9日(月)。今日は新聞休刊日。活字中毒にとって新聞がない朝はさびしいものです 毎日早朝から配達してくれている新聞配達の人たちにとっては年に数回しかない休日です。ここは、優良(有料)読者としては我慢のしどころです。配達の皆さんいつもありがとうございます
閑話休題
昨夕、NHKで「ららら クラシック」第2回目の放送を観ました この日のテーマは「モーツアルトは本当に天才か?」です。レギュラー司会者は作家・石田衣良と作曲家・加羽沢美濃、ゲストはN響首席オーボエ奏者・茂木大輔です
茂木はゲストに呼ばれるだけあって、モーツアルトについてよく研究しています 彼は指摘します。
「モーツアルトは天才だったのは間違いない。しかし、彼が生きていた当時は、多くの作曲家が活躍していて同じような曲を書いていた。その中で、どの曲がモーツアルトの作曲したものかを(その時代にいて)当てるのは非常に難しいことで、自信がない 料理で言えば、材料もレシピもほとんど同じなのに、モーツアルトの料理だけが他と違ってとびぬけて美味しい。料理の技術が優れていたのだと思う。彼は作曲が上手かったし、技術が優れていた」
そして、さらに指摘します。
「彼は時間管理の天才だったのではないか。人の心理をよく読みとって作曲したと思う。全体の曲の流れをよく考えて観客が飽きないように作曲していたと思う」
そして「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第1楽章のライブ演奏を流し、音符ひとつで曲想ががらりと変わる様(しかけ)を解説します
次に悪妻と言われたコンスタンツェについて取り上げ、モーツアルトは彼女の姉のアロイジアのためには多くのアリアを作曲したのに、コンスタンツェのためにはほとんど作曲しなかったことを指摘します。しかし、あの天国的な「アヴェ・ヴェルム・コルプス」はコンスタンツェに捧げたのではないかともコメントします。アシュケナージ指揮N響の演奏が流れましたが、短くも本当に美しい曲です
次に、モーツアルトは映画「アマデウス」で見られるような軽薄でいい加減な男だったというイメージを払しょくすべく「モーツアルトは自筆作品目録を作っていた。それほど彼はまじめで几帳面だった」と指摘します 28歳の時からずっと書き続けていたとのことです。彼の手による最後の自筆譜の次のページから、音符が一つも書かれていない五線譜が続いているのが何ともさびしく悲しい思いがしました
次に茂木氏が指摘したのは「彼は相当ピアノの練習をしていたのではないか」ということですそれは彼の手紙から推測されるとのことです。そして、「モーツアルトの楽譜には書き直しがない。彼は楽譜に書く時はすでに頭の中で曲全体が出来上がっていて、あとはただ頭の中の譜面を書き写すだけだった」と言われる”天才性”について次のように指摘します。
「最後の交響曲第41番”ジュピター”の第2楽章は書き直しがあります。この曲は何の目的で誰のために作曲されたのか分かっていません 彼が書き直しをしなかったのは、当時モーツアルトは注文によって曲を作っていた(オーダーメイド)ので書き直す時間がなかったのだと思います」
そしてN響による”ジュピター”の第4楽章の演奏が流されました。茂木氏の指摘の通り、この曲にはオーボエが登場しません。「著名な作曲家はみな晩年になるとオーボエを使わなくなるんです。生々しいからでしょうね」と言っていました。
最後にモーツアルト最晩年の傑作「クラリネット協奏曲K.622」の第2楽章の演奏が流されました。クラリネットのソロはかのカラヤンがベルリンフィルに入団させると主張してオーケストラと対峙する原因となったザビネ・マイヤーです。使用楽器は、彼女がこの曲を演奏するために作らせたという低音がたっぷり出る長いクラリネットです。言いようのない素晴らしい演奏です
この演奏を聴いた石田は「モーツアルトは、自分の生涯の終わりが近いことを知っていて、しかし、にこにこしながら手を振っている。でも心の中では泣いている そんなことを思い浮かべながら聴いていると、切なくなってくる」と語っていました。
私は、この曲を聴くと、小林秀雄が言っていた「青い空を見たときに感じる哀しさ、人間存在根底の哀しみ」を感じます
「ららら クラシック」、次回はいよいよピアニスト萩原麻未がゲストに登場しフランス音楽を演奏します。来週も見逃せません
〔追伸〕 下の写真はレオポルト・ウラッハのクラリネット、アルトゥール・ロジンスキ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団によるモーツアルト「クラリネット協奏曲K.622」のCD(1954年録音)です。ウラッハはウィーンフィルの首席を約30年間務めた名演奏家です