明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(287)殺された人びとへの追悼と祈りをこめて―キャンドル・ビジルへのお誘い―

2011年10月08日 10時00分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)
守田です。(20111008 10:00)

連続投稿をお許しください。今日、10月8日は、アメリカ軍がアフガニスタンに
空襲を開始してから10年目の日です。この10年間の「対テロ戦争」で殺された
全ての方たちを追悼して、本日、午後7時より8時半まで、三条大橋の上で、追悼
のキャンドル・ビジルを行います。すでに一度、案内を流していますが、再度
掲載させていただきます。お近くのみなさま。どうかご参加ください。

昨日、「封印された原爆報告書」というNHKドキュメントの内容を文字起しした
ものを掲載しました。この報告書は、日本陸軍を中心に、日本政府のもとで作ら
れたもので、例えば広島で被ばくした17000人の子どもたちの詳細なデータが記載
されていました。

爆心地からのどれぐらいの距離では何人中、何人が死亡したのかなどのデータで、
原爆の殺傷能力を明らかにした初めてのものでした。当時、アメリカ側から調査
に関わった人物はこれを「革命的」と形容しました。このデータにより、対ソ攻撃
で、アメリカは広島原爆の何発分をどの都市に落とせば壊滅を引き起こすことが
できるかという重要な事実を知ることができたというのです。

日本人の手によって集められた子どもたちの痛ましい記録が、アメリカ核戦略の
礎となっていったのです。許すことのできないことがらです。

日本政府によるアメリカ軍事戦略への加担、賞賛はこれだけにとどまりません。
太平洋戦争末期の日本本土空襲を指揮したのは、アメリカ戦略空軍のカーチス
・ルメイという将校でした。ルメイは一般市民への無差別爆撃を指揮した戦争犯罪人
ですが、日本本土空襲の功績を買われて、その後もアメリカ空軍の指揮官として
働き、朝鮮戦争やベトナム戦争での無差別爆撃をも指揮しています。

このカーチス・ルメイに対して、日本はなんと勲章を送っています。理由は航空
自衛隊の育成に貢献したからだといいます。日本本土にじゅうたん爆撃を行い、
何十万という非戦闘員、女性・子ども、お年寄り等々を殺害した犯人を表彰して
しまったのです。もし「国辱」という言葉を使うのならば、こういうときに使うのが
ふさわしいのではないでしょうか。


アメリカはその後も、空襲戦略を続け、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク
戦争と、繰り返し無差別爆撃を繰り返しています。僕はこの一因として、日本が、
戦争直後からアメリカに徹底して媚を売り、日本の国民・住民殺害の記録を、
データとして差し出し、積極的に核戦略に加担していったことがあったと思えて
なりません。

いくら惨く相手国の国民・住民を殺しても、徹底した力を示せば、やがて相手は屈服し、
自分たちになびく。そうしたまったくあやまった教訓を、日本政府はアメリカに
与えてきてしまったのではないか。

こうした点は、使用されている兵器にもあらわされています。これらの空襲の中で
繰り返し使われているのが、クラスター(収束)爆弾です。爆撃機が親爆弾を投下
すると、空中で割れて、無数の子爆弾がばら撒かれる。殺傷能力の高さなどから、
国際的に批判が集中している爆弾ですが、そもそものクラスター爆弾の始まりも、
日本本土空襲に使われた焼夷弾でした。親爆弾の中に八角形の円筒状の筒が無数に
込められ、油を詰めて落としたのです。それが日本の諸都市に猛火を呼び起こした。

この爆弾はアフガニスタンでもイラクでも多用様されました。太平洋戦争における
日本本土空襲の経験の上に重ねられてきた米軍の戦闘経験が、朝鮮戦争、ベトナム
戦争、湾岸戦争を経て、アフガニスタン空襲にまで連綿と受け継がれてきているの
です。

