1930年代 日本がイギリスと同盟を結んでいたら?

2025年01月31日 02時58分56秒 | 社会・文化・政治・経済

日英同盟(にちえいどうめい、英: Anglo-Japanese Alliance)は、日本(大日本帝国)とイギリス(大英帝国)との間の軍事同盟(攻守同盟条約)である[1]。

1902年(明治35年)1月30日にロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的として、駐英日本公使・林董とイギリス外相・第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で、ランズダウン侯爵邸(ランズダウンハウス(英語版))オーバルルームにおいて調印された[2]。

その後、第二次(1905年:明治38年)、第三次(1911年:明治44年)と継続更新されたが、1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮会議の結果、調印された四カ国条約成立に伴って、1923年(大正12年)8月17日に失効した[3]。

歴史
清の利権争い

小村寿太郎

ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯)

林董
→「清 § 半植民地化・滅亡」も参照
1895年(明治28年)の日清戦争で清が日本に敗北して以降、中国大陸をめぐる情勢が一変した。日本への巨額の賠償金を支払うために清国政府はロシア帝国とフランスから借款し、その見返りとして露仏両国に清国内における様々な権益を付与する羽目になったが、これをきっかけに急速に列強諸国による中国分割が進み、アヘン戦争以来のイギリス一国による清の半植民地(非公式帝国)状態が崩壊した[4]。

とりわけ、シベリア鉄道の満洲北部敷設権獲得に代表されるロシアの満洲や華北への進出は激しかった[5]。フランスもフランス領インドシナ(現在のベトナム)から進出して雲南省、広西省、広東省、四川省など、華南を勢力圏に収めていった。ロシアとフランスは1893年に露仏同盟を締結しており、三国干渉に代表されるように中国分割においても密接に連携しており、華北を勢力圏とするロシアと連携してイギリスが挟撃される恐れが生じていた[6]。

これに対抗してイギリス首相第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは、清国の領土保全(英語版)を訴えることで、露仏が中国大陸におけるイギリスの権益を食い荒らすのを防ごうとした。さらに、1896年(明治29年)3月にはドイツ帝国と連携し、露仏に先んじて清政府に対日賠償金支払いのための新たな借款を与えることで、英独両国の清国内における権益を認めさせた[7]。

また、これに先立ち、同年1月にフランスと協定を締結し、英仏両国ともメコン川上流に軍隊を駐屯させず、四川省と雲南省を門戸開放することを約定した。これにより、フランスの北上に一定の歯止めをかけることに成功した[7]。

独露の進出阻止
1897年(明治30年)に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世率いるドイツ帝国軍が清に出兵し膠州湾を占領、そのまま同地を租借地として獲得した。これについてソールズベリー侯爵は、ドイツがロシアの南下政策に対する防波堤になるだろうと考えて始めは歓迎していたが、ヴィルヘルム2世が山東半島全体をドイツ勢力圏と主張しはじめるに及び、ドイツへの警戒感も強めた[8]。

1898年(明治31年)に入るとロシアが遼東半島の旅順を占領し、さらに大連にも軍艦を派遣し、武力侵攻によって清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とした[9]。これに対抗してソールズベリー侯爵はこれまでの「清国の領土保全」の建前を覆して、清政府に砲艦外交をしかけ、「ロシアが旅順占領をやめるまで」という期限付きで山東半島の威海衛をイギリス租借地とした。同時にドイツが露仏と一緒になってこの租借に反対することを阻止するために、山東半島をドイツの勢力圏と認めざるを得なかったが、これはイギリス帝国主義にとって最も重要な揚子江流域にドイツ帝国主義が進出していくことを容認するものであり、イギリスにとっては大きな痛手であった[10]。植民地大臣のジョゼフ・チェンバレンはこの年、イギリスが「栄光ある孤立」の政策を続ける限り、清国の運命はイギリスの利益と願望に反したかたちで決まるだろうと演説し、クリミア戦争のときのように、いずれかの強国と軍事的に連盟することが今後必要になるはずだと訴えた[11]。

