前回は、アイスランド暮らしが長くなっている日本人である私にとって、「マツコ有吉の『怒り新党』」は自分の有様を考えるのに役に立つことが多くある、というようなことを書きました。
その流れで、今回はアイスランド二十五年目を迎えている私が、どんな点において未だアイスランド流に適応できず、日本式の流儀に固執しているかを書いてみたいと思います。
移民がどのようにホスト国に適応するか、というのは実はかなり広範な内容を持つ重要な問題です。移民がホスト国への適応を拒み、独自の少数派としてまとまってしまうと、深刻な対立を生じたりして社会問題化します。西ヨーロッパでのイスラム教徒の存在を、そのような否定的な例として指摘する人は大勢います。
移民社会の健全な発展には、俗に言うAssimilation(移民のホスト国への一方的な同化)だけでは十分ではなく、Integration(移民とホスト国の双方の歩み寄り的適応)が必要になります。その点を巡って、ホスト国内での進歩派、保守派で見解が異なったりするわけです。
ここでは話しを個人のレベルに限定しましょう。個人としての移民の適応を考えるにしても、ひとつ忘れてはいけない点があります。ホスト国自体も変化している生き物であり、同時に出身国もまた同様に変化し続けているものだ、ということです。
例えば、私が「この点では日本流を守る」と考えたとします。しかしその内実は「私が日本流と思っているもの」のことであり、もしかしたら「いやあ、それは日本でも今は変わっちゃいましたよ」というのが正解である可能性もあるのです。
なにしろもう二十五年も日本から離れているので、そういう点が多々あることはまず間違いないでしょう。そういうことを学ぶという点で「怒り新党」は役に立つのです。
さて、アイスランドへの適応、不適応の個人的体験ですが、これは以前にもあちこちで触れたことがある話題です。多少の繰り返しはご容赦ください。なるべく重ならないネタを探すようにします。
適応...変化...と「正体見たり!」 不適応編
ここのところ何回か真剣に再適応の必要性を感じているのは、「お風呂」です。
私は昔ながらの夕卓を大切にする家庭で育ちました。夕ご飯は家庭の要であって、動かない中心のようなものでした。そのために、夕飯前にお風呂に入ってさっぱりする、というのが子供の頃から習慣となりました。
サラリーマン時代はさすがにその習慣は守れませんでしたが、基本的にはその「性格」が残りました。風呂に入ってさっぱりしたら、その日はおしまい。ご飯を食べてゆっくりする、ということです。
自分自身が家庭を持ってからは、またこの習慣は復活し、離婚してからも子供たちが私のところにいる時は夕食は大切な時間で、私も子供達もたいていは夕食前にお風呂でさっぱりしていました。
今は子供たちも大きくなり「夕食は自分だけ」が原則になっていますが、その前にお風呂へ入る習慣は続いています。
ところがです。子供の手がかからない分、今は自由になる時間が多くあります。こちらでは多くの文化活動が夜の八時とかの時間帯に組まれます。それらを十分に活用するには、夕方にお風呂に入ってしまって「おしまい」になってしまうのは多少弊害があるのです。
そこで最近考えているのは朝シャワーへの転向です。アイスランドの人は、おそらく朝シャワーの人が多数派だと思います。プールやジム通いをしている人たちは、また別のサイクルでしょうが、一般的にはシャワーは朝の活動でしょう。
朝シャワーなら、夕方と夜が分断されず、諸活動の生産性が上がる気はします。しかしながら、どうも心理的に壁が高いのです。
まずは「終わった」感がないまま夕食に臨むこと(実際「終わりにしない」ために朝シャワーにするのですから)。それから、活動を終えてそのまま眠らなければならないこと。なんとなく汗臭いし、リラックスできない。
さらに言えば、朝シャワーはありでも、朝風呂はあり得ない。朝風呂にしたらその日は休日になってしまいます。とすると、レイキャビク温泉にさらに日本の「温泉の素」を入れて「ふあ〜」とのんびりすることがなくなってしまいます。
やっぱり、風呂は夕刻だなあ。いや、今ここで視野の転換をはからないと、変え時を逸するか?ナイトタイムに自宅に引きこもって新しい出会いを閉め出したら、必然的に孤独死か?
