古山クンの鬼長引退ブログでハードルがあがってしまい、みんなのほとぼりが冷めるまで待つことにしたら、自分のほとぼりも冷めてしまい、こんなに遅くなってしまいました。すみません。ところどころ雑ですが許してください。
2019年4月、上クラの中野さんのアタックを受け、試乗会に行きました。中野さんは新歓のプロだったので、ボート部のスタッフで心が決まりかけていたくれはを誘って一緒に来るよう命じてきました。同じクラスで、すでに入部していた調べクンから「ヨット部には女子プレーヤーが必要なんだ」というアツい新歓を駒場の食堂で受けたりもして、レスキューの運転も楽しかったし、入部することになりました。
1年生八景練がはじまって、ムキムキのしっかりしてる先輩に、ホッパーの艤装を教えてもらいました。その日の午後に、それが工藤クンという同期だったことを知りました。
ホッパーに山本パパや古関さんと乗って、いろはを教えてもらって、1人で乗りはじめたら、もうあっという間にヨットに夢中になりました。沈は怖かったし、出着艇はやりたくなかったけど。
土日が楽しみで、そのおかげで平日の勉強も捗るくらい、ヨットが、ヨット部が好きになりました。
サポートの間は、ヨットレースのこともイマイチよく分からずに1日レスキューに乗ってました。眠いときもあったけど、つまらないということもなくて、同期よんななまラーズと一緒に3年後こうなってるんかねぇ、と合同コース練をながめていました。
代交代後、470に乗り始めて、スキッパー初日の最初のタックで沈して、そのとき一緒に乗っていたちかさんはその先が思いやられて絶望したと思いますが、大丈夫大丈夫!と明るく励ましてくれました。ここで舌打ちとかされていたら今のわたしはなかったかもしれません。こんな下手っぴが自主練したいと言ってもずっと来てくれ続けた、470クルーの先輩たちの横顔(クローズ帆走中)がかっこよくて。自分が先輩になってもこうなろう、とこのとき心に誓いました。
この時期はひたすら腕の筋力との戦いです。1月オフに怠けていたせいで、2月の最初の練習で腱鞘炎になり、強風の日はメインシートを持つだけで痛い状態が続きました。おじいちゃんの家の近くの外科医(のちにヤブ医者と知る、)には、2週間は安静にしろと言われました。でもこの最初の大事な時期に同期と差がつくことだけは嫌だったので、無視して乗ってました。翌週に家の近くの整骨院に行ったら、サポート器具を使ってヨットに乗り続けられる方法を考えてくれました。あのときヤブ医者の言うことを律儀に聞かなくてよかったです。
中風以下の風のセーリングが好きになりました。なのにこの年の八景レースも東北大戦も南風爆風で、セールを破いたりレース中に沈したりで、心の中でずっと「練習とちがーーーう!!」と叫んでました。でも、この普通に生きていたら絶対にしないような経験をして、命からがら陸に戻ってきたときの、人生の糧になった感が、ちょっとだけ好きでした。これからピンチに瀕する時があっても、ちょっとだけ、過去から力を分けてもらえる気がします。
活動停止になってからは、毎日走って、たまに料理して、週2のミーティングに出て、二重跳びをしていました。50回連続で飛べるようになってやめました。でも、いつ終わるかも分からない状況に耐えられなくて、6月はほとんど家から出ませんでした。ずっとドラマを見てました。
活動再開して、初日に熱中症でぶっ倒れたりしながらも、太陽の下、海の上でセーリングできることが純粋に幸せで、ずっとエンジョイセーリングをしていました。セーラーっぽくなりたくて、裸足で470にのっていました。(日焼けが痛くて嵩のある狭いお風呂にVの字で入らなければならなくなって、面倒だったのでやめました)
あれよこれよという間にやってきた秋インは、わたしはハーバーにも入れず、家から入部したての1年生とzoomをつないで、オンラインたまやをしました。爆風の2レース決着で、数点差で全日本にいけなくて、そして天木さんの代最後のミーティングも、みんな号泣していたらしいけれど、参加できず、そのまま引退されてしまいました。感じたのは、こんなに他人事な引退あるか??っていう疎外感でした。
でもその直後から葉山での自主練で、わたしと調べと高原に、小松さんと天木さんとちかさんとしゅうさんが来てくれて、とんでもなく練習の質が高かったのを覚えています。01が1番角度が取れるね、バウが重いからかな、なんて話をしてた気がします。
このころに、クローズでプレーニングもできるようになって、それまで強風なんて苦痛でしかなかったのに、6.7mの風が少しだけ好きになりました。
