東京大学運動会ヨット部

東大ヨット部の現役部員によるブログです。練習の様子、レース結果、部員の主張から日記まで。

今までの人生で一番楽しい時間でした

2022年12月22日 00時19分52秒 | 引退ブログ
どうも。LB1monthの藤田郁と申します。




古山クンの鬼長引退ブログでハードルがあがってしまい、みんなのほとぼりが冷めるまで待つことにしたら、自分のほとぼりも冷めてしまい、こんなに遅くなってしまいました。すみません。ところどころ雑ですが許してください。







2019年4月、上クラの中野さんのアタックを受け、試乗会に行きました。中野さんは新歓のプロだったので、ボート部のスタッフで心が決まりかけていたくれはを誘って一緒に来るよう命じてきました。同じクラスで、すでに入部していた調べクンから「ヨット部には女子プレーヤーが必要なんだ」というアツい新歓を駒場の食堂で受けたりもして、レスキューの運転も楽しかったし、入部することになりました。


1年生八景練がはじまって、ムキムキのしっかりしてる先輩に、ホッパーの艤装を教えてもらいました。その日の午後に、それが工藤クンという同期だったことを知りました。


ホッパーに山本パパや古関さんと乗って、いろはを教えてもらって、1人で乗りはじめたら、もうあっという間にヨットに夢中になりました。沈は怖かったし、出着艇はやりたくなかったけど。
土日が楽しみで、そのおかげで平日の勉強も捗るくらい、ヨットが、ヨット部が好きになりました。




サポートの間は、ヨットレースのこともイマイチよく分からずに1日レスキューに乗ってました。眠いときもあったけど、つまらないということもなくて、同期よんななまラーズと一緒に3年後こうなってるんかねぇ、と合同コース練をながめていました。



代交代後、470に乗り始めて、スキッパー初日の最初のタックで沈して、そのとき一緒に乗っていたちかさんはその先が思いやられて絶望したと思いますが、大丈夫大丈夫!と明るく励ましてくれました。ここで舌打ちとかされていたら今のわたしはなかったかもしれません。こんな下手っぴが自主練したいと言ってもずっと来てくれ続けた、470クルーの先輩たちの横顔(クローズ帆走中)がかっこよくて。自分が先輩になってもこうなろう、とこのとき心に誓いました。


この時期はひたすら腕の筋力との戦いです。1月オフに怠けていたせいで、2月の最初の練習で腱鞘炎になり、強風の日はメインシートを持つだけで痛い状態が続きました。おじいちゃんの家の近くの外科医(のちにヤブ医者と知る、)には、2週間は安静にしろと言われました。でもこの最初の大事な時期に同期と差がつくことだけは嫌だったので、無視して乗ってました。翌週に家の近くの整骨院に行ったら、サポート器具を使ってヨットに乗り続けられる方法を考えてくれました。あのときヤブ医者の言うことを律儀に聞かなくてよかったです。


中風以下の風のセーリングが好きになりました。なのにこの年の八景レースも東北大戦も南風爆風で、セールを破いたりレース中に沈したりで、心の中でずっと「練習とちがーーーう!!」と叫んでました。でも、この普通に生きていたら絶対にしないような経験をして、命からがら陸に戻ってきたときの、人生の糧になった感が、ちょっとだけ好きでした。これからピンチに瀕する時があっても、ちょっとだけ、過去から力を分けてもらえる気がします。





活動停止になってからは、毎日走って、たまに料理して、週2のミーティングに出て、二重跳びをしていました。50回連続で飛べるようになってやめました。でも、いつ終わるかも分からない状況に耐えられなくて、6月はほとんど家から出ませんでした。ずっとドラマを見てました。


活動再開して、初日に熱中症でぶっ倒れたりしながらも、太陽の下、海の上でセーリングできることが純粋に幸せで、ずっとエンジョイセーリングをしていました。セーラーっぽくなりたくて、裸足で470にのっていました。(日焼けが痛くて嵩のある狭いお風呂にVの字で入らなければならなくなって、面倒だったのでやめました)


あれよこれよという間にやってきた秋インは、わたしはハーバーにも入れず、家から入部したての1年生とzoomをつないで、オンラインたまやをしました。爆風の2レース決着で、数点差で全日本にいけなくて、そして天木さんの代最後のミーティングも、みんな号泣していたらしいけれど、参加できず、そのまま引退されてしまいました。感じたのは、こんなに他人事な引退あるか??っていう疎外感でした。



でもその直後から葉山での自主練で、わたしと調べと高原に、小松さんと天木さんとちかさんとしゅうさんが来てくれて、とんでもなく練習の質が高かったのを覚えています。01が1番角度が取れるね、バウが重いからかな、なんて話をしてた気がします。




このころに、クローズでプレーニングもできるようになって、それまで強風なんて苦痛でしかなかったのに、6.7mの風が少しだけ好きになりました。



八景に戻ってからは、後輩と乗るようになって、もうエンジョイセーリングどころではありませんでした。ハーバー内沈からはじまり、今までまったく見てこなかったところで下級生がトラブってたり、質問されたりで、頭の中はずっとワイワイパニックでした。

でも、自主練で少しずつ、まわりをみて、クルーにアドバイスすることができるようになりました。そういや、この時期の自主練のペアも、藤田丸山と調べ松尾が多かった気がする。小松さんと2人でレスキューに乗ることも多くて、セールセットやマストベンドなどの真面目なことも教えてもらったし、世界のおすすめセーリングスポットや外人セーラーとのエピソードなどもたくさん教えてもらいました。話が盛り上がってヨットほったらかしのこともありました。ヨットや海のことを知り尽くして、時には過酷な思いもして、それでも海に出続けるほどに魅力のある世界なんだと、小松さんの半生や、海のことを考えるたびにわくわくしてました。




3年生、純粋にヨットが好きでした。少しずつコース練でも戦えるようになってきて、先輩の指摘も高度なものになっていって、自分の中で理論も構築されてきて、なんのプレッシャーもなくて。しゅうさん、ちかさん、まるちゃんとたくさん乗ってました。春は5番艇、秋は4番艇で、インカレにレースメンバーとして出ることは叶わなかったけれど、レースメンバーもみんな大好きだったし、東大ヨット部として成績が良ければ純粋に喜べる性分だったので、あっさり、真剣に、サポートしてました。
(1番気楽で楽しかった時期ゆえにこれしか書くことがない)



3年生の夏は、大好きな4年生があと3ヶ月後にはいなくなる、という寂しさに打ちひしがれることが多かったなぁ。面倒見がよくて気前がいい、ザ・先輩という人だらけだったので思う存分甘えていたし、甘やかしてもらいました。いまでも大好きですよ❣️仲良くしてくださいね😃




うわぁ本当に部活こなくなっちゃった、そんな風に寂しがる暇も無く、せかせかわたしたちの代が始まりました。1個上の代のとき、サポート頑張れたのはレースメンバーがみんなナイスガイだったからなんよなぁ、だから、みんなが好きになれるチーム、居心地がいいチームを作りたい、そんなことを幹部ミーティングでみんなに伝えました。


調べクンはヨットの上で笑わなくなっちゃったし、高原は相変わらず何考えてるかよくわかんなかったけど、工藤は相変わらず声デカくて、とりあえず4人で470チームを引っ張るの、なんだか胸熱なものがありました。自分にできることをしようと思って、下級生のお悩み相談に乗ったり、海上でチョけたりしました。必要だと思ったから、チョけてたんですよ?





春インはまるちゃんと。とても乗りやすかったです。お互いを気遣いあう、いい関係性のペアでした。でも、2人ともはじめてのインカレで、独特の空気に口数も少なくなってしまって、いつも通りにはいきませんでした。でも、2日目第1R、5位でフィニッシュして、それまでの微妙な成績もわたしの中で、無事帳消しにされました。笑


5-7月は加藤とペアを組みました。いつでも、どんな時も、平然と加藤のままで、戸惑いの連続でしたが、逆にレースも本当にいつも通りでした。本番でもほぼ練習のときみたいなパフォーマンスができて、コセン、七大戦ともに、そこそこ走りました。加藤ありがとうねぇ。






4年夏。
調べクンに夏合宿の目標を聞かれたとき、余裕を持つことだと即答しました。結局今までのどの長期合宿も、最後の方は疲れて、何も考えたくなくなって、他の人のことを気遣うことはできなくなっていました。だから、最後だけでも、470チームも、スナイプチームも、ペアも、同期も、下級生も、1年生も、みんなのことを気にかけよう。そう思って臨みました。


できてました……かね?笑
ちょっとでもいくちゃんいて、いくさんいて、いくちゃんさんいて、合宿助かったなぁなんて思ってくれる人がいたら、嬉しいですね。




8月からはまた、まるちゃんとペアでした。春のときより、船を引っ張ろうという意識を強く持っていて、頼もしくなっていました。そして、春のときより、遠慮がなくなって、ギスギスするときもある、悩めるペアでした。楽しかったけど。



たかまが怪我をして、3番艇争いがなくなりました。
自分が走らないと、直接、チームの成績は悪くなる、という立場になりました。逆に自分が走ればチームでいい成績を残せる、だからもっと上手にならないといけない。9月からはそのモチベーションで頑張ることになりました。


でも、それは、本当につらかった。焦りと不安と、なのに成績が奮わない虚しさで、なにかに押しつぶされそうでした。秋インも1レース目にリコールして、しんどい展開になって、もし負けてこのまま引退したら自分ヨット部嫌いになりそうだなぁ、なんて心のどこかで考えてました。


なんとか全日本につなげることができたけど、その後の10月の練習も、なんなら全日本でも、立て直すことはできませんでした。






やっぱり切磋琢磨できる存在がいるって大事だなって。それでスランプに陥ったのはどうやったって自分の落ち度ではあるんですが。自分がダメなとき、いまの自分よりいい成績を残せそうな人が控えていることの安心感はきっと計り知れない。


だから、全日本で、叩きまくって、たかまと加藤に交代しようと言われたとき、悔しいより先に、ホッとしました。ホッとしてしまいました。





正直なところ、全日本の間のメンタルはもう、ぐっちゃぐちゃでした。何かを考えるたびに涙がでてきて、慌てて隠して、審問で負けたあとなんかは、宿でひとり、声を押し殺して号泣していました。


わたしもしんどかったけど、まわりの人にも(特にまるちゃん)、シンドい思いをさせ続けてしまったと思います。ごめんなさい。



支えてくれた各位、本当にありがとうございます。励ましの言葉をくれたり、無言で背中を叩いてくれたり、そっと慰めてくれたり、関係ない明るい話題で上を向かせてくれたり。わたしを支えた心当たりなんてない、画面の向こうのそこのアナタにもきっと、わたしは支えられていました。



つまるところ、わたしは自分のためには頑張れませんでした。ヨット部のみんなのおかげで、最後まで前を向いて戦うことができました。
最終日、結局レースはなかったけれど、またスターティングメンバーになってからは、本当に前だけを、次のレースのことだけを考えていました。



まっっっったく満足できる結果ではなかったし、これが実力だ、と潔く笑顔で終えることもできなかったけど、でも1年間、いやヨット部に入った時から全日本まででお世話になった人みんなと一緒に戦うことができたと、改めて東大ヨット部が好きになった大会でもありました。






積み込みを終えて帰りの新幹線、くれはと、あのとき試乗会にいったのが始まりだったねぇ、と思い出話に花が咲きました。ながかった、ながかった4年間が、そこでようやく締めくくられました。













最後にひとつだけ。









今年の年初めのリレーブログです。



やっとのことで新歓で手に入れた1年生が、部を離れてしまったことを憂いながら書いた気がしますが、最後の文言はそれから9か月、頭の中で反芻しつづけてきました。

----------

わたしの人生にとってヨット部はかけがえのないもので、ヨット部の歴史にとってもわたしはかけがえのないものでした。出会えてよかったね。
引退の日に、そう思いたいものです。


マッチング・ショット - 東京大学運動会ヨット部

----------










わたしの人生にとってヨット部はかけがえのないものでした。






ヨットというスポーツや合宿で揉まれて、大学に入る前には想像もできなかったような、たくましくて、いろんな経験を乗り越えた人間になりました。


ヨット部を通じて先輩、同期、後輩、LBの方々、コーチ、他大ヨット部、他の運動会部員などなど、いろんな人と出会いました。それぞれが、わたしの人生を彩って、ヨット部に入る前の自分より、明るくて、責任感と、闘志と、負けず嫌いを併せもった自分に導いてくれました。







ヨット部の歴史にとっても、わたしはかけがえのないもの、だったでしょうか?