迷うところです。意外に高い壁。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
その流れで、今回はアイスランド二十五年目を迎えている私が、どんな点において未だアイスランド流に適応できず、日本式の流儀に固執しているかを書いてみたいと思います。
移民がどのようにホスト国に適応するか、というのは実はかなり広範な内容を持つ重要な問題です。移民がホスト国への適応を拒み、独自の少数派としてまとまってしまうと、深刻な対立を生じたりして社会問題化します。西ヨーロッパでのイスラム教徒の存在を、そのような否定的な例として指摘する人は大勢います。
移民社会の健全な発展には、俗に言うAssimilation(移民のホスト国への一方的な同化)だけでは十分ではなく、Integration(移民とホスト国の双方の歩み寄り的適応)が必要になります。その点を巡って、ホスト国内での進歩派、保守派で見解が異なったりするわけです。
ここでは話しを個人のレベルに限定しましょう。個人としての移民の適応を考えるにしても、ひとつ忘れてはいけない点があります。ホスト国自体も変化している生き物であり、同時に出身国もまた同様に変化し続けているものだ、ということです。
例えば、私が「この点では日本流を守る」と考えたとします。しかしその内実は「私が日本流と思っているもの」のことであり、もしかしたら「いやあ、それは日本でも今は変わっちゃいましたよ」というのが正解である可能性もあるのです。
なにしろもう二十五年も日本から離れているので、そういう点が多々あることはまず間違いないでしょう。そういうことを学ぶという点で「怒り新党」は役に立つのです。
さて、アイスランドへの適応、不適応の個人的体験ですが、これは以前にもあちこちで触れたことがある話題です。多少の繰り返しはご容赦ください。なるべく重ならないネタを探すようにします。
適応...変化...と「正体見たり!」 不適応編
ここのところ何回か真剣に再適応の必要性を感じているのは、「お風呂」です。
私は昔ながらの夕卓を大切にする家庭で育ちました。夕ご飯は家庭の要であって、動かない中心のようなものでした。そのために、夕飯前にお風呂に入ってさっぱりする、というのが子供の頃から習慣となりました。
サラリーマン時代はさすがにその習慣は守れませんでしたが、基本的にはその「性格」が残りました。風呂に入ってさっぱりしたら、その日はおしまい。ご飯を食べてゆっくりする、ということです。
自分自身が家庭を持ってからは、またこの習慣は復活し、離婚してからも子供たちが私のところにいる時は夕食は大切な時間で、私も子供達もたいていは夕食前にお風呂でさっぱりしていました。
今は子供たちも大きくなり「夕食は自分だけ」が原則になっていますが、その前にお風呂へ入る習慣は続いています。
ところがです。子供の手がかからない分、今は自由になる時間が多くあります。こちらでは多くの文化活動が夜の八時とかの時間帯に組まれます。それらを十分に活用するには、夕方にお風呂に入ってしまって「おしまい」になってしまうのは多少弊害があるのです。
そこで最近考えているのは朝シャワーへの転向です。アイスランドの人は、おそらく朝シャワーの人が多数派だと思います。プールやジム通いをしている人たちは、また別のサイクルでしょうが、一般的にはシャワーは朝の活動でしょう。
朝シャワーなら、夕方と夜が分断されず、諸活動の生産性が上がる気はします。しかしながら、どうも心理的に壁が高いのです。
まずは「終わった」感がないまま夕食に臨むこと(実際「終わりにしない」ために朝シャワーにするのですから)。それから、活動を終えてそのまま眠らなければならないこと。なんとなく汗臭いし、リラックスできない。
さらに言えば、朝シャワーはありでも、朝風呂はあり得ない。朝風呂にしたらその日は休日になってしまいます。とすると、レイキャビク温泉にさらに日本の「温泉の素」を入れて「ふあ〜」とのんびりすることがなくなってしまいます。
やっぱり、風呂は夕刻だなあ。いや、今ここで視野の転換をはからないと、変え時を逸するか?ナイトタイムに自宅に引きこもって新しい出会いを閉め出したら、必然的に孤独死か?
迷うところです。意外に高い壁。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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