八景に戻ってからは、後輩と乗るようになって、もうエンジョイセーリングどころではありませんでした。ハーバー内沈からはじまり、今までまったく見てこなかったところで下級生がトラブってたり、質問されたりで、頭の中はずっとワイワイパニックでした。
でも、自主練で少しずつ、まわりをみて、クルーにアドバイスすることができるようになりました。そういや、この時期の自主練のペアも、藤田丸山と調べ松尾が多かった気がする。小松さんと2人でレスキューに乗ることも多くて、セールセットやマストベンドなどの真面目なことも教えてもらったし、世界のおすすめセーリングスポットや外人セーラーとのエピソードなどもたくさん教えてもらいました。話が盛り上がってヨットほったらかしのこともありました。ヨットや海のことを知り尽くして、時には過酷な思いもして、それでも海に出続けるほどに魅力のある世界なんだと、小松さんの半生や、海のことを考えるたびにわくわくしてました。
3年生、純粋にヨットが好きでした。少しずつコース練でも戦えるようになってきて、先輩の指摘も高度なものになっていって、自分の中で理論も構築されてきて、なんのプレッシャーもなくて。しゅうさん、ちかさん、まるちゃんとたくさん乗ってました。春は5番艇、秋は4番艇で、インカレにレースメンバーとして出ることは叶わなかったけれど、レースメンバーもみんな大好きだったし、東大ヨット部として成績が良ければ純粋に喜べる性分だったので、あっさり、真剣に、サポートしてました。
(1番気楽で楽しかった時期ゆえにこれしか書くことがない)
3年生の夏は、大好きな4年生があと3ヶ月後にはいなくなる、という寂しさに打ちひしがれることが多かったなぁ。面倒見がよくて気前がいい、ザ・先輩という人だらけだったので思う存分甘えていたし、甘やかしてもらいました。いまでも大好きですよ❣️仲良くしてくださいね😃
うわぁ本当に部活こなくなっちゃった、そんな風に寂しがる暇も無く、せかせかわたしたちの代が始まりました。1個上の代のとき、サポート頑張れたのはレースメンバーがみんなナイスガイだったからなんよなぁ、だから、みんなが好きになれるチーム、居心地がいいチームを作りたい、そんなことを幹部ミーティングでみんなに伝えました。
調べクンはヨットの上で笑わなくなっちゃったし、高原は相変わらず何考えてるかよくわかんなかったけど、工藤は相変わらず声デカくて、とりあえず4人で470チームを引っ張るの、なんだか胸熱なものがありました。自分にできることをしようと思って、下級生のお悩み相談に乗ったり、海上でチョけたりしました。必要だと思ったから、チョけてたんですよ?
春インはまるちゃんと。とても乗りやすかったです。お互いを気遣いあう、いい関係性のペアでした。でも、2人ともはじめてのインカレで、独特の空気に口数も少なくなってしまって、いつも通りにはいきませんでした。でも、2日目第1R、5位でフィニッシュして、それまでの微妙な成績もわたしの中で、無事帳消しにされました。笑
5-7月は加藤とペアを組みました。いつでも、どんな時も、平然と加藤のままで、戸惑いの連続でしたが、逆にレースも本当にいつも通りでした。本番でもほぼ練習のときみたいなパフォーマンスができて、コセン、七大戦ともに、そこそこ走りました。加藤ありがとうねぇ。
4年夏。
調べクンに夏合宿の目標を聞かれたとき、余裕を持つことだと即答しました。結局今までのどの長期合宿も、最後の方は疲れて、何も考えたくなくなって、他の人のことを気遣うことはできなくなっていました。だから、最後だけでも、470チームも、スナイプチームも、ペアも、同期も、下級生も、1年生も、みんなのことを気にかけよう。そう思って臨みました。
できてました……かね?笑
ちょっとでもいくちゃんいて、いくさんいて、いくちゃんさんいて、合宿助かったなぁなんて思ってくれる人がいたら、嬉しいですね。
8月からはまた、まるちゃんとペアでした。春のときより、船を引っ張ろうという意識を強く持っていて、頼もしくなっていました。そして、春のときより、遠慮がなくなって、ギスギスするときもある、悩めるペアでした。楽しかったけど。
たかまが怪我をして、3番艇争いがなくなりました。
自分が走らないと、直接、チームの成績は悪くなる、という立場になりました。逆に自分が走ればチームでいい成績を残せる、だからもっと上手にならないといけない。9月からはそのモチベーションで頑張ることになりました。