そればかりか、これらの戦争では、まるで新型爆弾の見本市みたいに、あらゆる
新型爆弾が投入されました。湾岸戦争から登場した劣化ウラン弾も多用され、多くの
地域が放射性ウランによって汚染されてしまいました。オサマビン・ラディン
一人を匿ったという理由で、たくさんの、まったく関係の無いアフガニスタンの
方たちが、殺傷されました。イラクは大量破壊兵器など持っていなかったのに、侵略
され、フセインが処刑されてしまいました。

そして私たちの国はそれを支持し続けました。それがこの10年、いや第二次世界大戦
から連綿と続いてきていることがらです。そのつながりの中で、原子力発電が生まれ、
アメリカ製の原子炉が地震国日本に50以上も建てられ、そして311の大震災で、原発が
崩壊し、たくさんの放射能が飛び出して、私たちを襲っているのです。

こうした全ての流れを断ち切りたい。

そのために今、自分たち自身のこととしてこの10年の国家暴力による犠牲者を追悼
する時間をみなさんとシャアしたいと思います。今宵夜7時より、京都・三条大橋の
上でお待ちしています。

*********************

殺された人びとへの追悼と祈りをこめて
 ―キャンドル・ビジルへのお誘い―

とき 10月8日(土)19:00~20:30頃まで
ところ 三条大橋周辺
主催 ピースウォーク京都 090-6325-8054
peace@pwkyoto.com
http://pwkyoto.com/

10月8日はどんな日?
2001年の「9・11事件」の報復に、米軍がアフガニスタンへの空襲を始めた日。
(干ばつに苦しむアフガンの人々に爆弾の雨を注いだのは、誰に何を報復するため?)
巨大な国家暴力が次々と牙をむき続けた10年、10月8日はその始まりの日だった。

アフガニスタンからイラクへ、あのとき始まった「戦争」は、まだ終っていない。
(イラクには大量破壊兵器なんてなかったのに)
日米同盟という“つきあい”で、私たちもまた、にんげんの命を奪い、
地球の命をも脅かすこの戦争に加担させられてきた。

戦闘機の上からの視線ではなく、地面を逃げまどう人の視線で、
「殺すな!」 と、ただそれだけを叫びたくて、
小さな一人が、いても立ってもいられずに、
「ひとりの歩みから」を始めた10年でもあった。
世界中の小さな一人のうねりが、何かを変える流れにつながるのを夢見て。

でもこの時間の中で、ありとあらゆる新兵器が殺人に使われ、劣化ウラン弾も
たくさん使われた。
放射能は今このときも、かの地の子どもたちや未来の命を脅かし、奪い続けている。

10年の後に3・11を経て、同じたくさんの放射能を浴びた私たちの大地から、
この10年の暴力の中で失われた命に想いを馳せ、
手の上に灯した小さな炎を見つめる時間をともにしよう。
すべての戦争犠牲者に哀悼を。
命を脅かすモノを「やめることができない」愚かさに終止符!の思いを込めて。

10月8日、三条大橋を灯りのリングで包み込みましょう。
希望の明日への歩みを始めるために、ともに悼む時間をご一緒しましょう。


What is “October 8th”?
It’s the day when the US started to bomb Afghanistan in the name of
retaliation against the tragedy of September 11th, 2001.
Who on earth was that against and what on earth was that for?
– throwing a shower of bombs and bullets over Afghan people who were
suffering from long period of drought.
Huge acts of violence by nations have recurred successively these
10 years.“October 8th” is the day it actually started.

The target shifted from Afghanistan to Iraq and the war that started on
that day is not ended yet although it turned out that Iraq didn’t
have weapons of mass destruction.
Under the “political relationship” called Japan-US alliance, we
Japanese were obliged to support the war that took people’s lives
and also would threaten this planet’s life.

Just to cry out “don’t kill anybody!” for people trying to escape
on the ground, many little people have taken first steps spontaneously
these ten years, dreaming that tiny ripples from all over the world
would come together to become a big wave to change the world.

Various new weapons such as DU bullets have been used to kill people
these 10 years. Radiation continues to threaten and take children’s
lives in that area.

Experiencing “March 11th” 10 years later, and living on land severely
exposed by radiation, let us think of the lives taken by the violence
of these 10 years and look quietly at the small candle lights in our
hands together.

