(舟島 四)
そんな小次郎をせせら笑うかの如くに小舟から飛び降りたのムサシの目に、島の外れにある神社が入った。
寺を出て十年の余、神仏に対する畏敬の念を捨て去り、一度たりとも神仏に手を合わせることのなかったムサシが―いまさら神仏に加護を願うことなどできぬと煩悶してきたムサシが、
「此度ばかりはご加護を。南無八幡大菩薩、吾に力を貸した給え」
と、深々と一礼をした。
気勢をそがれた小次郎だったが、これが噂に聞くムサシの戦法かと怪訝に思いつつも、神仏に対して無碍な態度をとるわけにもいかない。
不意打ちを考えているのかとムサシの一挙手一投足に気を配りつつ、同様に深々と一礼をした。
小次郎がムサシに目を移したとき、櫂を削って作った木刀を振りかざしながら、ムサシが波打ち際を走り始めた。
木刀をブンブン振り回しながら小次郎に間合いを計らせない。
宍戸梅軒との闘いにおいて会得した戦法を見せた。
いきなりの激しい動きに苛立ちを感じつつも、小次郎もまた走り続けた。
「臆したか、小次郎!」
ムサシから半歩遅れる小次郎に、ムサシの怒声がふりかかる。
思わぬ事だった。恥辱だった。
未だかつて一度たりとも相手に臆したことのない小次郎だ。
否、相手方の逃げ腰を非難する小次郎だった。
これまでの試合前において人々の口の端に上る言葉は、皆一様だった。
小次郎への賞賛だけだった。
「此度も小次郎殿の勝ちよ。はてさて、一体どれ程の時がかかるものか…。
いやいや、相手が臆することなく挑めるかどうか…」
なのに今、その言葉がムサシによって、小次郎に放たれた。
この決闘において町の辻々で交わされた言葉は、小次郎の負けばかりが囁かれていた。
「此度ばかりは、小次郎さまとてかなうまいて。何せ相手は、あのムサシだ」
「阿修羅の生まれ変わりと聞き申した」
しかし小次郎には、それでも確固たる自信があった。
〝燕返しから逃れられる者など、この世におらぬわ。彼(か)の摩利支天でさえも〟
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