でも、それは、本当につらかった。焦りと不安と、なのに成績が奮わない虚しさで、なにかに押しつぶされそうでした。秋インも1レース目にリコールして、しんどい展開になって、もし負けてこのまま引退したら自分ヨット部嫌いになりそうだなぁ、なんて心のどこかで考えてました。
なんとか全日本につなげることができたけど、その後の10月の練習も、なんなら全日本でも、立て直すことはできませんでした。
やっぱり切磋琢磨できる存在がいるって大事だなって。それでスランプに陥ったのはどうやったって自分の落ち度ではあるんですが。自分がダメなとき、いまの自分よりいい成績を残せそうな人が控えていることの安心感はきっと計り知れない。
だから、全日本で、叩きまくって、たかまと加藤に交代しようと言われたとき、悔しいより先に、ホッとしました。ホッとしてしまいました。
正直なところ、全日本の間のメンタルはもう、ぐっちゃぐちゃでした。何かを考えるたびに涙がでてきて、慌てて隠して、審問で負けたあとなんかは、宿でひとり、声を押し殺して号泣していました。
わたしもしんどかったけど、まわりの人にも(特にまるちゃん)、シンドい思いをさせ続けてしまったと思います。ごめんなさい。
支えてくれた各位、本当にありがとうございます。励ましの言葉をくれたり、無言で背中を叩いてくれたり、そっと慰めてくれたり、関係ない明るい話題で上を向かせてくれたり。わたしを支えた心当たりなんてない、画面の向こうのそこのアナタにもきっと、わたしは支えられていました。
つまるところ、わたしは自分のためには頑張れませんでした。ヨット部のみんなのおかげで、最後まで前を向いて戦うことができました。
最終日、結局レースはなかったけれど、またスターティングメンバーになってからは、本当に前だけを、次のレースのことだけを考えていました。
まっっっったく満足できる結果ではなかったし、これが実力だ、と潔く笑顔で終えることもできなかったけど、でも1年間、いやヨット部に入った時から全日本まででお世話になった人みんなと一緒に戦うことができたと、改めて東大ヨット部が好きになった大会でもありました。
積み込みを終えて帰りの新幹線、くれはと、あのとき試乗会にいったのが始まりだったねぇ、と思い出話に花が咲きました。ながかった、ながかった4年間が、そこでようやく締めくくられました。
最後にひとつだけ。
今年の年初めのリレーブログです。
やっとのことで新歓で手に入れた1年生が、部を離れてしまったことを憂いながら書いた気がしますが、最後の文言はそれから9か月、頭の中で反芻しつづけてきました。
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わたしの人生にとってヨット部はかけがえのないもので、ヨット部の歴史にとってもわたしはかけがえのないものでした。出会えてよかったね。
引退の日に、そう思いたいものです。
マッチング・ショット - 東京大学運動会ヨット部
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わたしの人生にとってヨット部はかけがえのないものでした。
ヨットというスポーツや合宿で揉まれて、大学に入る前には想像もできなかったような、たくましくて、いろんな経験を乗り越えた人間になりました。
ヨット部を通じて先輩、同期、後輩、LBの方々、コーチ、他大ヨット部、他の運動会部員などなど、いろんな人と出会いました。それぞれが、わたしの人生を彩って、ヨット部に入る前の自分より、明るくて、責任感と、闘志と、負けず嫌いを併せもった自分に導いてくれました。
ヨット部の歴史にとっても、わたしはかけがえのないもの、だったでしょうか?
いまいち自信はないのですが。わたしがヨットに乗ったことで誰かが上手になったり、わたしが新歓で入部させた誰かが活躍したり、わたしが励ました誰かが辞めるのを思い留まったり、わたしが癒しで部活頑張ろうって思ったり(…これは冗談です)、そういうものではいくらか貢献できたと、思っています。それは今の成果にとどまらず、これから先、わたしがいなくなったあとのヨット部でもその痕跡が垣間見れれば嬉しいです。
全日本の最終日、調べクンも言ってたとおり、わたしはこの全日本での悔しさを後輩に託すことができます。4年間何してたんだろ、何の結果も出せなかったじゃないか、と自暴自棄になることなく、自分の4年間が後輩にとっても価値のあるものだったと信じて、跡を継いでもらうことができます。丸投げに聞こえるけど、これから、わたしがヨット部にかけがえのないものだったと証明してくれたら嬉しいです(^ー^)
出会えてよかったです。ありがとうございました。
東京大学運動会ヨット部
藤田郁