いまいち自信はないのですが。わたしがヨットに乗ったことで誰かが上手になったり、わたしが新歓で入部させた誰かが活躍したり、わたしが励ました誰かが辞めるのを思い留まったり、わたしが癒しで部活頑張ろうって思ったり(…これは冗談です)、そういうものではいくらか貢献できたと、思っています。それは今の成果にとどまらず、これから先、わたしがいなくなったあとのヨット部でもその痕跡が垣間見れれば嬉しいです。


全日本の最終日、調べクンも言ってたとおり、わたしはこの全日本での悔しさを後輩に託すことができます。4年間何してたんだろ、何の結果も出せなかったじゃないか、と自暴自棄になることなく、自分の4年間が後輩にとっても価値のあるものだったと信じて、跡を継いでもらうことができます。丸投げに聞こえるけど、これから、わたしがヨット部にかけがえのないものだったと証明してくれたら嬉しいです(^ー^)














出会えてよかったです。ありがとうございました。













東京大学運動会ヨット部
藤田郁

優しさ。

2022年12月20日 22時00分00秒 | 引退ブログ

 お世話になっております。クルーザー班LBの萩原和眞です。少し長いですが、個人的な全日本の感想を述べていきたいと思います。ですます調ではなく、申し訳ありません。

 自分は今まで最後の大会とはどういうものか、あまり実感することがなかった。今まで引退後の先輩の泣く姿を見たことがなかった。昨年の全日本後は、皆で結果を喜び、すんなり終わった。中野さんが実は泣いていたのを、引退ブログで初めて知った。落合さんはずっと落ち着いていた。落合さんの引退ブログのように、自分も来年の全日本では落ち着き、俯瞰的な見方ができると勝手に思っていた。最後の全日本は変に気負いせず、普段通り伸び伸びとレースをするのが理想であり、そのようにできるのだろうと考えていた。

 昨年の全日本後、自分の代が始まった。全日本後、自分は落合さんに語った。「レースが楽しい。俺が日本で5本の指に入れるとしたら、小網代沖の北風のコースだと思う。小網代沖のどのコンディションでも勝てるタクティシャンになる。」
 すこしピントはずれているし、言い過ぎだが、正直な感想だった。

 この感想には確かな実感があった。その後全日本後初となるフリートレースがあった。自分以外皆ポジションが変わったばかりの未熟なチーム。そのチームで3位をとった。会心のコースを引けた。レース後、コースを松山監督と春日さんに褒められた。自分は充実感に満たされた。「やっと優秀なタクティシャンになれた。」心からこう思った。

 直後の面談で自分は松山監督にこう話した。
 「レースが凄い楽しみです。やっとチームを勝たせることできるタクティシャンになれました。」

 それからは毎レースが楽しみとなった。自分のコースには自信があった。確実に何かを掴んだ感覚があった。1人病んでた昨年の夏とは全く違う、充実感のある日々を過ごせていた。全日本でも良いコースを引いて、チームを引っ張っていく。そう思っていた。胸が高鳴っていた。

 そして全日本が来た。人生の集大成の場。全ての判断が間違えられない場。確かな自信があった。この全日本で昨年より良いコースを引いていい順位を取る。そう思っていた。

 たが、現実は違った。現実は厳しいものだった。良い結果がでなかった。コースが敗因となった。大きな判断ミスもした。上手くいかなかった。とても納得いくものではなかった。次第に焦りが募っていく。プレッシャーを感じていく。全く落ち着いていることなどできなかった。次こそ良い順位を取る。そう誓い、次のレースに挑むも、下位に沈み続けた。

 そして、全レースが終わった。終わった瞬間は呆気なかった。周りの艇の雰囲気はなんの変哲もない前日と同じレース終わりの雰囲気。俺はただ落胆していた。芳しくない結果だった。一抹の虚無感を抱えた。
 
 周りがハーバーバックしていくのが見えた。とにかく帰港するか。そう思い、維摩に質問した。「維摩、周りジェノアで帰ってるし、エンジンじゃなくジェノアで帰る?」



 その時、維摩のサングラスから涙がこぼれるのが見えた。


 衝撃だった。強烈だった。予想外だった。維摩が泣いている。何度も泣いた姿は見たことはあったが、何にも代え難い瞬間だった。急に胸を突かれた。奇妙な感情に襲われた。そして、涙が出た。本当に部活で最後のレースだと初めて実感が湧いた。嗚咽だった。自分の不甲斐なさへの悔恨。スポーツが冷酷とはこういうことか。結果が全てとはこういうことか。様々なことを急に実感した。

 何よりも悔しかった。自分への悔しさだった。結果を出せなかった。昨年よりも良いコースを引かなければならないのに。成長を感じていたのに。もっといい結果をとらないといけないのに。全日本で全く活躍できなかった。全くもってダメだった。自分自身への悔しさで胸が一杯だった。結果を出せないことがこんなに悔しいのか。初めて知った。
 
 そして次に維摩への申し訳なさが襲った。維摩のヨットへの思い入れをずっと誰よりも感じていた。今年の維摩の代わり様には驚いていた。ヨットに対して大変真面目になった。10年間で初めて見るほどの真面目さだった。維摩への申し訳なさが涙となった。自分の不甲斐なさが申し訳なかった。維摩を勝てるヘルムにできなかった。維摩に先輩と遜色ない成績を残せなかった。良い走りをしていたのに、良い結果を残せなかった。

 ハーバーバックまでの間、涙は止まらなかった。次第に涙は様々な意味を帯びていった。

 チームと応援してくれた人たちの期待に応えられなかった。チームにもっといい景色を届けなければいけなかったのに、できなかった。このチームに最高の瞬間を届けられなかった。マネージャーさんや応援してくれる人たちの期待に応えられなかった。これが最後なのが受け入れなかった。不甲斐なさと虚無感に襲われた。悔しかった。

 また驚きも感じていた。最終レース後にこんな感情に襲われるなんて、それまで全く予想していなかった。悔しさで涙がここまで止まらないなんて。感情に圧倒される、初めての経験だった。一生でこんだけ感情に圧倒されたことなどなかった。それだけヨットが、ヨット部が好きだった。大事だった。大好きなヨットに出会えて、仲間に出会えて、幸せだと感じた。ヨット部に入って本当に幸せだったなと痛感した。好きで誇れることが一つできで本当に幸運だと思った。涙は溢れ続けた。

 ただやはり、悔しさで胸が一杯だった。そんだけ好きなヨット部の最後のレースで、満足いく結果を残せなかった。周りの期待に応えられなかった。自分に自分が一番満足できていなかった。悔しくて仕方がなかった。様々な感情が入り混じりながら、兎にも角にも涙は止まらなかった。
 
 ハーバーに近づき、涙を堪えた。ハーバーに着くと、同期がいた。本当に同期だった。来てくれた同期に最高の結果を届けられなくて、より一層悔しかった。優しい、良い同期だった。工藤の言葉が身に染みた。本当に良い同期に恵まれたと思った。少し収まってきた涙がまた溢れた。もう感情など自分でも分からなくなっていた。

 その後感情を落ち着かせ、解装を終えると、松山監督からお言葉があった。監督の言葉が今も忘れられない。 



 「非常に悔しいと思う。この悔しさをバネに、ヨットを続けてほしい。」



 優しい言葉だった。帰りの飛行機。悔しさで泣いて、この言葉を思い返してまた泣いた。

 
 ヨットは辞められなくなった。







 最後にこの場をお借りして、お世話になった人々へ感謝を伝えたいと思います。
 
松山監督へ。
 仰秀監督が創設され、松山さんが監督になっていただけて、本当に有り難かったです。忙しい中、仰秀を監督として指導してくださりありがとうございました。監督の最後のお言葉がずっと心に残っています。引退ブログでこう述べるのは間違っているかもしれませんが、今もまだ悔しくてしょうがなくて、ヨットで絶対活躍するという思いが沸々と煮えたぎっています。仰秀を綺麗に締め括ることはできなかったけど、この悔しさを忘れず、ヨットを続けていきます。

先輩へ。
 磯野さん、春日さん、太朗さん、中野さん、落合さん。本当にお世話になりました。未熟で不器用な自分で、いろいろ迷惑をおかけしました。そんな自分が、タクティシャンという一つ誇れるものができました。優しい先輩たちのお陰です。ありがとうございました。今はとにかくもう一度一緒にヨットに乗りたいです。

同期へ。
・美緒
 優秀すぎるし、コミュ力強すぎるし、なんでも挑戦するし、周りは見えてるし。気配りできるし。それでいて真面目だし。何もかもできて、人間力が違いすぎました。

・香穂へ
 仰秀への思いがダントツでした。誰よりも仰秀を強くするために熱い思いを持っていて。耳が痛くなるような喝をプレーヤーに入れて。その思いが仰秀班を強くしていました。その愛の大きさと凄まじい行動力には一生敵いません。

 2人が揃うと怖いものなしでした。本当に優しくて優秀でした。周りの期待をどんどん超えていく凄い2人でした。2人が同期で本当に幸運でした。大変お世話になりました。本当にありがとうございました。

・維摩へ
 10年間。腐れ縁でした。「この海面が一番難しかったな。」全日本後にこう言ってくれたことに感謝しています。救われました。主将お疲れ様でした。

・ディンギー班の皆へ
 あまりに長い同期MTGから君たちのヨット愛は、ヨット部への熱い思いは嫌でもひしひしと伝わってきました。和歌山まで来てくれて本当にありがとう。やっぱり部活の最後の着艇は、自分にとって忘れられない大切な瞬間で、同期が来てくれて本当に嬉しかったです。一緒にレースに出るのをとても楽しみにしています。

後輩へ。
 一人一人個別に言いたいことがあるけれど、ブログに書くにはあまりに長くなるので個人的に送ります。

 ただ一つだけ。
 代交代の時、中野さんにこう言われました。「先輩を超えるのは当たり前だ。」先輩が環境を整え、知見を培ってくれたからです。ただ今年の自分たちにはできませんでした。大変だと思いますが、7人の想いを一つに、自分たちが体験することのできなかった目標総合5位を成し遂げて欲しいです。活躍を期待しています。


 他にも支えてくれた家族、LBの方々、ディンギーの先輩・後輩、仰秀、畠山さん、Jellyfishの方々、月光の方々、いろんな方にお世話になりました。ありがとうございました。皆さんの優しい支えに本当に感謝しています。


 これからも東京大学ヨット部をよろしくお願いします。


           
萩原和眞

                



 







大感謝

2022年12月18日 19時00分00秒 | 引退ブログ
2022年度ディンギー班主将を務めました調亮太郎です。

先日琵琶湖にて開催された全日本インカレにて無事引退しました。

既に締切は1週間ほど過ぎており、非常に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

何を書こうかと悩みましたが、4年間お世話になった関係者の皆様への感謝を記したいと思います。


まず、LBの皆様。
4年間楽しく活動出来たのは、この東大ヨット部をここまで紡いできて、そして支えてくださるLBの皆様のお陰です。
僕がヨット部に入った一番の理由は、カッコいいLBや先輩方に憧れたからです。
憧れていたようなカッコいい先輩にはなれませんでしたが、少しは逞しくなれたのではないかと思います。これからは自分も、LBとして部活を見守っていくのが楽しみです。


家族
ヨット部に入ってから、ヨット部に全てを捧げる4年間を過ごしました。長期合宿シーズンでは音信不通になることもしばしばでした。その節は申し訳ありません。
ただ、そんな自分を一度も否定することなく応援してくれてありがとう。これからも宜しくよろしくお願いします。


コーチ陣

小松コーチ
一年生の頃から、ずっとお世話になりました。
体も声も大きく、数々の伝説を語らずとも感じさせるような、自分にとっては、もはや畏怖さえ感じる存在でした。どんなに吹いていても、レスキューに小松さんがいると安心感があって、レスキューをワンオペで乗り回す小松さんは天下の大将軍に見えました。
不器用な自分は、誉められることは多くなかったですが、時々褒められると凄く嬉しかったです。
これからも東大を宜しくお願いします。

矢野コーチ
本当にお世話になりました。
最後の年は、矢野さんに言われたことを呑み込むのにいっぱいで、時間が足りなくて、とにかくもっと時間が欲しいと思っていました。
矢野さんは、自分が本当に苦しい時にいつも手を差し伸べてくれました。本当に感謝しています。ヨットは楽しく乗らなきゃ、という言葉と、その言葉の通り、誰よりもヨットを楽しんでいる矢野さんの姿は憧れでした。
これからも東大を宜しくお願いします。


先輩方

小野さんの代は、本当に優しさに包まれたチームで、大好きでした。西宮に両クラスで行けて、ワイワイ楽しかったあの年の夏が、自分にとっての原体験です。

吉武さんの代。基本的にみんな強めで、怖めでした。冬は、出艇時間遅れたら30分起床が早まりました。最後5時くらいに起きて暗闇で艤装してた気がします。最後の方、崇さんが、全部海でつけたらええって言って、艤装終わらなくても出艇してた気がします。
そうこうしている内に、コロナがやってきました。一番辛いはずなのに、天木さん達4年生は、そんなところを少しも見せずに、ひたすら、僕ら2年生に座学をしてくれました。最後秋インで負けた日の夜に、2年後にタネを撒いたから楽しみや、みたいなこと言ってて、リーダーとしての視座の高さを学びました。

長岡さんの代。
穏やかで、人格者が多く、生意気な僕らを受け止めてくれる度量の広い代でした。
470チームの先輩方は、本当にフラットに接してくださり、先輩というよりも戦友のような関係性でした。引退後も気にかけてくださり、本当に助けられました。
長岡さんには、自分が力不足で支えられず、申し訳ない気持ちが残っています。長岡さんと過ごした一年は、総合で戦うことについて考えさせられた大事な一年で、その後の自分の考えを形作った一年間でした。


ペアたち

崇さんとは3年の春に52でペアを組みました。全く走れず、春のメンバーからも外れました。
結果を出せないのは僕の力不足以外の何物でもないのに、生意気な自分に真摯に向き合ってくれました。一緒に悩んで試行錯誤した日々は本当にいい思い出です。ました。今でも感謝しています。

工藤とは3年の秋に92で、4年時に個戦で79、七大学戦も組みました。
互いに自己主張が強くて、しょっちゅう喧嘩になりました。パッションが強くて、組んでて本当に楽しかったです。ペア解散してからは、ポジションは違えど、ライバル視してました。

加藤とは、4年の春に92で組みました。基本的に何を考えているのか分からず、非常に戸惑いました。
やらかしそうなことは全部やらかす、可愛い後輩でしたが、ヨットレースを心から楽しむ姿勢をリスペクトしていました。これからもヨットを楽しんで、コースを極めてほしい。

松尾とは、4年の夏から引退まで組みました。
僕が3年生の時、春で結果出せなくて鬼の自主練を敢行してた時、ずっと付き合ってくれたのが松尾でした。
4年のレースシーズンでまた一緒に乗ることになり。よりずっとシビアにヨットに向き合うことになって、しんどいことも多かったけど、松尾のパッションを信頼していました。負けん気が強くて、諦めずに泥臭く努力する姿勢をリスペクトしていました。最後、一緒に戦ってくれて感謝しています。