1899年(明治32年)に入った頃には、ロシア帝国主義の満洲と華北全域の支配体制はより盤石なものとなっており、ロシアがこの地域に関税をかけるのも時間の問題だった[12]。さらに、1900年(明治33年)に起こった義和団の乱に乗じてロシアは満州を軍事占領した[13]。ロシアは満州からの撤兵を約束したが、なかなか実行せず、むしろ南の朝鮮半島(大韓帝国)にも触手を伸ばすようになった。これにイギリスと日本は警戒を強め、両国の間に対ロシアという共通の紐帯ができた[2]。

同盟締結
この頃、日本の政界では、伊藤博文や井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋、桂太郎、西郷従道、松方正義、加藤高明らは、ロシアとの対立は遅かれ早かれ避けられないと判断し、イギリスとの同盟論を唱えた。

結局、日露協商交渉[14]は失敗し、外相小村寿太郎により日英同盟締結の交渉が進められた。伊藤ももはや日英同盟に反対はせず、1902年(明治35年)1月30日にはロンドンの外務省において日英同盟が締結された。調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はソールズベリー侯爵内閣の外務大臣第5代ランズダウン侯爵ペティ=フィッツモーリスであった[2]。

第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものである。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には日露戦争が勃発した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ、戦費調達[15]等で日本を大いに助けた。

また、日英同盟を契機として日本は金準備の大部分をロンドンに置き、その半分以上はイギリス国債に投下したり、またはロンドン預金銀行に貸し付けるようになった[16]。

第二次同盟

1906年、英国使節コノート公アーサーの手でガーター勲章を佩用する明治天皇
第一次同盟は1902年(明治35年)1月30日から起算して5年間有効とされた。しかし、締結2年後に日露戦争が開戦し、戦況が日本軍の優勢となったことが英国内で報じられると、英国では同盟拡張などの唱道者も現れた。第一次同盟に調印したランズダウン英国外相は、1905年(明治38年)3月下旬に、在英国日本国大使館初代大使にして特命全権大使となった林董を介し、同盟継続について準備協議を希望する旨を日本側に打診した。これを受けた日本側は協議を進め、日本政府が同年5月24日に閣議で裁可した新交渉案を英国に提示し、両国の事前交渉が始まった。

イギリス側は同盟の適応範囲をインド(イギリス領インド帝国)まで拡大することを希望したが、新たな戦争に巻き込まれたくなかった日本は難色を示した[17]。両国間で更なる協議が進められた結果、第一次では適用範囲が東亜(清韓両国)とされていたが、第二次日英同盟では東亜にインドを加えた適用範囲に拡大された。また、大韓帝国については、国際情勢から第一次よりさらに踏み込んだ保護国化(第三條)で両国が妥結し、第一次日英同盟での「防守」を主軸とした内容が、第二次では「攻防」へ変更された。

英国側はランズダウン外相、日本側は小村外相がポーツマス条約の事前交渉で渡米していたことから、在英国日本国大使館の林特命全権大使が出席調印し、8月12日にロンドンで第二次日英同盟が締結された。第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と、清国に対する両国を含む列国の商業的機会均等を肯定し、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けた攻守同盟に強化された[17]。日本の大韓帝国の保護国化をイギリスが承認する条件で妥協した。また、同盟の有効期限が10年間へと変更延長となった。同条約は、ポーツマス条約締結後の同年9月27日に両国で公表されている。

第三次同盟
1909年(明治42年)、アメリカ合衆国国務長官のノックス(英語版)は東清鉄道中立化提案(満州の全鉄道を清国に返還し、列国の管理下に置こうとするもの[18])を行う。一方日本は、翌1910年(明治43年)第二次日露協約を成立させて両国の関係の調整を進展させた。日米対立の機運の醸成の中、英米間で総括的仲裁裁判条約締結の気運がおこると、これと日英同盟協約との関係の調整が問題となった。そこで1911年(明治44年)新たに第三次日英同盟が成立した。この改訂協約においては、締約国の一方が第三国と総括的仲裁裁判条約を結んだ場合、その締約国は前述の第三国と交戦する義務を負わないことを規定していた。これによって、アメリカ合衆国をこの同盟の対象から除外した[19]これは日本、イギリス、ロシアによる中国での権益拡大を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。ただし、この条文は「自動参戦規定」との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかった。そのほか、前協約から韓国(大韓帝国)に関する条項、およびインド国境防衛に関する条項が削除された[20]。さらに、同年に発生した辛亥革命に対する日本の行動にイギリスは同調せず、官軍と革命軍の仲介を図ったため、日本側はイギリスに不信感を持ち、両国にとって条約の重要性は低下した[17]。 また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。(第一次世界大戦下の日本も参照)

