続けた経験は、すでに今の中枢の年齢層の習性にまで進化したのでしょうか、容易に変わらないようです。
この点、第2の問題点、国民の生活意識の変容を齎します。
国民生活は、政府や企業の行動様式に大きな影響を受けるのは当然でしょう。
為替レートは正常に戻り、外国から見れば日本は物価の高い国ではなくなりました。
しかし日銀は、常に円高を恐れ、ゼロ金利はいつまでも「当分の間このまま」です。
政府は当面の糊塗策としてのバラマキばかりで、世界トップクラスの債務を背負いながら財政再建は実質放棄、年金財政は審議会の答申の受け取り拒否などで、国民に将来不安、特に高齢化の中で、老後不安を煽る役割を演じてしまっています。
雇用政策では「働き方改革」の名で、企業に雇用の不安定化を認め、企業は、国内情勢の先行き不信からか「投資するなら海外で」という指向を強め、GDPは増えず、第一次所得収支(海外からの利子・配当収入など)の著増を見る状況です。
こうした中で、国民の家計は不安定雇用と低迷する賃金収入の下、将来不安・老後不安に備えて貯蓄に励み、まさに「自助努力」の結果として極端な消費性向の低下、消費不振による経済成長へのブレーキという悪循環をつくりだしてしまっています。
この悪循環への無策こそが、「勢いのない日本経済」の元凶ではないでしょうか。
この絡み合った2つの問題、政府、企業の近視眼化、国民の自衛本能による消費抑制・貯蓄志向という現状を、問題の本質に遡って解きほぐし、国民の安心と自信を取り戻さない限り日本経済は多分低迷から抜け出せないのではないでしょう。
岸田政権には能くその課題を克服し、日本の元気回復を実現してほしいものです。
という事で、いつも気になっていることを2つ挙げておきたいと思います。
一つはかなり長期的なもので、官民ともにその病理に侵されている問題です。
事の起こりは基本的にはプラザ合意(1985)です。
1980年代、当時絶頂にあった日本経済は、円高(1$=240円→120円)という環境変化の本質に気が付かないままに、真綿で首を絞められるように経済活動のやりにくさ苦しみました。
しかし、政府も日銀も、強いられた円高に対抗する手段を知らず、ただコストを下げ、身を縮め、縮小均衡で対応するだけでした。
2000年代に入って、塗炭の苦しみの先に、微かに明かりが見えた(コストダウンに6割ほど成功)中で頑張る日本経済に決定的なダメージを与えたのは、リーマンショックによる更なる円高(1$=75~80円)でした。
「コストダウンに頑張れば頑張るほど円高になる」という現実の中で、日本経済は進むべき方向感覚を失ってしまったようです。
この間30年余、政治家も企業の経営者も1世代を過ぎ、円高にもがき苦しんだ経験に苛まれた世代がリーダーにという回り合わせになってしまったようです。
その結果、現在不要なものはなるべくそぎ落として、まずは今日の生活だけに配慮するという風潮が、政治にも、企業経営にもかなり一般化したようです。
政治も、今いらないものは削減する、例えば、将来のための研究開発予算の削減、コロナ問題でいえば、保健所の数は大幅削減されていました。雇用面では、日経連の提唱した「雇用ポートフォリオ」が非正規雇用拡大いに利用され、人件費の削減に貢献したようです。
こうした政治家や産業人の「今日の生活を凌ぐことが大事」という近視眼的な思考は、30余年の間に、本能的なレベルにまでなって来ているようです。
コロナ対応が、後追いとバラマキに終始しているのも、その結果のように見えます。
一方アメリカを見てみますと、経済も財政も赤字を垂れ流しながら、研究開発から国民生活(賃金引き上げ消費行動まで、活発で、新技術も科学技術から企業活動まで、(良くも悪くも)元気で、GAFAやテスラが世界で活躍、ワクチンでも世界から信頼される元気と力を持っています。(もちろん基軸通貨国だから出来るという事でしょうか)
日本で事情が変わったのは、2013年、アメリカも日本のあまりの惨状に問題を感じたのでしょうか、日銀がバーナンキ流の金融緩和策を取り、円高の為替レートを購買力平価に近い水準まで正常化できた事からです。
このブログでは、これで日本の政治も、企業行動も、国民の意識も、かつての自信を持って前を向いていた日本に戻るという復元現象が起きるだろうと思っていました。
しかし、30余年、人間の一世代の間、縮小均衡ばかりを追い続けた経験は、すでに今の中枢の年齢層の習性にまで進化したのでしょうか、容易に変わらないようです。
この点、第2の問題点、国民の生活意識の変容を齎します。
国民生活は、政府や企業の行動様式に大きな影響を受けるのは当然でしょう。
為替レートは正常に戻り、外国から見れば日本は物価の高い国ではなくなりました。
しかし日銀は、常に円高を恐れ、ゼロ金利はいつまでも「当分の間このまま」です。
政府は当面の糊塗策としてのバラマキばかりで、世界トップクラスの債務を背負いながら財政再建は実質放棄、年金財政は審議会の答申の受け取り拒否などで、国民に将来不安、特に高齢化の中で、老後不安を煽る役割を演じてしまっています。
雇用政策では「働き方改革」の名で、企業に雇用の不安定化を認め、企業は、国内情勢の先行き不信からか「投資するなら海外で」という指向を強め、GDPは増えず、第一次所得収支(海外からの利子・配当収入など)の著増を見る状況です。
こうした中で、国民の家計は不安定雇用と低迷する賃金収入の下、将来不安・老後不安に備えて貯蓄に励み、まさに「自助努力」の結果として極端な消費性向の低下、消費不振による経済成長へのブレーキという悪循環をつくりだしてしまっています。
この悪循環への無策こそが、「勢いのない日本経済」の元凶ではないでしょうか。
この絡み合った2つの問題、政府、企業の近視眼化、国民の自衛本能による消費抑制・貯蓄志向という現状を、問題の本質に遡って解きほぐし、国民の安心と自信を取り戻さない限り日本経済は多分低迷から抜け出せないのではないでしょう。
岸田政権には能くその課題を克服し、日本の元気回復を実現してほしいものです。