同期
君たちが同期で本当に良かったです。

プレイヤーはヨット馬鹿で、4年間を本気でヨットに捧げてました。みんな自己主張が強くて、うるさいけど、憎めない奴らでした。
一緒にクルーザー乗ったら、全員が全員喋りたいことを喋っていて、全然セーリングに集中できなかったです。そこも含めて良いところだと思います。

マネージャー3人も愛に溢れていて、行動力もコミュ力もお化けで、人として本当に尊敬していました。
全日本直前に、平日少数で自主練していた頃、ななが暇を縫って合宿所に来て、お好み焼きやら煮込みハンバーグやら作ってくれたのが本当に嬉しかったのを覚えています。

それぞれにエピソードがあって、全てを書くことはできないのですが、一つ挙げていうなら、大吾が選手からサポートに回った後、本気でチームを支えてくれたことが嬉しかった。4年生が本気でサポートに取り組む姿を示してくれたことが、部に与えた影響は計り知れなかったと思います。


後輩たち
一年間付いてきてくれてありがとう。

僕らの代はうるさいし、ゴリ押し強行突破みたいなスタンスが基本で、迷惑を掛けたことも多かったと思います。僕が優柔不断で、二転三転することも多かった。

そんな僕らに時にはツッコミを入れてくれつつも、
覚悟を決めた時は、みんな本気で取り組んでくれました。

最高の後輩たちのお陰で、めちゃくちゃ楽しい合宿生活を送れました。

本当に感謝しています。


僕が入部して以来、東大ヨット部は、年間目標を達成したことがありません。

東大ヨット部は常に自分の置かれている位置よりも高いところを目指す組織だということです。

それはつまり、誰も正解を知らない道を進むということです。

通ったことのない道を進むのだから、間違いは当たり前です。間違いを避けてては、本当の意味で前に進めません。

勇気を持って、本気でヨットに、部活に取り組んで欲しいです。

応援しています。


以上


2022年度 ディンギー班主将 調亮太郎

最後のブログ

2022年12月17日 18時03分00秒 | 引退ブログ


大変お世話になっております。

先日引退したマネージャーの小林美緒と申します。

引退にあたって、最後のブログ書かせていただきます。


私は人にあまり本音を言わないし、というか基本的に何も考えていない人種です。


そんな私が、

「ヨット部入って良かったわ。別に。」

全日本選手権の本部船でレース後に言った一言でした。なぜ、こんなこと言ったのか分からないですが、その時の率直な気持ちでした。


入部した当初は自分って必要なのかなと思うことが多かったです。同期マネージャーがとても優秀だったので劣等感を抱いていたと思います。6月頃に「ヨット部辞める!」と母親に宣言したこともありましたが、「みおは継続力だけが取り柄でしょ、辞める勇気も無いし」と言われ呆気なく続けることにしました。

せっかく部活に入ったのなら貢献したいし、必要とされたいという思いで必死で自分の居場所を探していました。その時に、私にとってそれがクルーザー班だという事に気が付いてコミットするようになり、そこから私のヨット部人生が変わりました。元々熱い思いで入部した訳では無かったのに、いつの間にか熱中してしまう日々でした。

同期の香穂と新たなことに沢山挑戦しました。全日本選手権に同行しご飯を作り、朝4時に米を買いに行き、防衛大学の船に乗り、誕生日に強風の中J242.3番のポジションの練習を行いました。

また、和歌山の露天風呂で1時間以上の反省会をしたり、100人以上いる授業中に号泣したり、乾燥機の前で寝たりしました。

様々なことをして来ましたが、私たちはなにかと主将や先輩、同期等に直談判などをし散らかしました。船に乗りたい、選手を見たい、運営がしたい、マネージャーについてetc...私たちの悪いところは、頭で考えるより先に感情を実行に移してしまう事です。様々な方にご迷惑をお掛けしたと思うのですが、それを受け入れてくれる方が周りには多くいたという奇跡が4年間ずっと起こっていたんです。ただそれだけでした。ヨット界の私たちの周りの方々が本当に寛容で、私たちは恵まれ過ぎな環境に居ました。

4年間、ヨット部を全うできて、かつ自分たちのやりたい事をしまくれたことが有り得ないことだと思います。私たちが様々なことに挑戦し、熱中できたことがどれだけの方のおかげかと考えるともうよく分かりません。

私と関わって下さった全員に本当に感謝しています。全員です。


ヨット部を引退する事は寂しいですが、出会えた周りの皆様との関係は変わらない一生ものなんですよね。だから、ヨット部に入部して得られたものは計り知れないです。それが始めに記した一言の意味の答えかなと今は思っています。パジャマの柄でヨット部に入部したことを全く後悔してません(入部ブログ参照)

これからもなんとなくヨットに関わって生きていく気がしてます。ヨット部に入る決意をした大学1年生の時の自分によくやったと言ってやります。



最後に皆様、今まで本当にありがとうございました。

先輩、同期、後輩、家族、他大学の皆様、社会人チームの皆様、畠山さん、LBさん、監督、大家さん、他にも様々な方に支えられてここまで来ました。素晴らしい経験・宝物をありがとうございました。


東大ヨット部の一員であったことを誇りに思います。

そして、東大ヨット部という組織の一員であれたことに心から感謝いたします。



そしてこれからも東大ヨット部をよろしくお願いいたします。


好きこそ物の上手なれ

2022年12月16日 15時00分00秒 | 引退ブログ
470チームリーダー兼主務を務めておりました、工藤光生です。

ヨット部に入ってからの日々は当時は永遠かのように感じられたのに、こうして引退ブログを書きながら思い返してみると一瞬の日々だったように思います。

ヨット部に入り、爽快なスポーツと愉快な人々との日々が新鮮だった1年生
本格的な練習が始まってすぐにコロナが流行り自分の非力さを感じた2年生
レギュラーに選ばれ好き放題にやらせていただいてヨットに熱中した3年生
チーム運営で頭を悩ませこれで良いのかと自問自答を繰り返していた4年生

4行で収まってしまいました。
流石に無理矢理収めた感がありますが、
正直1年生から3年生までは先輩たちに与えていただいた素晴らしい環境の下で、
自分の上達ばかりを考えていました。
お陰様でヨットは上達することができましたが
東大ヨット部の掲げる「人間的成長」という活動理念には
ほとんどかなっていなかったように思います。

しかしながら、4年生となってからの1年間は最上級学年としてチームを運営する中で
1人でスポーツをするだけでは得られない数多くの経験をすることができました。
てなわけで最後の1年間を振り返っていこうと思います。





スローガン:「好み好まれる」
年間目標:「全日本総合入賞」

この2つが活動の軸でした。

どちらも去年の代替わり後に4年生ミーティングで話し合った後、部員に発表したものです。
ミーティングは文字通り1日中朝から晩まで話し合いました。
初めて同期と真剣に部活の運営について語り合って、頭が割れそうになるくらい疲れました。
ミーティングを通して最上級生としての自覚と責任が降りかかってきました。

「全日本総合入賞」をするためにどのようなチームを作っていくのか。
僕らの代で決めた方針が「好み好まれる」でした。
自分たちがヨットそしてヨット部を好きになる。
ヨット部に関わる方々にヨット部を好きになってもらう。
好んで好まれてというサイクルが循環していって欲しい。
そんな思いを込めました。


代替わり後の練習。
同じ目標を共有すること、そして1年生にヨット部を好きになってもらうことが大きな課題でした。
当時の東大は2年ぶりに470チームが片クラスで全日本インカレ出場ができたという状態で、
全日本インカレ経験者は自分と調だけでした。
その中で、全日本インカレ入賞がどれだけ高い目標で、でも目指すことのできる価値のある目標だということを、いかにチームのみんなに理解してもらうか、それが課題でした。
とりあえずチームの目標を意識づけるために、ミーティングの度に口に出すように意識しました。
1年生の状況はさらに深刻でした。当時の1年生は合宿所の宿泊制限などもあり、ヨットに乗れないのに加えて同期や先輩との交流も満足にできないという状況で。当然ながらヨット部への不満も溜まっていることが、自分にも伝わっていました。。そのままいったら2月の春合宿開始の時には半分以下に減ってしまうんじゃないか、という危機感がありました。
何とかしてヨット部を好きになってもらおうと、1年生の指導や交流に専念しました。
八景島レースやコース練を通して何とかヨットの楽しさが垣間見せれたかな、というわずかな手応えで年内の活動が終わります。


オフは自主練ときどき1月レクといった様子でした。
風の噂で聞こえてくる1年生の評判が嫌で嫌でたまりませんでした。


2月の春合宿初め。部員が4人減りました。そこから春までにさらに2人減りました。
それぞれの部員に、ヨット以上にやりたいことがあるという前向きな理由でした。
誰も蒸発するようなことはなく、全員が挨拶にきてくれました。
でも、「好まれる」ことの難しさを痛感した。

どうしたらヨットの楽しさを伝えられるのだろう。
どうしたら部活の雰囲気をより良くできるのだろう。
勝てるチームと全員に好まれるチームの両立とは。

引退までつきまとう課題が見つかりました。

そこからの春合宿は怒涛のようでした。
無限に動作練習とラウンディングをして。
夜中には、整備と陸シミをして。
4年生なのにオフには家から出られないほど、
毎クール心身ボロボロになって。
本当にキツかったけど、1年間の基礎はあのとき作られた。


春の葉山。
高原組んで91で出たフリートレースは基本的に絶好調。
以前の自分では考えられないような相手と競うことができて。
早稲田や日大に追われるランニングは、心臓の音が響き渡りそうなくらい緊張していたけれどそんな舞台に立てていることが幸せだった。
自分以外の船も徐々に冬の成果が出始めていて。
手応えのある時期でした。


新勧期間。
新勧の裏でインカレメンバーの一部が練習するという前代未聞の挑戦をした。
新入生の入部ペースが例年よりも遅かったこともあり、部内に焦燥と不安が生まれる。
ディンギーの下級生とクルーザー班には多大なる迷惑をおかけしました。
申し訳ありません。1年生、入ってきてくれてありがとう。


春インカレ。
出艇前に丸山や加藤が緊張していて可愛いなぁって思いながら声をかけて出艇。
第1レースを終えて470は暫定3位。
それぞれが順位を上げてくる展開でまぐれじゃないと思えた。
しかし、最終的には2日間で6レースを終えて7位。
日本大学が出場していなかったこともあり、例年と変わり映えのしない成績。
手応えはあっただけに余計悔しい。
全日本入賞への道の難しさを感じた。


個選。
オリンピックなどの影響を受けず久々に6月末から7月頭にかけての開催だった。
全日本入賞という目標のために、複数艇での出場を目指した。
自分は3年生全日本以来、もう2度と組むことができないと思っていた調とのペア。
全個に行くという願望だか義務だかわからないプレッシャーを感じてた。
ペアが決まってからの1ヶ月、ガムシャラに乗りまわした。
毎週月曜日に試験があるなかで、週2回に自主練をねじ込んで。
日に日にヨットへの感覚が磨かれていくことを実感して。
そして迎えた本番。
1日目にケースやミスを重ね全個ライン+30点で折り返し。
2日目に巻き返しを図りますが、結果は全個ラインと9点差の22位。
あんなにミスって出れるはずなかった。なんで落ち着けなかったんだろう。
絶望と虚無感に溢れながら翌日の試験のため、1人で帰宅。
自分が全個にいけないっていう事実が許せなかった。


夏合宿。
八景島はファミリーデーとマネージャー感謝デーの記憶しかない。
それくらい練習できる日が少なかった気がする。
そして、ラストの夏葉山。
微風〜軽風では、早慶日にも引けをとらない走りだった。
太陽さんに教わったジブのセッティングでクローズでは圧倒的上り角だったし。
ランニングも自分が本気で走らせても敵わないくらい松尾と丸山が繊細なスピントリムをしていた。
でも、強風はずっと課題だった。
特に、北風キシチカの強弱とフレが酷い海面が課題で。
コーチ全員の力を借りながら、調高原郁ちゃんでずっと試行錯誤していた。
秋イン直前になってやっと各々の走らせ方を身につけたんじゃないかと思う。


レースシーズン。
第1戦は6大戦。
実はこの大会と医学部の大事な試験が被っていた。
紆余曲折あって6大戦に出ることを選ぶ。すなわち、留年。
個人的な思い入れがマシマシで迎えた初日。
岸から離れた北風軽風。波も小さく綺麗な海面。
出来過ぎなくらい上手くいった。
上マークに着いたら東大が前で固まっていて。水色スピンがポンポン上がる。
初日4レースを実施して、東大470は暫定1位。留年が報われた。
2日目。前日と似た風速風向だが、フレが細かく難しい。
いつも以上に早慶がシビアに競ってくる。
順位を落とし470は3位。
早慶と争う経験がインカレ前にできたことが、
全日本入賞に向けた大きな財産。


秋インカレ。
初日。
カラッと晴れてた気がする。
第1レース。
見通しギリギリだと思いつつも上の船が引き込むのに合わせて加速。
トラピーズに出るか出ないかの風で始まったレースは風がなくなる。
インカレ特有の引き波で汚い海面を、集中して走らせる。
最後まで目の前の1艇にこだわってフィニッシュ。
自艇は20番弱。他の2艇は自艇の後ろ。
出来が良いとは言えないが、まだ1R目。
そんなふうに考えながら淡青を待つ。

「リコールだよ。」

何を言っているのかわからなかった。
事実を直視できずに、とりあえず他の2艇に声をかけた記憶がある。
ミーティングでは常にノーケースノートラブルを唱えていた。
インカレでのケースは一番回避しないといけない。
3年生の時に、レギュラーとしてレースに出させていただいて。
教訓だったはずなのに。
そんな自分がリコールをしてしまった。
しかも、出た自覚がなかった。
もう絶対にリコールできない。
トラウマが植え付けられた。

