「聖週間」と呼ばれる一週間に入りました。昨日の日曜日が「棕櫚の主日」と呼ばれる復活祭一週間前の日曜日。エルサレムの人々が棕櫚の木の葉を道ばたに敷いてキリストを迎えた、という聖書の記事に倣っています。
そして「最後の晩餐」持たれた聖木曜日、キリストが十字架にかかった聖金曜日を経て日曜日の復活日へと続来ます。この一週間の説明のようなことは昨年も書きましたのでよかったら参照してみてください。
聖週間についてはこちら
この聖週間、アイスランド語ではKyrravika「静かな週」とかDymbilvika「ディンビルの週」とか呼ばれたりします。英語ではマンマでHoly Weekなのですがアイスランドではそのような言い方はしないようです。
Kyrravikaは静かな週ということですので分かりやすいのですが、このDymbilvikaのDimbilとは何ぞや?と思いネット辞書に当たってみました。(Vikaは英語のWeekです) 言葉の原形はDymbillというのですが、何か木製の道具のことのようです。
木製の道具がなんでここにお出ましか?と思いました。関連性が見えない。そこでもう少し食い下がってグーグルしてみました。
アイスランド大学のサイトでアイスランド語の故事や文化のルーツを紹介しているサイトでやっと答えらしきものを見つけました。
それによるとこのdymbilvikaという言葉は西暦1300年頃から文献に散見されるようです。何がしかの木製の道具で、宗教改革前のカトリック教会の習慣の中で使われていたものらしいことは確かなようですが、それでもそれが何であったか特定するのは難しいようです。
教会の大時計の針であるとか、その大時計についている鐘のようなものを叩く棍棒であるとか、(教会などで使う)キャンドルの火を消すために被せる棒状の道具であるとか、等々。
そしてそのような文献の資料を総覧して歴史や文化史の専門家の人が得た結論というのが「Dymbillは木製の道具で、教会の鐘に付けると「ミュート」のような役割を果たして鐘の音を朗々としたものから、陰に籠った哀しい音色にするものでこの復活祭前の時期に使われた」ということのようです。
何ともないような言葉なのに、それが何なのかきちんと説明できないものというのは日本語でもよくあることではないかと思います。例えば「にっちもさっちも行かない」という時の「にっちもさっちも」とか... 分かりますか、この言葉の意味?
アイスランドの人は「アイスランドのことなら何でも良く分かってる」風を吹かせる人が多いので、こういう時は逆に面白いです。この「聖週間」の私の楽しみは端から「dymbilvikaってどういう意味?」と聞きただしていくことになりそうです。へへ。どれだけ答えられる奴がいるものやら...
余計なことを付け加えます。(まあ、このブログ自体が「余計なもの」かもしれませんが...(^-^; )
そう大きくもないレイキャビク市内には、約二十くらいの教会があるはずです。そのいずれもが鐘を持っていますし、適時鐘を鳴らします。その鐘の近所に住んでいるとかなりうるさいものであることも確かです。
娘がまだ乳母車の時代、外へ連れ出してやっと寝付いてくれたか、と思った矢先に近所の教会の鐘が鳴り始めて赤ちゃんが起きてしまい「怒り新党」になったことを覚えています。
自分の立場優先は人の常かもしれませんが、この鐘「ミュート付き」にしてくれたら喜ぶ人も確かにいることだろう、と想像します。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
そして「最後の晩餐」持たれた聖木曜日、キリストが十字架にかかった聖金曜日を経て日曜日の復活日へと続来ます。この一週間の説明のようなことは昨年も書きましたのでよかったら参照してみてください。
聖週間についてはこちら
この聖週間、アイスランド語ではKyrravika「静かな週」とかDymbilvika「ディンビルの週」とか呼ばれたりします。英語ではマンマでHoly Weekなのですがアイスランドではそのような言い方はしないようです。
Kyrravikaは静かな週ということですので分かりやすいのですが、このDymbilvikaのDimbilとは何ぞや?と思いネット辞書に当たってみました。(Vikaは英語のWeekです) 言葉の原形はDymbillというのですが、何か木製の道具のことのようです。
木製の道具がなんでここにお出ましか?と思いました。関連性が見えない。そこでもう少し食い下がってグーグルしてみました。
アイスランド大学のサイトでアイスランド語の故事や文化のルーツを紹介しているサイトでやっと答えらしきものを見つけました。
それによるとこのdymbilvikaという言葉は西暦1300年頃から文献に散見されるようです。何がしかの木製の道具で、宗教改革前のカトリック教会の習慣の中で使われていたものらしいことは確かなようですが、それでもそれが何であったか特定するのは難しいようです。
教会の大時計の針であるとか、その大時計についている鐘のようなものを叩く棍棒であるとか、(教会などで使う)キャンドルの火を消すために被せる棒状の道具であるとか、等々。
そしてそのような文献の資料を総覧して歴史や文化史の専門家の人が得た結論というのが「Dymbillは木製の道具で、教会の鐘に付けると「ミュート」のような役割を果たして鐘の音を朗々としたものから、陰に籠った哀しい音色にするものでこの復活祭前の時期に使われた」ということのようです。
何ともないような言葉なのに、それが何なのかきちんと説明できないものというのは日本語でもよくあることではないかと思います。例えば「にっちもさっちも行かない」という時の「にっちもさっちも」とか... 分かりますか、この言葉の意味?
アイスランドの人は「アイスランドのことなら何でも良く分かってる」風を吹かせる人が多いので、こういう時は逆に面白いです。この「聖週間」の私の楽しみは端から「dymbilvikaってどういう意味?」と聞きただしていくことになりそうです。へへ。どれだけ答えられる奴がいるものやら...
余計なことを付け加えます。(まあ、このブログ自体が「余計なもの」かもしれませんが...(^-^; )
そう大きくもないレイキャビク市内には、約二十くらいの教会があるはずです。そのいずれもが鐘を持っていますし、適時鐘を鳴らします。その鐘の近所に住んでいるとかなりうるさいものであることも確かです。
娘がまだ乳母車の時代、外へ連れ出してやっと寝付いてくれたか、と思った矢先に近所の教会の鐘が鳴り始めて赤ちゃんが起きてしまい「怒り新党」になったことを覚えています。
自分の立場優先は人の常かもしれませんが、この鐘「ミュート付き」にしてくれたら喜ぶ人も確かにいることだろう、と想像します。
応援します、若い力。Meet Iceland
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