年に一度の、従業員に対する評価を行う日が来た。
昨年までは珠恵と番頭、そして板長という三人だったが、番頭からの強い進言もあり、今年から栄三の席が用意された。
「先代女将には口を出させるなと言われていますしねえ」と迷う珠恵に対して板長の進言が加わり、ならばと認めた。
栄三にしてみれば(今さらですか)という思いを抱えつつも、仲居たちの愚痴話を聞かせて欲しいという珠恵のことばに、それならばと同席をした。
あくまで参考意見として聞くのですからと念を押されてのことではあったが、いざその場になると栄三の熱弁は止まらなかった。
仲居たちの不満を珠恵に告げ、板長には清二の処遇について頼み込み、果ては番頭に対してまで己の裁量権を少しは認めてくれと談判した。
口出しせぬ事を条件としたはずなのに、あまりのことに「この場から離れて」と、珠恵が一喝した。
その剣幕にいったんは矛をおさめたものの「清二だけには仕事を与えてもらえないだろうか」と、畳に頭をこすりつけんばかりに懇願した。
「一人前の板前だなんて嘘を吐いて……」と毒づく珠恵に対し、「親心でしようから」。と、二人がとりなした。
結局、行く行くは番頭として旅館の切り盛りを任せては、ということになった。
そして向こう三年間、番頭の下で下足番の仕事から始めさせようということになった。
「日本一の下足番を目指してほしいものです」。
番頭が力説した意味が分からず、「下足番で終わらせるつもりか。番頭風情が」と言い残して席を立った。
「小林一三という立派な方の言葉を知らないんですか」と、珠恵から辛辣な言葉が投げつけられた。
仲居たちの評価に入ったとき、「どうも光子がおかしい」と珠恵が切り出した。
「まさかとは思うけれども、身ごもってはいないわよね」。
それはないでしょう、あの娘は真面目ですよ、と二人が笑い飛ばした。
しかし珠恵には確信があってのことで、「とにかく目を光らせなくちゃ」と結んだ。
どうにも最近、清二の視線が気になる。
ややもすると一日中、光子に清二がまとわりついている気がするのだ。
そのことを口にすると番頭が、確かにと頷いた。
(ひょっとして清二が父親?)。いやいやと打ち消してはみるが、すぐに(まさか二人が情を通じている?)と考えてしまった。
翌日、珠恵が「ふしだらな女ね、見損なったわ!」と光子を詰った。
「相手は誰なの」。強く問い詰める珠恵に対して、光子は口をつぐんだままだった。
光子には答えられない、分からないのだ。
あの夜のことはまるで霧がかかった夜道のように、その先が後ろが見えない。
誰かがいるような気はするが、白い壁に阻まれてまるで分からない。
その向こうに誰かがいるような気配を感じるのだが、光子を辱めた相手が居るような気がするのだが、入り口がどこにあるのかが分からない。
手を伸ばしてみるが、その手をはじき返す何かがまとわりついている。
いや、ややもすると光子の手が足が消えてしまう。
体全体が白い何かに取り込まれてしまう。
あるのはただ、自分がそこにいるらしいという感覚だけだった。
「なになに、どうして」と手足をバタバタさせようとするが、それすら出来ない。
まさか仕事中に眠りこけてしまった折に、誰かに手籠めにされたとは言えない光子だった。
「何か大ごとがあったらしい」。「光子が女将さんに問い詰められているわ」。「身ごもったらしいわ」。仲居たちの間で喧しい。
(相手がぼくだとバレたらどうなる? ひょっとして追い出されるのか)。
それを聞いた清二は、恐怖感に囚われた。
それでなくとも「今日から下足番をしてもらいます」と、番頭に告げられたのだ。
昨日までとはまるで違う下働き扱いに愕然としている清二には、名乗り出る勇気もなく身動きができない。
オドオドとする清二に気付いた栄三が「まさか、お前!」と問い詰めた。
(父親ならば味方をしてくれる)。(父親ならば間に入ってくれる)。(この父親ならば見捨てない)。
そう考えた清二は、声を絞り出すような掠れ声で、事の真相を告げた。
日頃の二人を見ている栄三に対して、決して無理強いではない、二人の合意としての行為だとも付け加えた。
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