そこからは単調だった。
結果の浮き沈みはあったけど。
基本は凹んだスタートをして。マーク際もなるべくリスクを回避した。
淡々とレースが進んでいった。
3日間で8Rを実施できたおかげで全日本に行けることが決まった。
ハーバーバックしてからも全然嬉しくなかった。
全日本入賞のためには、こんなんではダメなのに。
なんでこんな成績なんだろう。
悔しくて仕方なかった。
でも、コーチやLBの方々がみんな笑っていて。
最初はぶっきらぼうに挨拶していたけれど。
段々と声援の暖かみで気が楽になった。
琵琶湖では頑張ろうって思えた。


琵琶湖。
前入りは良い感じだった。
7月末に1人で京大の練習にお邪魔していたこともあって、
真っ平らな湖面も信じられないようなフレも想定内だった。
藻が多いことだけが気がかりだったけど、みんな平等だからと言い聞かせた。
周りに山や建物が多くて見通しは取りやすかった。
でも、バウを出すのが怖くてそもそも見通しを見た記憶がない。
艇数が少ないから、タックすればフレッシュで何とかなった。


全日本。
1日目と2日目のレースは正直よく覚えていない。
基本的はスタート後に逃げタックして。
でも艇数が多くてどこへいってもブランケで。
1上は風を掴もうとしてたら終わってた。
ダウンウィンドで少し抜かして。
2上でやっと風を見ながらコースを引く。
そこから下ってフィニッシュ。
毎回同じことを繰り返して。1上の順位は大体博打。
そんなレースをしているから、順位は低迷した。

2日目の終わりにコーチとご飯を食べた。
「失うものは何もない。」と言われた。
当たり前だった。自分たちは挑戦者なのだから。

3日目。
久々にバウを揃えてラインに並んだ。
めちゃくちゃ見通しが見やすかった。
見通しギリギリだと思っていたラインは案外余裕があった。
安心しながらバウを出してスタートをした。
そこからは余裕を持ってコースを引くことができた。
自分が好きだったヨットレースがそこにあった。

リザルトだけ見たら大差はないけれど。
3日目の2本のレースは格別に印象に残っている。

4日目は風がなくてノーレース。
最終的に、470は17位、スナイプは5位、総合は9位。
470のせいで総合入賞ができなかった。
着艇後は不甲斐なくて仕方なかった。
船を洗うとき。セールをしまうとき。着替えるとき。
なんでもない瞬間に涙がでた。
チームのみんなや、コーチや、LBの方々や家族や。
いろんな方に応援されていたのに。
その期待に応えられなくて悔しかった。
自分たちの横には喜んでいるスナイプがいて。
ふとした瞬間に比べてはまた泣いた。
後悔にまみれたまま引退した。





このブログを書いている今。
引退してから1ヶ月以上経った。
悔しさも日に日に薄れて、
落ち着いてヨット部人生を振り返ることができている。
自分は「全日本入賞」を達成することはできなかった。
でも、自分が本気で目指していることを誰も否定せず、
チームのみんなはついてきてくれた。
1年前では考えられない状況だった。
それに、最後までヨットは大好きで、ヨット部も大好きだ。
引退の瞬間は悔しかったけれど、
それは声援の大きさがあったからこそだ。
琵琶湖には、本当に大勢の方にお越しいただいた。
出艇前も着艇後も東大のバースには一際大きな人だかりがあった。
それだけ、応援されていた。
「好み好まれる」を体現したチームだったと思う。





最後に僕が1年間意識していた言葉を紹介します。

「之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。」
孔子『論語』


2年前の秋インカレ、470が全日本に行けないと決まった日に天木さんは言っていました。
「自分が先輩から教わったヨットの楽しさをもっと伝えたかった。」

当時のヨットは、まだまだわからないことだらけで楽しむ余裕なんてなくって。
ふーん、ヨットって楽しいんだなぁ。
そんなふうに聞いてました。

去年の引退ブログで古橋さんはそこだけ2行の行間を空けて一言。
「楽しかったなぁ」

そんな楽しかったのか。
確かに最後の1年間はヨットの上で急に歌い出したりしてました。

470チームリーダーは、どうやらみんなヨットが楽しいらしい。不思議なもんだ。
そんなふうに感じて4年生になりました。

でも、4年生になって、今までの経験だったり知識が一気に結びついて。
どんどん、どんどんヨットが楽しくなりました。

強風の日や寒い日に、しんどそうにしている後輩に対して、
ニッコニコの笑顔で「ヨット楽しいよなぁ」だなんて話しかけて
ハラスメントだなんて言われていましたが、
あれは作り笑顔ではありませんでした。

1年間、本当に楽しかった。
後輩と動作練をし続けた冬の八景島練習も、
日々メキメキ上達していた春インまでも、
もがきながらもガムシャラに乗った個選までも、
留年を決めてヨットに没頭した全日本までも、
どんなときもヨットは本当に楽しかった。

つらいこともあるけど、ヨットは楽しいから。
今は楽しめなくても、絶対楽しくなるから。
雨の日も。極寒の日も。強風の日も。猛暑の日も。ベッタベタの日も。
楽しいヨットのためだと思って、がんばってください。





謝辞

自分を成長させてくれた愛艇たちへ(特に4791と4579)
91は東大に初めてやってきたピアソンで自分の中ではずっと新艇です。
最後の1年間、良い景色を見れたのは91のおかげだと思ってます。
琵琶湖に着いてガンネルぱっかーんなってたときはめちゃ焦りました。
でも、すぐにパワーアップして帰ってきたね。
ロープも全部自分で作って。あらゆるところにマーキングして。
どんな船よりもイケイケでカッコよかったです。
琵琶湖で走らせてやれなくてごめん。ずっと大好きです。
79は僕が入った時からレース艇でした。
別に長い期間乗った訳じゃないけど、節目でやってくる印象です。
初めての79でレースに出たのは、2年生の全日本470で松前さんとでした。
ゴールドフリートでナショチの前で回航したのは鮮明に覚えてます。
それからあんまり乗ってなかったけど、4年生の個選で再会しました。
本郷から葉山に直行して夜な夜なロープの整備して。自主練して。
全部を完璧にやらないと滑ってくれない、ワガママな船でした。
西坂さんみたいに全個突破することができなくてごめん。
もう乗らないかと思ったら、突然琵琶湖で乗ることなって。
突然だったけど微風はまだまだ走れたね。
これからも後輩たちを成長させてやってください。
他にも、29、92、52、57、03、01、75、96。
入部してからたくさん増えたけど、いなくなる船はほとんどいませんでした。
それだけ東大ヨット部の部員が増えて、LBの方に支援いただいたってことだと思います。
ヨットは道具を使うスポーツなので、良い道具をつかうことが大切です。
それはただお金をかければ良いって訳じゃなくて、
普段から大切に使って正しく整備をしてあげるってことです。
大好きな船たちがボロボロになっていたら悲しいので、
ちゃんと整備してあげてください。

家族
4年間にわたり本当に迷惑をおかけしました。年々海に行く頻度が上がる息子に対して、いつも応援してくれて金銭面でも援助していただいて、ありがとうございました。そして、留年してごめんなさい。
部活のことは家では何も話さないのに、自分の顔色を見て「今日は調子良かったのね」「今日は疲れてるんだね」と練習やレースの結果を当てていて親とはすごいものだなと思っていました。
これからは親孝行します。

LBの方々
日頃からご支援いただきありがとうございます。
コロナによる規制も緩和されつつあり、多くのLBの方に対面でお会いする機会がありました。
会うたびにどれだけ応援されているかを実感し、気が引き締まっておりました。
また今年度、470チームは2年連続となる新艇を買っていただきました。
来年以降、後輩達が新艇でさらなる飛躍をしてくれると信じています。
今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。
自分もこれからは1人のLBとして東大ヨット部の成長を応援させていただきます。

矢野コーチ
短い期間でしたが、ご指導いただきありがとうございました。
初めは矢野さんの率直な物言いが苦手でした。
でも、日々関わっていくうちに、ヨットに対する真摯な姿勢や
ヨットを楽しむ姿勢などに惹かれていきました。
最後1年間、矢野さんに出会えて僕のセーリングライフは何倍も広がりました。
これからもよろしくお願いします。

小松コーチ
4年間ご指導いただきありがとうございました。
小松さんにはヨットの知識や技術はもちろん、ヨット乗りとしての振る舞い方を教えていただきました。
小松さんという誰よりもヨットが好きな方に指導いただけて本当に幸せでした。
最後に結果で恩返し出来なかったことが本当に悔しかったです。
これからも小松さんの教えを胸に生きていきます。
また、海で会いましょう。

お世話になった先輩方
大変お世話になりました。
先輩方に与えていただいた環境のおかげで上達することができました。
特に自分は、同期で1人の470クルーとして本当に手塩にかけて育てていただきました。
負けん気が強くて生意気な後輩ですみませんでした。
先輩方にしていただいたように、これからも後輩を大切にしていきます。

470チームの1年生ズ
センスが良くて向上心があって同期が多くて。
正直、期待しかしていません。
あと3年もあれば限界なんてないと思います。
楽しいこと辛いことたくさんあると思うけど、
お互いを大切にしてみんなで頑張って。

470チームの2年生ズ
生意気だけど個性豊かな君たちのおかげでチームが賑やかでした。
人数が多かったはずなのに気づいたらスキッパー3人クルー1人やん。
自分たちと同じ境遇で似たものを感じます。
和真澤田成相は3人で切磋琢磨して高みを目指してください。
山本は先輩達に追いつけ追い越せで上達してスキッパーを走らせられる同期の星になってください。

470チームの3年生ズ
入部当初から抜群のスピード感覚を持っていた高天はその知識と感覚を部に還元してくれるはずです。高天の作る470チームが楽しみです。
2年生で入部してからぐんぐん上達していったひろきは、みんなが認める最上級生スキッパーになりました。成績でチームを引っ張ってあげてください。
おっちょこちょいでいつも皆を笑わせてくれる加藤は部の雰囲気を暖かくしてくれると思います。学連も頑張ってね。
授業が忙しいはずなのにいっつも自主練に来てくれた松尾は、来年は今年以上の熱量で取り組んでくれるはずです。7大戦も応援してます。
同期の誰よりも経験豊富な丸山は陸上でも海上でも470チームを支えてくれるはずです。
東大の470はクルーが走らせるってところを3人が見せください。
これから1年、楽なことばかりじゃないと思うけど同期で助け合って頑張れ!!!

同期
プレイヤーもマネージャーもみんなクセが強くて。
どこでもうるさいし物の貸し借りとか雑やしマスクつけてくれないし。
基本的にモラルは皆無だけど。
そんなはちゃめちゃな君たちが大好きです。
ヨットが大好きでヨット部が大好きな君たちが同期で、
僕はとっても幸せ者でした。
いつまでもバカ笑いできたら良いなと思います。

ここでは挙げきれなかったスナイプチームやマネージャー、仰秀のみんな、その他ヨット部を通じて知り合った全ての方々。
この場を借りてお礼を言わせてください。本当にありがとうございました。






素晴らしい4年間。
海の上の。陸の上の。
何気ない瞬間が全て
かけがえのない宝物です。






470チームリーダー兼主務 工藤光生

たくさんの愛に恵まれて

2022年12月15日 19時52分00秒 | 引退ブログ
お世話になっております。4年マネージャーの青木香穂です。

和歌山で行われました全日本選手権にて、私たちクルーザー班4年は引退しました。

この4年間、思い返せばたくさんの素敵な方々に支えられて恵まれて見守られて応援してもらって切磋琢磨して、、、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

そこで感謝の気持ちを述べていきたいと思います。

クルーザー班の先輩方
クルーザー班のことが大好きになり貢献したい!と思えたのは先輩方のおかげです。1年生の時の福岡で行われた全日本選手権で、先輩方の「勝つ」という熱い気持ちを直に感じ、私はクルーザー班に学生生活を捧げたいと強く思いました。ヨット部の活動を更に本気にさせてくれたクルーザー班の先輩方、本当にありがとうございました。個人個人に他にも感謝したいことを書きたいのですが、あまりにも長文になってしまうので割愛させて頂きます!今度直接お礼を言わせてください。

防衛大学の皆様
クルーザー班マネージャーになって、まず思ったことは「海に出れるチャンスがない」ということでした。ディンギー班はレスキュー艇があるけど、クルーザー班はありません。そんな中、防衛大学との合同練習の際、防衛大学のレスキュー艇に乗せて頂く機会を得ました。海に出る機会のない私たちクルーザー班マネージャーにとって、最高の日でした。しかし、自分たちのヨットの知識の無さを体感したことも覚えています。もっと良いサポートを出来る人になりたい。そんな目標をたてるきっかけとなりました。防衛大学の皆様、本当にありがとうございました。

ジェリーフィシュチームの皆様
社会人チーム、ジェリーフィシュの方々のヨットで海に出させて頂いていました。初めて出た時は話にしか聞いていなかったヨット用語が現実となり、とても興奮したのを覚えています。同時に動作は難しく皆はこれを毎日しているのかと尊敬の気持ちが更に増したのを覚えています。何度も乗せて下さったジェリーフィシュの皆様、本当にありがとうございました。

月光チームの皆様
今年の10月に行われた北米選手権にサポーターとして共に参加させて頂きました。クルーザー班での海外遠征はコロナの影響で無くなってしまったので、参加許可を頂いた時は本当に嬉しかったです。そこでは様々な経験をさせて頂きました!共にサポーターとして参加していたあやかさんのおかげもあり、北米選手権のスタートボートにも乗せてもらい、大会運営に携わらせて頂くという貴重な経験もしました。本当にありがとうございました。全てが良い思い出です。

和歌山運営チームの皆様
今回の全日本選手権の運営にも携わらせて頂きました。突然訪問し、突然お願いしたにも関わらず、私たちのことを受け入れて下さり本当にありがとうございました。とても良い方ばかりで最高の3日間となりました。ありがとうございました。

J24計測委員の皆様
今回、J24の計測委員の資格を取らせて頂き、全日本選手権の計測にも携わらせて頂きました。右も左も分からない私に、計測の知識だけでなく社会に必要なことまで、色んなことを教えてくださいました。本当にありがとうございました。

松山監督
監督!監督にも本当にお世話になりました。こんなにも美緒と香穂がやりたいように行動出来たのは、監督が寛容的な方でいつも見守ってくれていたからです。本当にありがとうございました。引退した日に頂いたメッセージを胸に今後も頑張ります。

同期
いつも一緒にいてくれてありがとう。
ディンギー班の同期たちは助っ人とかで行った時にあたたかく迎え入れてくれてディンギー班に早く行きたいなって思っていました!最後和歌山にも来てくれてとても嬉しかったです!本当にありがとう。
クルーザー班の同期にはいっぱい助けてもらったなあと改めて思います。一緒に部活するのが3人で良かった。本当にありがとう。美緒に関しては、美緒と目標が一緒だったから、やりたいことに向かって2人でがむしゃらに動けたなあと思います。本当にありがとう!

