寝ぐるしい夜があけた朝、母が、おれの記憶から消えさっていた。
そしてその日から、母にたいして怨嗟の念をだいていた。
「親としての責務をはたせよ!」
「ごめんね、ごめんね……」
ときおりかかってくる詫びの電話。
嗚咽とともにくり返される、詫びのことば。
しかし日が経つにつれて、単なる雑音となった。
なんの感慨もわかず、なんの感情も入ってこなくなった。
そしてそれは、けっして自暴自棄のこころでは、ないはず筈だ。
そう、思った。
━━━━━━・━━━━━━
(一)鼠
その○刑囚は○への恐怖心がうすれるにつれ、生あるときを思いおこした。
活きいきと生きた、そのときを思いおこした。
己のつみを意識し、悔いた。
しかしその悔いは事件にたいする悔いではなく、おのれの過去と未来への悔いだった。
「○刑に処する」
冷たく事務的なこのひと言は、○刑囚にはなんの意味ももたなかった。
それどころか、人を○したことへの後悔の念をあとかたもなく捨てさせた。
鼠が食べのこしたチーズひと欠片ほどの反省心さえも捨てさせた。
その恐ろしく事務的な声は、ひんやりとした空気のただよう場を直線的に走った。
そしてそのことばの矢は、じっと聞き入っていた傍聴人たちのざわめきを呼びおこした。
そのざわめきは、皮肉にも○刑囚の緊張感をやわらげさせた。
刺すような視線を全身に感じて、肌にいたみを感じていた○刑囚の、こころのざらつきを消し去った。
しかしつぎの瞬間、その緊張感とこころのざらつきを、至極なつかかしいもの
――冬眠を終えた蛙が、暖かい春の陽射しの下にでた歓びにも似る――
と、感じた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます