「おお、来たきた。俺の、観音さまだ。
富士商会の姫であり、そして俺の守護霊さまだ。
さあさあ、ここに来い」
と、ベッドの端をポンポンと叩く。
強い西日の光をさえぎろうと、看護婦がカーテンの前に立った。
「おいおい、そのままにしてくれ。小夜子の顔がはっきり見えるだから」
と、怒気のふくんだ声が飛んだ。そこに、医師と婦長が入ってきた。
「なんだなんだ、今日は。小夜子とふたりだけの時間は作ってくれないのか。
先生、婦長までもか。そんなにおれは悪いのか?
まるで臨終の儀式みたいじゃないか」
おどけた口調で言う武蔵だったが、
「なんてことを! 先生、ちがうわよね」と、涙声で小夜子が問いただした。
己の死期がちかいことは、武蔵は知っている。
しかしそのことは小夜子には言わないでくれと、何度も武蔵が口にしている。
気持ちの変化でも起きたのかといぶかしがる医師に対して、婦長が
「あらあら。あたしたちはお邪魔虫みたいね。さあさあ、血圧を測ってちょうだい。
お熱もね。どうにも奥さまがいらっしゃらないとわがまま三昧で」
と、その場をとり繕った。
「婦長だけだ、俺のことをわかってくれるのは。
一回の呼び出しでは来なくていい。
二回目が鳴ったら、そのときは緊急時だ」
顔を真っ赤にしながら、なにも言えずにいる小夜子だった。
普段ならばなにがしかのことばで言い返すのだが、入院してからというもの、夫婦としての会話がまるでない。
ひと月は、武士の相手ができるわと楽しんでいたけれども、ふた月も経つと寂しさを感じてしまう。
しかも小夜子の寂しさを知ってか知らずか、武蔵はこのところにこやかな表情を見せることが多くなった。
むろん時には苦痛に歪む表情を見せることがある。
しかし武士の笑顔をガラス越しとはいえ見ると、すぐに破顔一笑となる。
ただ武士を連れて来るときには、大騒動なことになる。
本来ならば「赤児の見舞いはお断り」となるのだが、武蔵の無理強いは度を超えている。
なのでやむなく、いやがる武士にマスクをさせて、さらには肌が病院内の空気に触れないようにと、手袋をさせてつれてくる。
しかも武蔵との面会のおりには、上部がガラス面のパーテーションを部屋に持ち込んでのことになる。
そして30分以内という時間の制限もつける。
不満顔を見せる武蔵だが、万が一にも感染してはという医師のことばに従わざるをえない。
「さあそれじゃ、みんな。おふたりだけの時間にしましょう。
先生、30分ならよろしいかしら?
御手洗さん。くれぐれも病人だということを忘れないように」
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