カメラの作業に疲れたので、古いレース時代のフィルムをスキャンしています。これはゼッケン21ですのでノービスの初レースの時で、たぶん前日の土曜日の練習だと思います。富士のヘアピンを立ち上がって行きます。
快調にストレートを駆け抜けて行きます。まだセッティングが決まっていないので、内心はエンジンが焼き付ないかと左手の中指がクラッチレバーに掛かっていたはずです。
うちのクラブ員の彼女たち。今見ると少しケバイ感じに見えますが良い人たちでした。もちろん、私の彼女はいません。
白黒画像なので余計に暗く見えますが、雨のレースは嫌いです。チームメイトのスタートをサポートしています。私もRIDERの腕章をしていますのでエントリーをしていたのでしょうけど、雨のレースは記憶に残りません。
ヤマハが作った仙台の菅生サーキットに外国人選手を招待したイベントがありました。Rは世界チャンピオンのケニーロバーツ選手。プッチキリで優勝しました。
これはジョニーセコット選手。ベネゼイラの人だったか。
ヤマハワークス入りした高井幾次郎選手。「小さな巨人」と言われました。個人的には小排気量の125ccクラスで短気筒のAT1を駆って二気筒車と対抗していた頃が好きです。私も同じエンジンを使いましたので。350ccぐらいまでは良かったですが、500ccは少し無理をしたのかも知れません。同じ菅生でテスト中に転倒して亡くなりました。
これは浅見貞男選手。関東のライダーでタクシーの運転手などをしてレース活動をされたと聞いていました。私のクラブの先輩と知り合いなので親近感を持っていました。マシンはワークスではなく、市販のTZ500で、ワークスとは性能差があります。
富士スピードウェイは晩秋から冬にかけて、天候が雨となるとコース全体が濃霧に包まれて走行不可となることがあります。この日の練習もコースイン直前にコース閉鎖となってガッカリ。コース上で記念撮影となりました。
日曜の決勝も雨です。私の先輩である藏治義紀選手がゲートに向かいます。このマシンは市販レーサーのヤマハTR3(350cc)で、国内に供給された台数が少なく、有力選手にのみ入手が出来た状況です。昭和47年3月26日「第17回クラブマンレース」この頃はノービスクラスの選手が上級のジュニアクラスに挑戦が出来るという制度があって、それによるジュニア挑戦レースです。
ピットロードを加速して行きます。ヘルメットはオールドスタイルのドンブリ型。この時すでにゴグルが曇り始めています。
スタートしました。まずまずのスタートでした。手前左は根本健選手。他に杉本泉選手、加藤昇平選手など有力選手の他に関西からカウリング前面に「初陣」と書き込んだ糟野雅治選手も出走していたと記憶しています。
当時はまだ30°バンクを使用したフルコースでの開催です。S字コーナーを回って100Rに向かいます。しかし、この頃はゴグルが曇り、ゴグルを取り去っての裸眼走行となってペースが落ちて来ました。
このマシンは恐らくヨシムラの加藤昇平選手だと思われます。非常に理知的なお顔立ちの選手で速い選手でしたが、後年、スズキの竜王テストコースにて転倒、帰らぬ人となりました。
結果はジュニアクラス6位でした。この頃はヨーロッパスタイルのドンブリヘルメットからフルフェイスヘルメットへの移行期で、有力選手はすでにフルフェイスを使用しています。ジェット型ヘルメットはゴグルのフィッティングが難しく、ロードではあまり普及しませんでした。ゴグルが曇らなければ、さらに上位の入賞は確実でした。しかし、当時の写真を見ると、その時の情景が鮮やかによみがえって来るものですね。キヤノンFTb使用。
トミーのリペイント (sakura.ne.jp)