Let us express our grief and sorrow for all war victims and put an end
to our stupidity of not giving up holding and using weapons that
threaten people’s lives.

Let us surround Sanjo Ohashi Bridge with our candle lights on October 8th.
Come and join us to share some time to mourn and to start to walk ahead
together with hope for tomorrow.



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明日に向けて(286)訂正・被爆者認定と原爆症認定について

2011年10月08日 09時00分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)
守田です。(20111008 09:00)

明日に向けて(283)で、矢ヶ崎克馬さんを京都にお招きすることを紹介
しましたが、その中での僕の説明にあやまりがあり、ピースメディアを
主催している友人が、分かりやすい指摘をしてくださいました。ここに
ご紹介するとともに、合わせて僕の文章の訂正とさせていただきます。
混乱を招く文章を書いてしまい、どうも申し訳ありません。

指摘していただいたのは次の点です。

*********

この文章では、いくつか不正確な書き方をされています。

「(引用)…矢ヶ崎さんの研究は、政府によって、(もともとはアメリカ
によって)被爆者と認められたなかった方たちが、このままでは死んでも
死にきれないと被爆者認定を求める集団訴訟を求めたことに対し、被爆者
と弁護団の要請を受けて、裁判の証人として出廷するために、被爆者の
身体に起こったことを、物理学の立場から解明せんと始められたのでした
(ここまで引用)」

この文では、別個の概念・用語である、
A「被爆者認定(被爆者であることの認定=被爆者健康手帳の交付)」と、
B「原爆症認定(被爆者が、さらに「認定被爆者」となること)」
が混同されており、区別がついていません。

上記引用では、「被爆者と認められてなかった方たち」が裁判に訴えた
(Aに関するもの)、と読めてしまいます。
文中言及の訴訟は、Bに関するものであり、矢ヶ崎克馬さんは、例えば、
熊本「原爆症認定」集団訴訟などに関わっておられ、その証言によって、
原告勝訴に導いています。

このままでは、何を訴えていたのか、何が争われていたのか、理解されて
いないことになりますので、訂正を求めるものです。

**********

全くご指摘の通りです。

この点、矢ヶ崎さんにも連絡をして幾つか尋ねた点も含めて、もう少し
詳しく解説させてもらいます。

被爆者認定を受けている方は、2010年末現在で230,736人おられます。
これに対して原爆症認定を受け、医療保障を受けられている方は、同じ
統計年で7,197人。わずか3%にしかなりませんが、これでも2003年からの
原爆症認定訴訟の結果、大幅に増えたのです。それ以前はどうだったのか
というと、2003年の集団提訴段階で、わずか1%、2000人台でした。

どうしてこのようなことになっていたのか。そもそも原爆症認定制度とは、
広島、長崎で被爆された方が、原爆による放射線が原因とみられる病気に
かかり、治療が必要だと判断された場合に、国が原爆症と認め、医療特別
手当を支給するとされているものですが、この法律ができてから非常に長
きにわたって、国が認定基準を極めて狭く設定し、ほとんどの方の病を、
放射線に起因するものとは認めてこなかったのです。そのため被爆者の99%
近くが、この法律に基づく医療手当の支給を受けられずにきました。

とくに問題なのは、原爆投下後に市内に入った方たちを含め、内部被曝に
起因するさまざまな病の発症を、国がまったく認めてこなかったことでした。
そのために被爆者とは認定されても、身体に起こっているさまざまな病を
原爆症と認められない状態が続いてきており、今も全てが認められてはいな
い状態にあります。

2003年からの集団訴訟は、この理不尽なあり方の是正を目指したものでした。
被爆者認定を受けた方たちを主体に進められましたが、一部は被爆者という
認定すら受けられていない方たちも参加されたそうです。裁判は各地で勝訴
を重ね、19連勝という実績を作りだし、国の基準の見直しを引き出しました。
現在では爆心地から3.5キロ以内の被爆者、また原爆投下後100時間以内に、
爆心地から2キロ以内に入った被爆者にまで、認定基準がひろがっています。

しかしそれでも今、生きておられる被爆者の方たちの3%にしか認定がなされ
ていません。訴訟の勝利は大きな成果ですが、それでもまだまだ国による
被爆者への手当は非常に薄いものであるといわざるをえない現状です。


さらにこうした被爆者に冷酷な国の在り方は、そもそもの被爆者の認定基準
にもあらわれています。この点について矢ヶ崎さんは、著書『隠された被曝』
の中で、現行の被爆者認定基準の是正が必要であることを主張されています。

被爆者は、法律上、以下のように定義されています。
①1号被爆者(直接被爆者) 原爆投下の際、当時の広島市もしくは長崎市
の区域内又は政令で定めるこれらに隣接する区域内に在った者。
②2号被爆者(入市者) 原爆投下から2週間以内に爆心地から2キロ以内に
入った者。
③3号被爆者。原爆投下の際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能
の影響を受けるような事情の下にあった者。
1、近隣の地域で救援や治療・看護にあたった者。
2、黒い雨地域に在った者のうち健康管理手当が受けられる病気にかかった者。
3、海面の反射等で特に影響の強かった地域に在った者。
④4号被爆者(胎児) 上記被爆者から広島では1946年5月31日まで、長崎
では1946年6月3日までに生まれた者。


矢ヶ崎さんはこれを次のように改めるべきだと主張されています。解説を
加えながら、以下、紹介します。

(1)被曝期間を枕崎台風襲来までの期間に改めること。両市ともに9月17日まで。

枕崎台風とは戦後3大台風に数えられる大型台風で、両市とも大きな洪水が
起こり、残留放射能のかなりの部分が海に流れたと推測されます。ちなみに
アメリカと政府は、原爆投下がもたらした放射線の影響を語る際に、この台風
の後に計測された数値を論拠としています。かなり放射能が洗い流された後で
測ったものから類推したものを、広島・長崎に降った放射能の量としており、
これも被曝隠しの大きな一因となっています。

この主張を行うにあたって、矢ヶ崎さんは、放射性核種が、放射線を出して
「崩壊」する際に、別の物質に変わって、さらに放射線を出していく「崩壊
系列」について解き明かし、このため放射線の総量が、原爆投下直後をピーク
に下降線をたどるのではなく、むしろ一時的に上昇してから、下降していった
ことを解き明かしています。これらからも従来の2週間という期間はあまりに
短いと言えるのです。

(2)被曝距離範囲を広げること。

原子雲の広がった範囲はおよそ直径20キロでした。その範囲の全てで、被曝の
危険性があったわけです。なおこの原子雲の広がった範囲は、従来、いわゆる
キノコ雲の写真から、その高さを類推し、範囲を特定するという方法が取られて
きました。ここでも範囲を狭く捉える認定が行われ来たのですが、最近になって
コンピューターシミュレーションの発達により、雲が成層圏に達してそれ以上
上がれなくなり、横へ横へと広範囲に広がったこと、このため従来認定さ
れていた地域より、広範囲が放射能汚染されたことが確認されています。
これらからも被曝距離範囲をもっと広げることが問われています。

(3)3号被爆者の範囲を、9月17日までにひとりの被爆者にでも接した者全てに
拡大すべきこと。

これも従来、政府が内部被曝をまったく認めてこなかったために、被爆者の身体
に付着した放射能の埃を吸いこんだための被曝が無視されてきたことを批判した
ものです。

(4)放射線は電離という分子切断の作用を持ち遺伝子を傷つける。被曝2世等に
対しても「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」を準用すべきである。

放射線が世代にまたがった被害をおよぼしていることを批判したものです。
アメリカと国がこの点をまったく認めていないことを批判しています。


以上、原爆症認定訴訟で争われたことと、前提としての被爆者認定基準のあやまり
について整理しました。これらの点については、さらに学習を深め、折にふれて
内容を更新していきたいと思います。

重要な指摘をしてくださった友人への心からの感謝を最後に書き添えて、この記事を
閉じます。


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