「世の妻帯者の三割が、十分な金を稼いでいるはずだ。そして家族にぜいたくをさせている。
しかし俺のように、細君にたんまりの金をつかっている、つかわせている夫は一割にも満たんぞ。
どうだ、残りの九割の中に入りたいのか?」
「そんなの、嫌!」
「だろう? 心配するな、俺は浮気なんぞしていない。
もう昔みたいな、女遊びはしていない。そうだ、梅子に聞いてみろ。こんど連れていってやるから聞いてみろ」
映画館で観たチャップリンのように胸をそらせて言う。
“また、ごまかされた。でも、いいか。
たしかに、香水の匂いをさせて帰ってくることはなくなったし。
出張先でといっても、そんな時間もないでしょうし”
疑念の気持ちは残るものの、これ以上追求したところでいいことはない。
そう考えて矛を収めることにした。
「タケゾウ!」
突然にすっとんきょうな声を上げて、小夜子が立ち止まった。
「どうした? なにか、欲しいものを見つけたか? 約束だから、なんでも買ってやるぞ。
小夜子のおかげで商売も順調なことだし」
「ここ、ここ、ここに入ってみたい。
歌声喫茶、カチューシャですって。カチューシャって、ロシアよ。アーシアの国よ」
目をかがやかせて、武蔵の手を引っぱる。
昭和30年に、歌声喫茶「カチューシャ」と「灯」の二店が誕生した。
店内のお客全員でうたうということが、連帯感を生まれさせてくれる。
集団集職で上京してきた若ものたちにとって、さびしさを紛らわせる心のよりどころ的な存在になっていった。
「ああ、楽しかった。みんなで歌うって、素敵ね。
それに大きく口をあけるのも、こころが開放されるわ。竹田も、そう思わない?」
うっすらと汗をかいている小夜子、十分に満喫している。
「はい、そうですね。気持ちいいです。ですが小夜子奥さま、そろそろお帰りにならないと」。
陽の落ちた時間が気になる竹田だ。小夜子のお供をおおせつかって、もうふた月が経つ。
取り引き先のあちこちから引っぱりだこの小夜子は、夜の接待にもかりだされている。
当初こそ、ビッグバンドの演奏が聞けると大喜びだった小夜子も、接待の何たるかを知るにつれて不きげんになっていった。
しかし他の女子社員たちの目もあって、にこやかな対応をしなければならない。
これまでのように、好き勝手はできない。朝の出勤時間も、次第しだいに早くなっていった。
いまでは、武蔵と同時刻に出社する。
「無理するな、遅くてもかまわんぞ」と武蔵がいっても、
「いいの。みんなとわいわいおしゃべりするのが、楽しいから」と、小夜子の意思でしている。
さすがに夜の接待の翌日は昼の出社としてはいるのだが、武蔵はふだんどおりに出社していく。
「ほんと、タフなのよね。それだけが、とりえかも?」
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