畠山さん
畠山さんに出会ってヨット部人生は変わりました。関東フリートのレース運営に誘って頂き、本当に本当にありがとうございました。たくさんお礼したいことはありますが、長文になってしまうので今度直接言います!!今後とも後輩マネージャーをよろしくお願い致します!!!

ここで上げさせて頂いた皆様だけでなく、たくさんの方々に出会い、見守って頂きました。出会ってくださり関わってくださった皆様、本当に本当にありがとうございました。皆様のおかげで私のヨット部人生は最高で本当に楽しいものとなりました。皆様に出会えて良かったです。

最後になりましたが、当たり前に活動出来ているのはLBの皆様のおかげです。いつも見守ってくださり本当にありがとうございます。

最後の最後に後輩へのメッセージも書かせてください。

ひでへ。
とっても優秀でひで自身には何も心配はしていません。今まで私たち四年生を支えてくれて本当にありがとう。ただ、一つ言うとすれば、もっと人を頼って欲しいなと思います。優秀ゆえに何でも自分で出来ちゃうだろうけど、いっぱい後輩を頼ってあげてください。後輩たちは喜ぶと思います!笑
せっきー、りょうくんへ。
とっても優しくてあたたかい2人!この全日本選手権で悔しいと感じただろうけど、でも大丈夫。本気で悔しがっているのを見て未来は明るいなと私は思いました。この悔しさをバネにいっぱい行動してね。更に成長していくのが本当に楽しみです。
げんちゃんへ。
クルーザー班に一年生1人で入ってくれてありがとう。物怖じしない姿勢や積極的にコミニケーションをとる姿にいつも感動していました。この調子で頑張ってね!
うめこ、渚へ。
2人も本当に優秀。言うことは何もありません。2人なら美緒と香穂が成し遂げれなかったことも余裕で成し遂げれると思います!もし、しんどくなったらいつでも連絡してね。ずっと応援してます。
かなちへ。
今まで本当にありがとう。かなちがクルーザー班マネージャーに入ってくれた時は本当に嬉しくて泣きそうだったのを覚えています。ヨット部の楽しさを入部当初に伝えられなくて後悔していたから、今、楽しそうに部活をしている姿を見て幸せな気持ちになります。かなちは大好きな自慢の後輩です。あと一年気負いすぎずに楽しんでね!

とっっっっっても楽しくて最高の4年間でした!!ヨット部生活は私の宝物です。ありがとうございました!

今後ともよろしくお願いします。

青木香穂

ありがとう!

2022年12月02日 17時52分27秒 | 引退ブログ

最初に言っておきますが12000字くらいあります。
思い出をダラダラ書いてたらこうなりました。のくせに内容薄いですが、怒らないでください。
あと見直していないので、文法がおかしな部分や誤字脱字があるかと思いますが、その小さい脳みそで汲み取ってください。






















2019年春、晴れて駿台予備学校を卒業し、東京大学に入学しました。
同じクラスの調という男に出会いました。
彼との出会いが僕の大学生活をあらぬ方向に持って行きました。

僕は、何をして大学生活を過ごそうか、何も考えていませんでした。
サークルオリエンテーションの日、クラス写真を撮った後、彼に一緒にヨット部のブースへ行こうと誘われました。

ついていくと、そこには当時4年生で主将だった小野まゆこさんがいました。
話に花が咲き、試乗会の予約をしました。

1回目の試乗会の後、新勧コンパにも参加し、あれよあれよで、2次会で入部宣言をしてしまいました。
おそらく、最初に別の部活・サークルの新勧イベントに参加していたら、そのままそこに入っていたかもしれません。

僕を最初にヨット部へ導いてくれた調くんと、そこでヨット部に引き込んでくれた小野さんにありがとう(ございます)と伝えたいです。

入部して最初に書いた自己紹介ブログがこちらです。

新入生自己紹介2019 part20 古山晋

自分が上級生で、入部してきた一年生で、こんなブログ書いている奴がいたとしたら、すごくイヤです。
でも当時の彼もきっとなんとか盛り上げようとした結果だと思うので許してやってください。


5月から八景島でホッパー練習が始まりました。
上級生は葉山で練習しており、八景島はほぼ一年生だけ。
合宿生活はそれはそれは、とってもとっても楽しいものでした。

ひとり乗りは自由で自分の好きな通りにできて、ダブルハンドに乗るよりも格段に、楽しかった。
なんならダブルハンドは嫌いでした。

小松さんも先輩達も、何やっても褒めてくれて、それが僕の原動力でした。

夏休みの8月、江ノ島で行われいたオリンピックウィークの運営と、八景島での練習を行き来し、ほぼ休みなしでした。
それでもなぜかすんごい楽しかった印象しか残っていません。

最後の方は流石に疲れてしまい、運営のラスト1日を休んでしまいました。そしたら同期の青木くんと調くんも同じ理由で欠席していたらしく、finnの運営チームは学生を一気に3人も失ってしまいました。あの時はごめんなさい。
あと間違えて、知らんおっさんの8万円のパドジャケを持ち帰ってしまったのもごめんなさい。


9月八景島から葉山への引っ越し。
の前日に台風によって八景島は破壊されました。
その日の夜は2階の窓にまで、波のしぶきが上がってきていて、一階は浸水し、ロッカーがあっちこっちに行ったり来たりしてたのを覚えています。
台風一過の朝、なんとも形容し難い光景が広がっていました。
自然の脅威を痛感しました。

葉山に移ると、もっぱらレスキューボートに乗っていました。
先輩達は葉山強豪大学と朝から晩までコース練をしていましたが、僕はヨットレースとかわけわからず、ずっと寝てました。
あの時、学ぶ姿勢を持ってコース練を見てれば、もうちょっと上手くなれた気がします。どんまい。

合宿所は全員泊まれないので、一年生はLBさんに貸していただいていた逗子マリーナの家に泊まるか、葉山合宿所の玄関入ってすぐのところで寝るかでした。インカレが近づくにつれてどんどん先輩達がピリついていくのを、その横で、今では考えられないようなかな〜りジットリした敷布団に寝転びながら、ひっそりと聞き耳を立てるのが好きだったので、合宿所に残ることが多かったです。

インカレでは炎の珠屋番をしていました。レスキューから電話で読み上げられるリコールナンバーを、葉山新港の2階でエクセルにぶち込みながら、その一進一退の攻防に、みんなで一喜一憂していました。
この経験から、レースメンバーになったときに陸のみんなが楽しめるようなレースをお届けするぞ!という気持ちを持つようになったのではないかと思います。

そして11月、両クラスで行った西宮全日本インカレ。
そこで感じたことを記したブログです。

粋な漢


ここでは引退後の自分について触れています。
「古山も自分の引退後に何かを掴んでいたいなと思います。」
「やはり古山もつひに引退ブログを書くとなった時、お相撲さんのようにずっしりとした重みを持った言葉を並べられるようになっていたい、そう願ってやまないのです。」

自分は何か掴めたのだろうか。この引退ブログでいいこと書けるだろうか。
一つ言えるのは、この写真を撮った時から三年、粋な男になれたんじゃないかと思います。


代交代しました。
本格的にスナイプの練習が始まりました。
スキッパー志望でしたが、チーム方針でクルーからのスタートでした。
僕はクルー動作に熱中しました。
動画をいっぱい見て、夜遅くまで陸シュミしました。
ひとりでやるのが好きだったので、みんながまったりしている間にこっそり抜け出して、やってました。

最初の練習は鮮明に覚えています。
吉武さんと一緒に乗って、大雨強風の中、無限サークリング編に突入しました。
死ぬほど息切れして、喉が渇いたのですが、自分の飲み物を積み忘れてしまったので、吉武さんの飲み物をもらいました。
そこで渡されたのが、ブラックコーヒーでした。びっくりしましたが、一心不乱にゴキュゴキュと飲みました。心臓の音が鮮明に聞こえました。死ぬかと思いました。


冬のオフに書いたブログです。

正月の漢@1月リレーブログPART3


基本的に何の価値もないクソみたいなブログですが、このブログを読んで一つ思い出しました。

12月の八景レースです。
僕はOBの多賀谷さんのクルーで出場しました。
南西ど強風の中、それなりにカオスなレースでした。スタートして一生懸命スタボを走ってたら、目の前にレスキューボートがいて、そのゴムにずりずりしながら通り過ぎました。多賀谷さんはブチギレていました。
レイラインだけ見といてって言われたのに、気づいたらオーバーセールしてました。
その時の多賀谷さんの気持ち、今はわかります。ごめんなさい。
そして上マークを回航しランチャーを上げようとしました。
ランチャーロープってこんな軽かったっけと思いながら、せっせこせっせこ、オラオラオラと引いてたら、ポールからロープが全部抜けました。艤装ミスでした。訳わかんなすぎて、一瞬、時が止まり無音映画になりました。その時の多賀谷さんの気持ち、お察しします。ごめんなさい。
挙げ句の果てには、コースを把握しておらず、フィニッシュどれか聞かれてもわからず、適当にあれですって言ったら、普通に違ってました。多賀谷さん、ごめんなさい。

艤装は完璧に、そして帆走指示書を読もうという、当たり前のことを習得しました。

2月練習開始です。
2週目からスキッパーの練習を始めました。
ようわからんかったので、とりあえずハイクアウトを頑張っていました。
あとスナイプは上って逃す船やと聞いていたので、ノーメイントリムでステアリングマンをやっていました。
下手くそすぎて船がずっこんバッこんなってました。

でも今思うと不思議なことに、四年生で最後に辿り着いた(というか矢野さんに教えてもらった)走らせ方は同じような走らせ方でした。

八景島レースは大善さんと出場して、スッカスカの下1からスタート、ワンタックでポートアプローチ、シングルの見た目でしたが、スタボレイラインの大名行列に圧倒され、中途半端に受けて入れず、巻き直そうとしたら即ジャイ艇とわちゃわちゃして、気づいたらほぼ最下位にいました。

東北戦では、これまた南西ど強風。行きのリーチングで沈して、ハーバーバックを宣告されました。
陸に戻った後は、コーラ片手に堤防で、みんなの帰りを待っていました。
自分だけレースに出れない虚しさに打ちひしがれていました。

強風で赤旗の日が多く、スキッパーの練習も満足にはできませんでした。
そして春合宿の途中、新型コロナウィルスが日本にやってきました。
後半からはほとんど練習できなくなっちゃいました。

状況はどんどん悪化していき、長い長い長い自粛オフ期間に突入しました。
その時、部員によるリレーブログを自粛が終わるまでエンドレスで続けました。
その時のブログがこちらです。

リレーブログ〜ヨット部に入ってよかったこと〜 古山編

漢の中の漢


一つ目はヨット部に入ってよかったこと、そして二つ目は長渕剛は若い頃透き通った甘い声色だったということを書いています。
興味があれば読んでみてください。

春インカレはありませんでした。

本格的にオフが明けたのは8月からでした。
初日の練習では、自粛期間中ずっと外に置かれて水がくそ入っていた29220で出艇し、くそ遅くて萎えました。
8月に書いたブログです。

ワイルドな漢


僕に最初に与えられた船は自分より年上の29220でした。
かなり愛着を持っていました。自分の乗りやすいように整備していくのがとても好きでした。
ヨットに乗るよりも好きでした。
下位艇なので、好き勝手やりました。いろんな艤装を試しました。
29220は悲劇的な最期を遂げましたが、引き換えに、整備にこだわるということを身につけました。

そのころは同期の大根田と乗っており、どうすれば速くなるのか全然わからんかったですが、二人で知識を持ち寄ってあれこれやるのは楽しかったです。まさか結局、四年で大根田と乗ることになるとも思わんかったです。

9月、葉山で初めて江ノ島スナイプでちゃんとしたレースデビューしました。
普通に下レグで沈しました。


秋インカレ、両クラスともあっけなく敗退してしまいました。
普通に突破できると思っていました。
逆に、全日本インカレへ切符はそんな簡単には手に入らないものなのだと痛感しました。

四年生がごっそり抜けて、インカレ経験者が長岡さんしかいないという状況の中で、新しい代がスタートしました。
しかしコロナ禍は続いていて、1月も練習できないし、春合宿もほとんどありませんでした。
いろんな文献を読んで知識を溜めたり、筋トレしたり、バーチャルレガッタをやったりと。
でも、やっぱり、大学初めの初心者は特に、とにかく海に出て経験を積まなければいけない。
このままで、本当に戦えるんだろうかというもどかしさがありました。

1月・2月に書いたリレーブログです。

リレーブログ14人目漢

二日に一回髪の毛を洗うことにしています。


またも春インカレはありませんでした。
が、葉山でちょっと練習できていたようです。
オリンピックが延期していた影響で江ノ島の船が全部葉山新港に来てて、船をおけない。
だからレスキューボートは森戸であげて、ディンギーは今の合宿所まで、あの心臓破りの坂を毎日持っていっていました。
もう絶対にやりたくないです。


あとは江ノ島スナイプとかに出場していました。

タイタニック見て号泣しました。


管理艇は29220から31418へと大きくジャンプアップし、長岡さんと乗っていました。
長岡さんとの思い出はたくさんあります。結構相性良かったんじゃないかと勝手に思ってます。

どっかの江ノ島スナイプで沈して、センターボードに足が引っかかって長岡さんが死にかけたり。(小松さんの「そういう時こそ焦らず一旦落ち着く」という言葉を思い出して、冷静に対処したようです)

またどっかの江ノ島スナイプでは、10番台を連発した会があって、その時、初めてレースで楽しいという感情が芽生えました。

長岡さんは強風の中、たくさんハイクアウトしてくれました。
「お母さ〜ん、辛いよ〜」っていっつも言ってました。
でもそのハイクアウトは、スキッパーの視界から消えるほどでした。

個人戦ではどのレースも結局25番くらいに落ち着いてしまいました。
次葉山に帰ってくるときには、もっとレベルアップして、長岡さんと古関さんを全日本に連れていくぞという気持ちで八景島に戻りました。

8月夏合宿のブログです。

今日クーラーを使い始めました。


僕が一年生の時に、マストのスティフナーがおでこに刺さった話が書いてありますので、ぜひご一読ください。

当時は31418の浸水と孤独の戦いをしていたようです。
いろんなことをしすぎて途中、418がマーライオンになって時もありました。
結局管理艇を後輩の大野ちゃんに引き継いだ後に、彼が浸水を止め、ハッチプシューを実現させてくれました。ありがとう。お疲れさん!