同盟解消
第一次世界大戦後の1919年(大正8年)に、パリ講和会議で日本とイギリスを含む「五大国(米・英・仏・伊・日[21])」の利害対立が表面化し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残った[22]。1921年(大正10年)には、「国際連盟規約への抵触」「日英双方国内での日英同盟更新反対論」「日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑」「日本政府の対米協調路線」を背景にワシントン会議が開催される。ここで、「日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約の締結」および「日英同盟の更新は行わない事」が決定となり、1923年(大正12年)を以って「日英同盟」は前述「四カ国条約」へと移行(拡大・希薄化)した[23]。

「拡大」とはいっても、これは、日英以外の新たな条約加盟国となった「アメリカ」と「フランス」の同意が得られない場合、当然、機能不全となるため、実質的には弱体化であったと言える。当時のイギリスの外相アーサー・バルフォアは「20年も維持し、その間二回の大戦に耐えた日英同盟を(実質)破棄することは、たとえそれが不要の物になったとしても忍び難いものがある。だがこれを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」という心境を吐露している[24]。後年ヘンリー・キッシンジャーは、四カ国条約を「遵守されなくても如何なる結果ももたらさない条約」と評した[25]。

新日英同盟
→詳細は「日英円滑化協定」を参照
2023年(令和5年)1月12日、日本と英国は新たに日英円滑化協定を締結した。これは、日英の部隊が共同訓練などで相手国を訪問した際の法的地位などを定めた協定で、出入国時の査証(ビザ)申請要件免除や派遣国の運転免許証の有効化、活動時の武器弾薬の所持許可などを盛り込んでいる[26]。

つまり、それぞれの軍隊(自衛隊・イギリス軍)が他方を訪問する際の面倒な入管などの手続きを簡素化することによって、それぞれの軍隊の協働する作戦が円滑に行うことができる。これをうけて、英首相官邸は「日英同盟を締結した1902年以来、最も重要な日英間の防衛協定」と発表した[27]。事実上の日英同盟復活と言われている。協定の目的について、英国軍の日本領土駐在を認めていることから、インド太平洋での日英両軍の大規模な展開だとしている[28]。

この背景について、英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)の秋元千明日本特別代表は、ロシアや中国の覇権主義的な動きと米国の存在感の低下に触れながら「米国だけで中露両国に対応できなくなった。補完役を果たすのが日英。米国を加えた三国同盟が目指されている」と語る。また英国側の視点として、返還後の香港での民主化運動の弾圧などを通じ「中国への警戒心が高まった」と指摘。「ブレグジット(EU離脱)で欧州から解放され、インド太平洋への関与を強めている」と話す。今後、航空自衛隊戦闘機の英国派遣など、関わりが深まると予測しつつも、単純な「日英同盟の復活」という見方には異を唱える。「一緒に戦争する攻守同盟が復活するわけではない。相手を縛らない緩やかな協力だ」とし、中国を過度に刺激しない英国の姿勢を強調している[29]。

なお、日英両国による共同訓練自体は、協定締結以前から行われている。2018年(平成30年)には既に、陸上自衛隊が米軍以外とでは初となる国内における陸軍種間の共同訓練を英陸軍との間で実施している。9月30日から10月12日までの間、日英両参加部隊は、長距離隠密偵察及び統合火力誘導に係る訓練を、富士学校、北富士演習場及び王城寺原演習場で行った[30]。2019年には、陸上自衛隊として初めて英国へ訓練部隊を派遣し、英国における英陸軍との実動訓練「ヴィジラント・アイルズ19」を実施した[31][32]。


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