いつもは小夜子の意に反することはしない武蔵だったが、このときばかりは
「すまん。それだけは勘弁してくれ。もう関係は切っている。
今後もいっさい男女の関係はもたん」と、土下座をせんばかりに懇願した。
以降もことあるごとに噛みつく小夜子にたいし、
「こればかりは許してくれ。あいつほど優秀な事務員はいないんだ」と、そのつど頭をさげた。
そしていま、残ってもらって良かったと、心底おもう小夜子だった。
「そうなの。夜はね、武士との時間にしたいの。なんとかなる?」
手を合わせんばかりの小夜子にたいし、
「お姫さま。誤解しないでいただきたいのですが」と、徳子が思いもよらぬことを告げた。
「どうでしょう。そろそろ会社から身を引かれては。
せめて武士坊ちゃんが中学に上がられるまでは。
社長ではなく、嘱託として残られませんか」
小夜子も、考えないでもなかった。
会社でいまのような無為な日々をおくることになんの意味があるのか。
しかし、と、それを否定する小夜子もいた。
〝なにもしていない、なにものこせていない〟
武蔵亡きあと、おぼろげながらも富士商会の未来をつくってみたいと思った。
あたたかみのある家族経営である富士商会としてみたいと思った。
相撲部屋のように親方と女将さんがいて、弟子たちすべてが子どもとなる。
誰へだてなく愛情をそそぎ、しかし甘やかすことなく厳しい稽古をかさねて、幕下幕内、そしていっぱしの力士へと育て上げる。
いまは親方がいない、異常事態なのだ。
おのれが中心となり、富士商会という家を守りたいと思った。
身を引く、継続する、相反する気持ちが、小夜子のなかに生まれていた。
「ほんとに、誤解はなさらないでください」
眉間にしわを寄せて、辛そうに申し訳なさそうな表情をみせ、ことばがつづいた。
「お姫さまのご尽力で、業績は右肩あがりです。
これ以上は望めないほどの、業績です。
ですが、限界にきました。いったん足踏みをしたいのです」
ことばを発しない小夜子にたいし、
「ほんとに、誤解なさらないでください。
お姫さまは、富士商会の宝なんです」と、つづけた。
渡りに船だった。
小夜子の弱ったこころを察してのことかのような、徳子の提案だった。
富士商会の宝、小夜子にもよくわかる。
「当初のように、週に1、2回でけっこうなんです。
夜の接待はなしにしましょう。昼間に、ここで歓談していただければ十分です」
ひと呼吸おいて、徳子がつづける。
「じつは、これは竹田の提案なんです。
竹田が言うには、『ぼくがいえば、お姫さまは反発なさるかも』と心配しまして。
ですので、あたしの口から言わせていただきました」
ソファから立ちあがり、深々とおじぎをする徳子だった。
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