夏合宿も途中で自粛オフがあり、練習量は多くはありませんでした。


そして秋インカレ。
予選は3位。

東大魂!!


そして決勝は11位に終わりました。
二日目の時点で全日本にはいけないことが決定してしまいました。
合宿所で泣きました。

四年生が長岡さん、古関さんの二人だけで、だからこそ、一個下の僕たちがしっかり支える。
そして、チームを引っ張ってくれた恩返しに、大好きな4年生と一緒に全日本に行こうと、この1年間やってきました。
でも圧倒的な敗北を喫し、四年生を引退させてしまったというやりきれなさと同時に全日本への高い壁に絶望しました。
一番辛い年でした。

最終日、最終レースが終わってハーバーバックしているとき、後ろを振り返ってレース海面を見渡し、来年こそはと誓いました。

470は蒲郡全日本インカレに出場しました。
代交代してこんなブログを書きました。

妥協なき旅



ラスト一年、最上級生としてプレッシャーをかけて取り組んでいこうと意気込みました。
当時の自分には何もありませんでした。
スタートはだめ、スピードもない、コースが引けるわけでもない。

そこでとにかくスピードを伸ばして戦えるようにしようと決めました。
そしてクルーにしっかり頼って二人で船を走らせること。
残された時間が少ない中、これしかないと思いました。

矢野さんがコーチとしてやってきて、矢野さんを信じて僕はやリマした。
正解は他にもあるかもしれない。けど、いろんな正解を試している暇はない。
色々、自分で考えて、自分なりの走り方を見つけるのが理想だしかっこいいとは思っていたが、なんせ時間がないと思った。

だから矢野さんの教えに忠実に取り組みました。
色々教えてくれてありがとうございました。

間違いなく、スナイパーとして大きく成長できたと思います。



春合宿開始前夜、ブログでこんな理論を提唱しました。

ジェット・コースター


ジェット・コースター理論です。
これが、僕がヨット部にはりついてた理由かもしれません。
朝とか、出艇前に辛い時、ぜひ思い出してください。

最後の春合宿は、最初で最後、フルでこなしました。
2月は八景島で週5練習、3月は葉山で週6練習。四年生も入部してから経験したことがなかった。
なかなかにハードでした。
新勧期も、無理を言って、練習も並行して行いました。特に下級生には嫌な思いもさせてしまったと思います。


でも、その分、みんな確実に成長してました。

3月末のエノスナでは、2年生で初めて出たエノスナのデジャブのような沈をしてしまい結果は良くありませんでしたが、(新社会人の皆さん、おめでとうございます。)、所々にレベルアップを感じていました。


そして3年ぶりの春インカレ。
スナイプ5位、4707位で、総合5位入賞。素直に喜びました。
ハーバーバックの曳航では、このためにヨット部やってたんだとも思いました。

でも最終的な目標までは課題はまだまだ沢山ありました。
個人としても、チームとしても。

6月、7月はエノスナや個人戦などのデカレースにバシバシ参加しました。

【調査結果】スナイプのマストの円周は大体180mmです。

投票行って外食するんだ


成績を安定させられるよう、課題を意識してレースをこなしていきました。

それなりに自信を持って臨んだ個人戦は、1レース決着。
しかも、下から出て左展開したかどうかでほとんど勝負が決まってしまう。
自分は上から出た時点で、結果は決まっていました。

次があると思ってレースをしちゃいけないということを学びました。


7月中旬には、これまた3年ぶりの7大学戦@閖上がありました。
14艇という小規模のチームレースで、ビッグフリートとはまた違った楽しさ、難しさがありました。

勝ち負けがはっきりとすぐにわかってしまうし、ライバル校を意識してコースどりをしなければいけない。
劇的な幕切れで、スナイプ優勝を掴み取ることができました。

牛タン焼き 仙台辺見


この瞬間もまた、かなり嬉しかったです。

7月はまた僕の人生を揺るがした一大イベントがありました。

30072改造計画です。
東大スナイプは上位3艇が辻堂でしたが、4番艇が旧奥村の30785でした。
インカレで船が壊れたら30785に乗るのか、、、とちょっと思ってました。
レギュラー争いも、辻堂に比べてハンディキャップがある。

そこで、その昔世界を震え上がらせたデンマークピアソン30072を整備しレース艇に仕立て上げようという一大極秘プロジェクトが始動しました。


約1ヶ月間、桜山に篭りました。
船に付いている部品を全て取るところから始まりました。
所々ステンレスじゃないのが使われてて鬼サビしてました。これまでの人たちが取るのを諦めたことがよくわかります。
力尽くで捻り取りました。
この作業が一番大変だったかもしれません。
デカイクラックが入ってるところを、グラインダーで削って、積層しました。

上裸で、ガラスマットを扱ったら、身体中にガラス繊維が刺さり、死ぬかと思いました。
葉山合宿所の浴槽で、空前絶後の水風呂を作り、かゆみを和らげました。

そして、所々にある、無数の穴をパテで埋めました。
面出しをして、トップコートを吹きかけました。
そこから浮き出てきた不十分なところをもう一回面出ししてから、再度吹きかけました。

すごくすごく綺麗になって感動しました。

毎日毎日、葉山合宿所に泊まって、朝目覚めて作業開始し、途中休みつつ、夜遅くまで、072と向き合いました。
山の中で、蚊が容赦無く血を吸ってきました。作業場の角に魔法陣のように蚊取り線香を配置して対抗しましたが、ほぼほぼ意味はありませんでした。


作業はまだ終わりません。

そこから部品の取り付けです。
ネジは太さ何mm長さ何mmが何本必要か、足りないブロックやカムなどの部品は何かを洗い出すことから始まり、
できるだけ費用をお抑えるために、時には八景島合宿所にいって探し出し、それでも足りない物を購入しました。
大きな声では言えませんが、ナットを全部ステンレスじゃないやつ買ってて、もう一度買い直しました。

ブロックフィッテングはなかなかに面白かったです。
特に、シュルシュルの御トラベラー後ろまわりシステムを完成させた時は大きな声が出ました。

東日本スナイプで072を使うために、最後は徹夜でロープのエンドレスをしました。
ほとんど意識はありませんでした。

突貫工事で間に合わせたので、ちょっと愛着が薄れました。

ちなみにノー睡眠で迎えた東日本スナイプは、1日目は鬼人化モードに入り9位で終えましたが、二日目は反動で沈んでいきました。

それから072はHIKオフィスで再計測しました。少しでも船を軽くするために、色んな部分を削り取りました。
スキッパの足元のアレを除去することで、乗りやすさと引き換えに、1kgのダイエットに成功。

その後、舞台は八景島に戻り、フィナーレを迎えます。
週5練習の解散後に、サイドの水色の線をやすりで消し、船底含め面だしをして、トップコートを吹きかけ、そして仕上げ磨き。
魂込めました。

新艇の青白さは出ませんでしたが、社会人が使ってるようなちょっと古めだけど綺麗で粋な船に生まれ変わりました。
海に出て乗った時は、もう、最高に気持ちよかったです。
デンマークピアソンの、モールドを全身で感じました。

このプロジェクトを通して、いろいろなものを犠牲にしました。
自分は何か始めてそれにハマると、それを始めた目的も忘れて、一心不乱になるタイプです。
ご迷惑をおかけした関係各所の方々ごめんなさい。そして自分にもごめんなさい。
072に没頭していた時間はかけがえのない思い出です。

それらは全て、30072の中で生き続けていくことでしょう。
みんなの想いを乗せて、燃え尽きる最期の時まで輝き続けてほしいです



あの、072の話は終わったけど、このブログは終わってませんよ。

とはいえ疲れたので、夏八景島は飛ばします。

9月、葉山に戻ってきました。
秋インカレまで1ヶ月。
課題はまだまだあったけど、できないことをできるようにするというよりかは、
積み上げてきた自分の持っているものをどれだけ発揮できるか、そこにだけ集中しました。

秋インカレ1週間前、前哨戦とも言える秋六大学戦。
僅差ではありましたが、東大スナイプは6位に沈みました。

秋インカレも同様、接戦になるだろうと覚悟しました。
正直同じくらいレベルのライバル校が団子になっていると。
上位で入賞の可能性も大いにありうるし、逆にここで敗退してしまうのではないかという不安も大きくなりました。
最後は、レース当日にパフォーマンスを発揮し流れを掴めた大学が勝つんだと、大野の隣で受動喫煙しながら、話したりしていました。

そして秋インカレ、6位で通過しました。

ら・ら・ら/大黒摩季


最終日、最終レースが終わってハーバーバックしているとき、またも後ろを振り返り、ちょうど1年前を思い出していました。
あの時の気持ちを忘れまいと、練習してきました。
ようやく報われたように思えました。

陸に戻ったあと、大野と西尾と抱き合ったことを覚えています。
去年も同じスキッパー陣で敗退して、舵を持つ者として同じ悔しさを抱えてきました。
自分は最上級生スキッパーだったけど、上からぐいぐい引っ張っていけてはいませんでした。二人はとても頼もしく、先輩後輩というより、対等に切磋琢磨していく仲間のようで、僕の心の支えでした。
ありがとう。

そしてなんと言っても、何十年ぶりの総合入賞
調がずっと掲げてきた、470スナイプという垣根を超えた一つの「チーム東大」で戦うという姿勢が形になったんだと思います。

あとは、もう琵琶湖で、思いっきりヨットを楽しむだけでした。
チェレンジャー精神を忘れずに、やることをやる。

琵琶湖前入り初日。
10m以上吹いてました。
午後から出ようとしていたところ、慶應スナイプが昼着してきて、話を聞いてみると、爆ヘダーで2艇同時にアンヒール沈したらしい。
琵琶湖はチンしたらマストが折れるって聞いてたし、こわ!って思いました。
風が少し落ちてから出艇したけど、それでも、それなりに強弱があって、ビビってました。
これが琵琶湖の風かと。琵琶湖の風は裏切らない!と思いました。

でもね、それ以降は、そんな風入ってきませんでした。

琵琶湖で練習していくうちに、結局やることは変わらないと、思えました。
難しく考えすぎるんじゃなくて、矢野さんがいつも言うようにセオリー通りシンプルに考える。

全日本インカレ当日、ノープレッシャーで思いっきりできると思っていましたが、やっぱり緊張してました。
3艇大きく崩さず、コツコツと点数を積み重ねていきました。
最終日前にして、スナイプ5位入賞圏内。

迎えた最終日。
朝、ハーバーにはたくさんの保護者、LBの方々がいらっしゃってくれました。

僕はそれまで、出艇の瞬間が一番緊張する瞬間で、あまり好きな時間ではありませんでした。
でもこの日は違いました。
みんなの声援が自分の背中を押してくれるようなそんな感じがしました。
最期の最後に、出艇が好きな時間に変わりました。

レース海面に着く頃には無風に。

ラバーの横にみんなでつけて、ずっと風まちをしていました。

31494と書かれたセールをじっと見上げながら、最期のMTGの、4年生から一言コーナーで何話そうか考えていました。

なんで自分はヨットを始めたんだろう、そしてなんでヨットを続けてきて、今もヨットに乗っているんだろうなんて考え出して、結局それは今もわかりませんが、確かに言えるただ一つのことはヨット部に入って学生ヨットやってきてよかったな、ということでした。

フォーンがなってAPA。

誰がなんと言おうと、全日本5位入賞。
思いっきり喜びました。

去年、関東11位から全日本5位、それはもう、ね。

琵琶湖の湖面は光り輝き、比叡山も笑っていました(→?)


その日の夜は、宿で同期みんなで、爆睡しました。
朝起きると、まだみんな寝てて、ドフラミンゴファミリーを倒した次の日の麦わらの一味みたいで、なんかええな〜、と近江牛カレーパンを食いながら思いました。

外に出てみると、空はとても青く、太陽が眩しかったです。





謝辞

入部してから今まで、基本中身のないブログしか書いてこなかった反省として、幾らかの人々にお礼・メッセージを述べたいと思います。

大学でヨットを始めた時から小松さんに褒められることがモチベーションにつながっていました。
そして常に気にかけてくれて、行き詰まった時はいつもヒントをくれました。調子乗ってるときも、落ち込んでいるときも、叱咤激励で指導してくださりました。

矢野さんには、もっと早くから教えてもらいたかったです。スナイプの走らせ方はもちろん、シンプルに考えてヨットレースをすること、そして何よりヨットは楽しむものなんだと学びました。一緒に072作ったのは僕の一夏の思い出ですし、矢野さんのクルーで乗るのも楽しかったです。


大根田くんとは一番最初にペア組んで、そんときはエノスナとかでまじで全然走れんかったけど、1艇だけの自主練で一緒に乗ったり、2年生で全個に通ってないけど事前練習にだけ参加したり、する中で、ポジションは違えど互いに刺激しあって上手くなっていけました。4年生になって、また一緒に乗ることになって、嬉しいことも悔しいことも一緒に分かち合えて、楽しかったです。スナイプリーダーとしても、1年間次から次へと頭を悩ませることが降り注いできて、よく夜に電話がかかってきたのを覚えています。いろんなところに配慮しつつ、けど自分が作りたいと思うチームの軸はブラしませんでした。尊敬です。ありがとう

大根田もくれはも、いいクルーで、間違いなく東大スナイプの中核を担っていました。大根だもくれはも気付いたら、すげーハイクアウトするようになってて、気合が違かったです。やっぱ国立大スナイプはクルーがカギだと思いました。それくらい、頼りがいのある二人でした。ありがとおう

大吾くんとは同期スキッパーとして共に頑張りました。なぜか一緒に出た伝説のエノスナは、知らないうちに他艇を沈させてマストを曲げさせてたことだけ覚えています。いい思い出です。大吾と自分は、すごく似ているところがあるなと、よく思います。夜シャワーを浴びず、朝早く起きてシャワー浴びるところとか。だからこそ一緒にいて居心地が良かったのかもしれません。最後の9月には、葉山合宿所で、毎日一つの布団で一緒に寝てくれました。そしてサポートに回ったあと、結構大変で、PTPのプレッシャーを一身に背負いながら、役割を果たしてくれました。秋インの二日目に寝落ちして次の日朝5時に起きて、せかせか準備していたのを僕は知っています。ありがとう

西尾、大野は、上にも書いた通り、まさに同志と言えるような存在でした。
すごく頼もしかったし、一緒に戦えて楽しかったです。ありがとおう
千田ちゃんと中静も下から突き上げてくれたし、9月の葉山でのコース練では速っ!って思ってました。
あと千田ちゃんの笑顔にいつも元気をもらってました。中静も千田ちゃんには敵わないけど、いい笑顔してた。ありがとう。
二人とも、もうすぐに僕なんかより上手くなると思うので楽しみです。
Q太郎大野には、僕の実力不足が故に、この一年苦しい想いを何度もさせてしまったと思います。
当の4年生にかかるプレッシャーよりも、その4年生の引退を背負って戦う下の代にのしかかるプレッシャーは半端じゃないと思います。そのプレッシャーの中で、一緒に戦ってくれてありがとう。
やはり、東大が長く強くあり続けるためには、未経験者でもいいクルーがどんどん生まれてくることが大事だと勝手に思っています。神田はデキる奴だし、今ぽは冬の葉山レスキューの後部座席でさなぎになっていた頃から成長してるし、船を支配するクルーになるべく、貪欲に!、Q太郎中心に切磋琢磨していってください。ありがとう。

いい同期に囲まれました。みんなまとめてありがとう。よんななまら〜ずの引くくらいの自主練の量に触発されていましたし、特に調くんには1年生の頃から僕を自主練に連れ出してくれて、なぜか葉山北風ど強風でスナイプで一緒にハイクアウトしてくれたりしました。ちなみにその時途中で気づきましたが、センターの流れどめがついてなかったです。

ななさん、ミオさん、かほさん。いつも元気をくれてありがとう。明るい女性は好きです。
いつも僕のだるい絡みに付き合ってくれて、楽しい時間が過ごせました。


先日、自主練にお呼ばれしたときに、小松さんとお話して、古山がもし現役に戻れたら何をするかを後輩たちに伝えていくんだと言われたので、全ての下級生に向けて一つだけ書かせていただきます。
えっと、風をみる力を養うことです。
風がもっと見えたら、ヨットレースをもっと楽しめる思うわけです。
ヨットレースを楽しめたら、どんどんヨットが上手くなっていくはずです。
そんな感じです。

そういや生ちゃんは、全日本インカレの総括で東大のことあんま書いてくれませんでした。
やっぱり総合入賞じゃないと。

とりあえず東大が総合入賞するまで陰ながら応援させていただきます。

あざした!
手疲れた!





















ちなみに、わたくし



























スナイパー 古山晋 でした
























長かった上レグ 短かった4年間

2022年11月26日 03時50分28秒 | 引退ブログ
お世話になっております。4年ディンギー班の青木大吾です。

先日の全日本インカレで、僕は東大ヨット部を引退しました。入部した時に思い描いていたかたちとは違いましたが、最後に自身のできる範囲で少しは貢献できたのかなと思っています。

ここでは、お世話になった方々に感謝を述べさせてください。

LBの方々や保護者の方々をはじめとしたヨット部を支えてくださった皆様、本当にありがとうございました。今年は最上級生として過ごす中で、皆様の支援があるからこそ日々の練習が成り立っていると実感することが何度もありました。今年の結果は、東大ヨット部を支えてくださった全ての方々と共に手に入れたものなのだと感じています。
来年からは僕もLBの一員として、皆様にしていただいたようにヨット部を支える一人となりたいと思います。

小松コーチと矢野コーチには、本当にお世話になりました。
小松さんは、他の同期に比べて色々と出来の悪い自分のことも本当に気にかけてくださいました。僕がたまにコース練習で前を走ったりすると、着艇後に皆の前で褒めてくださいました。いつも沈んでばかりでしたが、このときだけは上手くなっているのかもしれないという期待を自分に感じることができ、前向きになれました。ありがとうございました。
矢野さんには、最後の数ヶ月にサポートとして動くなかで何度も助けていただきました。色々呆れられてしまうことばかりでしたが、僕にとってはとても楽しく幸せな時間でした。

スナイプチームの先輩方も、現役の間から卒部された後まで長い間お世話になりました。下手な自分と一緒に何度も乗っていただいたり(そして沈してしまったり)、上手くいっていない僕を電話で励ましてくださったり、引退後にも無理を言って冬の練習に来ていただいたり…4年間ずっと先輩方に頼ってばかりでした。本当にありがとうございました。できれば、これから先も仲良くしていただきたいです…よろしくお願いします。

後輩たちには、感謝以上に申し訳なさが先立ってしまいます。これまで何も残せていないからです。だから、せめてサポートとして過ごした帰結としての何かは、今後言葉にして残します。少しでもためになれば嬉しいです。
頼りない僕を支えてくれてありがとうございました。

最後に同期へ。何度も言っているのでもう十分だと思うのですが、僕は本当にみんなが大好きで、尊敬しています。1年生の頃から「すごい人たちと一緒になったものだ…」と漠然と感じていました。選手のみんなは、不本意な結果ではあったかもしれないけれど、本当に誇ってください。最後に琵琶湖に連れて行ってくれて、素敵な景色を見せてくれてありがとう。
もっと一人一人に言いたいことはあるけれど、会った時に話します。いつでもうちに遊びにきてね。これからもよろしく。

東大ヨット部で大学生活を過ごせば、色々なことを考え、経験することになります。
それはどんなものであれ、誰にも等しく尊いものだと思います。それだけで十分です。
だから僕はこれから先のヨット部に、もっとこうなってほしい、ああなってほしいとは何も望みません。
今の現役部員たちと、未来の部員たちによって、東大ヨット部がこれからもずっと続いていくことを祈っています。

4年間ありがとうございました。

マネージャー物語ーー

2022年11月18日 23時59分00秒 | 引退ブログ



20194

キラキラした海と東大ヨット部に吸い込まれるように入部宣言

そこから全く想像できない日々が始まりました。



今まで出会ったことのない類の人たちとの出会い

平日にやりたいことを全部詰め込んで、毎週土日をヨット部に捧げる



計画通りに物事が進まず、考える時間もなくていつも走り回っていた

夜中の台風直撃で2階まで浸水して、肩を寄せ合いながら朝が来るのを待った夏合宿

日が昇る前に起きて、とりあえず暖かそうな布を体に巻き付けて炊事場に向かった春合宿


パレード!と言って艤装しているみんなの間を踊りながら歩き回る

先輩のテーマソングを勝手に作って突然目の前で発表会を始める、、、


大変なこともたくさんありましたが、1年生の時から本当に自由に過ごさせて頂きました。



2020

2年生になった頃コロナで活動ができなかった

練習が再開してもご飯作りができなかった


全然顔を合わせたことがない後輩もできた

ディンギー班のマネージャーが1人になり、自分が部活に何を求められているか考え直した


自分ができることは何か、自分のキャパはどれくらいか、何が苦手でどんなことを頑張らなきゃいけないのか

多くのことに気づくことができました。


ただ楽しく部活をしていればいい訳では無い。

2年生の私は、ヨット部をいいなと思って入ってきてくれた後輩に感謝の気持ちとヨット部の楽しさを伝えられていなかった、という後悔が今でも残っています。



2021

自分はヨット部と本気で向き合えているのか


部活は大好きな場所で、みんなの力になりたい気持ちはある、

でもプレーヤーのヨット愛が凄すぎる

部活の行き帰りだけではなくオフの日もヨットのことばかり考えている


そんなみんなと一緒に過ごしていて、私はこんなんでいいのか、本気でヨットと向き合っているみんなにとってどんな存在なのかと考えることもありました。


そして、プレーヤーがヨットに向き合うパワーに負けないくらい、プレーヤーのみんなに向き合うと決めました。

その時から、みんなのヨット愛を本当に尊敬し、いいチームを作って力になろうと思うようになりました。

そんな3年生でした。



2022

みんなありがとう


今まで部活を作ってきて下さった先輩方、一緒に戦い頑張っている同期、それを支えてくれている後輩

みんなに感謝が溢れる4年生でした。


秋インカレ、

自分がレースに出る訳では無いのに人生で1番緊張して、前日の夜から寝れなくて、私の相棒の後輩マネージャーにずっと弱音を吐いて抱きついていました。

みんなに緊張がバレないように切り替えてはなしかけていました。いつも通りを心がけて。


今でもあの3日間を思い出すと胸がドキドキします。

最終レースが終わって帰ってきたみんなの笑顔とあのキラキラした海と空を忘れることはありません。



一緒にチームを作らせてくれてありがとう。

一緒に戦わせてくれてありがとう。

最後に全日本という素敵な舞台に連れて行ってくれてありがとう。




~完~


最後になりましたが、4年マネージャーの齊藤菜々子です。

4年間、大変お世話になりました。

引退ブログのトップバッターでした。「マネージャー物語」と題し、私の4年間をお話させて頂きました。お読み頂きありがとうございました。

これからも、東大ヨット部をよろしくお願い致します。




それでも自分を肯定したい。

2021年12月25日 15時00分00秒 | 引退ブログ

お久しぶりです。
470クルーをしていました、下重智華子です。


先に言いますが、めちゃめちゃ長い文章になってしまいました。
読むのが大変なので、読まなくてもいいです笑
自己満のブログですが、お手柔らかに。

引退してから、日が経ってしまいました。
引退ブログを書こうとすると、色々なことを思い出して、いろんな感情が溢れて、少し整理がつかなかったので、逃げ回ってました。
でも、ようやく少しだけすっきりとした気持ちになれたので、言葉にしてみようと思います。

このブログは、きっと見る人にとってはしんどいかもしれない。
こんな引退ブログを残すのは、よくないのかもしれないけど、色々考えて残そうと思いました。大目に見てください


私の、この苦しい感情の理由は、4年間で一度もインカレに出られなかったことです。

1年生の時の秋、西坂さんと水石さんが最終レースで数点差の逆転負け。関東大会で敗退てしまった。その時のことはすごく鮮明に覚えていて、私もこれに4年間をかけようと決めたきっかけでした。
その時から、ずっとインカレで走ることだけ考えてました。インカレで前を走って、全日本にいく。わからないけど、もしかしたらインカレへの執着は部で1番だったかもしれない。多分、私が最後まで辞めることを一切考えなかったのは、このブレない目標があったからだと思います。

チャンスがないわけじゃありませんでした。

3年生の時、秋インのペアとして、4年生当時エーススキッパーの松前さんと組ませてもらって。希望した理由はすごく単純で、求められるレベルが高いほど成長できると思ったから。上手くなりたくて必死でした。松前さんの足を引っ張りたくなかった。チームに貢献できるようになりたかった。もしかしたら、自分よりも他のクルーと組んだ方が松前さんは走るのかもしれない、ってそんなこと考えたこともあったけど、実力に見合わない1番艇クルーを努めようと必死でした。
秋インカレの少し前、4番艇のクルーが大橋さんに決まりました。大橋さんはインカレの経験も豊富で、強風域が得意。その頃私は、軽風は自信が持てるようにはなったけれど、課題は強風。
それでも松前さんは1ピンまでなら下重で行きたいって言ってくれました。少しだけ認めてもらえたようで嬉しかった。
結局、2週間前から出艇できるのかレベルの爆風。スナイプが出艇だけして帰るようなコンディション。470だって余裕の2ピンオーバー。こんな風聞いてないよ。練習してないよ。ってみんな悲鳴をあげるくらいの風がビュービュー吹いてました。
私の出番はありませんでした。

天木さんたちの引退が決まって、いろんな気持ちが溢れてたまらなかった。6点差。悔しくて悔しくてしょうがなかった。何が悔しいのかもわからないくらい全部が悔しかった。大橋さんはすごく私に謝ってくれた。そんな、謝ってほしいなんて思ってなかったし、それを聞いてどうすればいいのかもわかんなくて、ただ純粋に、天木さんと松前さんと大橋さんが引退しちゃうのも悲しくて。思ったよりも8位まで近かったけど、あとちょっとだけ足りなかったことも悔しくて。出れなかったのももちろん悔しかったけど、ぜったい私が出ても変わらんかったし、やっぱあの風だったら大橋さんの方が絶対よかったし、どうしようもなかった。

次のチャンスは春イン。
同期の智貴と組ませてもらいました。この頃は本当にすごく楽しかった。2人で船のパフォーマンスを良くするためにどうしたらいいのかをずっと考えてました。小松さんにもたくさん見てもらって、教えてもらって。意味わかんないくらいヨット乗ってました。学業を疎かにしまくって、ヨットしか乗ってなかった。
むやみやたらと乗りゃいいってもんでもないって少しだけ気づいてたけど、自分の身体の限界を感じるくらい乗ってた。本当に楽しかった。
春インが本当に楽しみでしょうがなかった。3番艇争いも熾烈で、チームとしての仕上がりも本当に楽しみだった。関東の中で自分たちがどれだけ喰らいつけるのか、試したかった。

でも、コロナでなくなってしまった。
この時の喪失感は半端なくて、魂抜けるかと思いました。いや、正直ちょっと抜けてました。

それでも、なんとか魂取り返して、メンタル保って、関東個戦。
良いところもあったし、成長も感じた。やっぱり、第1レースで良い景色を見られたことは忘れられない。1番忘れられない良い思い出。それでも結果は悔しくて悔しくて。まだまだだなって思った。秋インまでもっともっと上手くなって上手くなって上手くなるって決めました。

4年生の秋インでは、郁ちゃんと52で4番艇として最後望むことになりました。最後の最後まで諦めるつもりはなかったけど、あまり良い波に乗れなくて、ずっとスランプみたいになってた。自分はもっと上手くなれるはずだったのに、上手くなったのに、どうしてできないの、悔しい悔しい悔しい。諦めたくないけど、期待することにしんどくなって、ぐちゃぐちゃしたまんまずっと過ごしてました。
東大のクルーの中で自分が1番上手いって自信が持てるところは一応あったけど、4人がそれぞれ良いところ持ってて、自分が1番だなんて全然言えなくて。結果も出せなくて。
1番になれなかったことが本当に悔しかった。
圧倒的になりたかった。認めてもらいたかった。本当に悔しかった。

4番艇でもあり、レスキューでもあり、どう振る舞えば良いのか難しかった。下級生の頃は全力でサポートのこと考えていられたけど、選手としての気持ちとレスキューとしての気持ちどっちつかずな感じがしてもやもやしてた。

私の唯一決めたことは、チームを信じ抜こう、ということ。私は多分、1番チームのことを信じてた。古橋は、自分が1番だったって言ってたけど笑。私も、少なくとも同じくらい信じてた。入賞本当にできると思ってた。だって私が控えなんだよ、強いじゃんそりゃあ、って。
レースメンバーが叩いて落ち込んでも、へっちゃら。だって信じてるもん。そんなんじゃないでしょ実力、全然。大丈夫でしょ、実力出せたら勝てるんだから。って本当に思ってました。

そんな気持ちだったから、レースメンバーには少し求め続けてしまった。秋インの結果だって、みんな納得してなかったとは思うけど、私も全然納得できなかった。

全日本の前日練習で、藤田下重のパフォーマンスが良かった。我々が1番走ってるんじゃないかってくらい良くて、自分たちはちゃんと4番艇としてレースメンバーのお尻叩けてるし、役割果たせてると思えた。この練習が私の現役最後のセーリング。楽しかったって思えた。これか本当に嬉しかったし、よかったです。自分のいる意味を見出せました。

全日本インカレの結果はご存知の通り。悔しかったし、もっといけたんじゃないかって思ったりもするけど、本当に揉まれた。うん。実力だなぁ。

まぁ、要は運がなかったなって思います。
クルーで圧倒的な1番の実力をつけられなかったことは自分のせいだけど、自分としては本当に言葉通り出来る限り頑張ってきたつもりだし、そんなに実力が他に劣ってたとも思わない。運がなかったなって思うことにしました。

まぁ、ヨットってそういう競技だなとも思います。世知辛いし、無慈悲。
自然相手だもん、そうだよね。こっちの気持ちなんて知ったこっちゃないよね。


先日、同期と1個上の先輩とご飯を食べました。
先輩方が、下重をインカレに出させてあげたかった、そうずっと思ってレースしてたってのを聞いて、ようやく、天木さんも大橋さんも松前さんも、古橋も崇も智貴も克樹も、調も工藤も、私のこと背負って戦ってくれたんじゃないかなって思いました。
私だけじゃなく、他のインカレにでられなかったメンバーを背負ってくれてた。

あ、470チームの強さはそこだったのかもしれないなって思った。
チームをずっと作ってきて、チームのために戦える人は、最後まで諦めないし、馬鹿力が出るのかもしれない。
自分が出られないことは、本当に、口から心臓を掴めるくらい悔しかったけど、自分のことを背負ってくれる人たちがレースメンバーで良かったなってちょっと思える。

東大ヨット部は、新たな時代を迎えていて、きっと、ここから先、私みたいな人も出てくると思う。
だから、忘れないでほしいです。
こんな気持ちでサポートに回る人がいるってこと。その気持ちを背負って戦うことが、チームを強くすること。



しんどい感じの文章をダラダラ書いてしまってごめんなさい。
こんなこと言ってるけど、やっぱり私はなんだかんだ、こんな経験できて幸せだなって思います。
だって、成長できた。

私は入部する時、4年間を全うしたい、という気持ちで部活に入りました。
自分の成長のことなんで微塵も考えてなかった。
でも、この4年間のおかげで、いろいろなことに気づけたし、考えたし、成長できた。
インカレには出られなかったし、目標には及ばなかったけど
そこそこは上手くなれて、人間的に物凄く成長できて、たくさんのものを得られました。そんな自分を肯定したいと思ってます。

1番は、
死ぬほど負けず嫌いで、負けそうなものなら逃げ出していたタイプなのに、レギュラー争いというしんどいしんどい戦いに諦めず向き合い続けたこと
これがいちばん偉いと思う。自分を褒めたい。何度も何度も、諦めちゃったら楽だな、もうやめたいなって思った。みんなそうだったんだと思うけど、毎回レースメンバーを決める時は吐きそうになってた。こんな気持ちになるなら、もうずっと4番艇でいいって言いたいなって、競い続けないほいうが楽だな。って何回も思った。
けど、逃げないで頑張り続けようって決めてたから、しんどくても辛くても悔しくても練習頑張った。
頑張る、ってことをちゃんとやれた。
これが私の1番の成長です。

他に自分の成長できたとこなんてあげだしたらキリがない。たくさんありすぎて。

チームづくりという面でも
本当にいろんなことを考えて、最後までやってこれた。
意識していたことや大切なことは色々あるけれど、いくつか述べたいと思います。

まず、呪いをかけないこと。
これは、天木さん達の代から引き継がれてきたことだと思います。
1年生2年生はみんなどんぐりだし、差がついても一時的なものなのに、上級生がこいつが上手いみたいな雰囲気を出してしまうと、その呪いがかかってしまうと思います。
私は最後まで自分はダメだなんて思わないでやってこれました。それは、私に期待をかけ続けてくれた先輩のおかげだと思うし、だからこそ、後輩達にも期待をかけ続けようと思ってやってきました。
今までにないくらい層が厚くて、誰がレギュラーになってもおかしくないくらい足並みが揃っているのは、それが理由の一つでもあるのかなって思います。
これから人数が多くなってきて、激戦になってきます。競争が熾烈になる中で、上級生は特に意識してほしいです。期待をかけ続けてあげてください。

下を育てること。
持続可能な強いチームにするために、下を育てることは必須です。
強い人たちが入ってきても結果を出しても、その人たちがいなくなって弱くなったらそれは強いチームとは言えないと思います。だから、今まで育ててきた分を返すという意味でも意識的に取り組みました。

前のブログでも書きましたが、470チームは本当に良いチームだったと思います。
先輩方に恵まれ、同期にも恵まれ、後輩にも恵まれました。
みんな、本当にありがとう。

なんだかんだ、後輩に全日本の舞台を少しだけ見せることができてよかった。
去年涙を飲んで、私たちにはあまり明確に全日本での自分達の姿を思い描くことができませんでした。
来年は、きっとさらに高いステージで上を目指してくれると思います。






後輩達へ
クルーザー班
色々とお世話になりました。小網代はいつも私を笑顔で迎えてくれて嬉しかった。来年はさらに高いところに行けるように頑張ってね。

マネージャーのみんな
いつも明るく選手をサポートしてくれてありがとう。毎日、美味しいご飯を作ってくれて、いろんな気を利かせてくれてありがとう。部にとってマネージャーがどういう存在であるべきか、すごく難しいなと感じることもあるかもしれないけど、自分たちが模索していく中で見えてくるものもあるんじゃないかなと思います。同じチームの仲間として、選手と一緒に上を目指していって欲しいなと思います。これからもよろしくね。

スナイプチームの後輩達
もっと見てあげられたら良かったかもしれないけど、あまり見れなくてごめんね。
多分、スナイプチームはポテンシャルがすごく高いから、上手くいけば本当に今まで見たことがないような景色も見れるかもしれないけど、行き詰まってしまったら暗黒期に入ってしまってもおかしくないような、どちらの可能性も持ってると思います。
4年生が怪我を抱えていたり、色々と大変な部分もあるかもしれないけど、その分、チームの強さ、組織としての強さってものが重要になってくるんじゃないかなと思います。
優しさと想像力を持って、いいチームを作ってほしいです。






470チームの後輩達
今まで一緒に歩いてくれて、どうもありがとう。
一人一人にコメントしたいところだけど、ここで書くと長くなりすぎるので、あとで個人宛に送ろうかな笑
新2年生
同期が8人。人数が多いのは、強いと思う。その一方で大変なこともきっと多い。常に競争が生まれる中でしんどくなる時もあると思うし、辛く感じる人も出てくるかもしれない。8人全員がまとまるっていうのもなかなか簡単なことじゃないと思います。でも、もし8人が全員最後まで続けて、最後まで切磋琢磨してこれたら、最強の代になれるんじゃないかなと思います。しんどい時は、自分のペースで大丈夫。他の7人が支えてくれる。本当に期待しています。
新3年生
この代はマイペースで何考えてるのかわからん人が多くて、色々教えるのにも骨が折れました笑。同じことを何回も言い続けてしまったし、厳しいことをいってしまうことも多かったと思います。ごめんね。でも、君達は本当に成長しました。本当に上手くなったと思う。これからは後輩じゃなくて、チームを引っ張っていく上級生として、さらに自分を高めていってほしいと思います。うるさくいう上級生が減っちゃったから、今度は同期5人で指摘しあって、意識を高く持てるようにね。はやく私たちを超えてくれなきゃこまるから。がんばってね。
新4年生
可愛くて可愛くてたまらない、私の後輩たち。
私は、自信を持って君達を送り出せます。絶対に君達なら私たちを超えてくれる、って確信があります。多分、うちの同期全員心の底からそう思ってると思う。みんな真面目で健気で良い子で。ひたむきにヨットに取り組んできた姿を1番近くで見てきました。本当に私たちの誇りです。これをあまりプレッシャーに感じず、私たちの誇りであることに自信を持って、上を目指してほしいなと思います。
今までやってきたことを信じて、素直な気持ちを忘れずにがんばってね。
ここまで良いバトンを繋げてこれてるから、もっともっとレベルアップして次の代にバトンを渡してね。

I'm proud of you.






多大なるご支援をしてくださっていたLBの皆様
ヨット部として活動を重ねていく中で、どれほど支えてくださっていたのかを実感してきました。
懐の深さと、温かさを持って私たちを見守ってくださって本当にありがとうございます。
今まで支えていただいた分、今度は私が誰かを支えられるよう、人間として精進していきたいと思います。これからもよろしくお願いします。

小松コーチ
本当はもっと良い結果で今までの恩返しをしたかったです。
ヨットのことだけではなく、人柄や生き様からたくさんのことを学ばさせてもらいました。
誰よりも真剣に私たちと向き合ってくれて、なんて恵まれていたのだろうと思います。
ありがとうございました。

ずっと支えてくれたママ、パパ。
4年間ずっと見てくれて、応援してくれてありがとう。
最後の2年くらいは特に、ヨットばっかりになっちゃって全然顔見せられなくてごめんね。
それでも、大会のたびに応援してくれて、元気になれる言葉をかけてくれて、差し入れとかもたくさんくれて嬉しかったです。ありがとう。
これからは、時間ができるから、たくさん会おうね。






最後に、同期へ。
4年間ずーと一緒にやってきてくれた同期には感謝しかないです。
最初は本当に人数が多くて、そこから少しずつ減っていって。辛いこととかを一緒に乗り越えられて、最後まで残ったメンバーはかけがえのない存在です。
あの時語った夢を、全部は叶えられなかったけど、ずっとみんなで目指してこられて本当に楽しかったです。
私がのびのびとやれたのは、賢くて優しくてずっとそばにいてくれた同期のおかげです。
大変な時も、辛い時も、楽しい時もいろんなことを一緒に経験して、過ごしてきました。
4年間は本当に長くて、嫌になるくらいずっと一緒にいたよね。
今、いろんなことあったね、って思い出して笑い合えるのが何より幸せです。
一生の仲間になれたんじゃないかなって思います。
本当にありがとう。

長くなりすぎてしまって本当にごめんなさい。
これで私の最後のブログになります。

東大ヨット部に入って本当によかった。
ここで得られたものは一生の宝物です。
全部、肯定して受け止められます。

まだまだ私のヨット人生は終わらせません。
これからも、よろしくおねがいします。



下重智華子