さて、先日の日本の総選挙、皆さん的にはどのような総括でしょうか?希望の党が思ったより苦戦し、立憲民主党が頑張ったのは私のように端から見ているだけ者にも意外な感がありました。
大震災の時に官房長官として頑張っていた枝野さんには好感を持っていましたので、ワタシ的には嬉しい感があります。実は小池さんも応援していたのですけどね(「ビジネス·ワールドサテライト」のキャスターの頃より割りと好きでした。アラビア語ができたりして格好良い女性でしたよ)、さすがにあの「排除」発言ではガッカリかつ「なんだこいつ」と感じです。
ちなみに私はまだ「日本人」なので、しようと思えば在外投票はできるのですが、「税金も払ってないし、帰国する意思もない者が投票するのは、むしろ無責任」という考えを持っていますので、投票したことはありません。これからもないでしょう。
その日本から約一週間遅れて、ここアイスランドでも選挙でした。実は今、これを書いているのが金曜日。投票日は明日(28日)の土曜日です。結果が明らかになり、少し落ち着いたらこちらの選挙について書くことにします。
以上は前置き。話しがまったく変わるのですが、人というものはやはり自分の生活の中で取り組んでいるというか、大きな問題となっているものに引きずられてしまいますね。
私は教会の牧師であり、ここのところは難民の人たちとの活動に取り組んでいますので、「教会」「難民」というトピックが生活の中で大きな位置を占めています。
自分のFacebookの最近の投稿などをたどっていくと、やはりこのふたつのトピックに相当Occupiedされている、という感じがします。意外と自分では気がついていなかったので、びっくりしたくらいです。「これはちょっと憑かれている感じがするなあ...」みたいな。
自分が直面している問題に「憑かれて」しまうと、それだけが世の中で大切な問題だ、みたいな錯覚に知らぬうちに落ち込んでしまったりしますね。自分のしていることは真剣に踏まえた上で、周囲で起こっている他の大切なことにも目が届かないといけないのでしょう。
最近、そのことに改めて気付かされるようなことが周囲で立て続けに起こったので、今回はそのことについて書いて見たいと思います。それは「病気」です。

Myndin er ur Pinterest.com
まず始めに言っておきたいことは、私は六十歳前にしてかなりポンコツになってきていますが、これという病気は持っていません。これまでもウツで二ヶ月ほど仕事を休んだことがあるのと、痛風の発作で苦労したことが何度かあるくらいで、それを抜かすと、小学四年生の頃のおたふくにまで遡るのではないか?と思えるほど病気怪我には縁がない男なのです。
それはありがたいことなのですが、その分「病気になる」ということが自分の生活感覚の中では稀薄なってしまい、「世の中には病気で苦労している人が多くあるんだ」ということすら、特別な機会がないと考えなくなってしまっていたりします。
今年の夏の始まりでしたが、同僚である女性牧師が癌であると診断されました。まだ若い人で、小さな子供が四人もいます。幸いなことにまだごく初期の段階、ということでしたが、なかなか手術が決まらず長—い待ち時間を強いられました。
本人はいたって気丈に振る舞っていましたが、内心怯えているのが良くわかります。ちょうど日本では小林麻央さんが亡くなった頃だったので、小さい子供さんがあることなど、思いが重なってしまう部分もあり、側にいる私まで心が重くなる部分がありました。
そして、夏が終わると、私が所属する教会地区の地区主任の牧師さんが「運動ニューロン病」という難病にかかっていることがわかりました。本人がそう発表したからわかったのですが、私には近い方なので、これも個人的にショックな出来事でした。
今はまだ元気に仕事をされていますが、いつどのくらい症状が進行するのかわからない病気なので、もちろん本人も片時も不安がなくなる時はないことでしょう。私とは五歳しか違わないので、私自身もいつまで仕事ができるものやら、とか考えさせられてしまいました。
しばらくしてつい最近のことですが、これもよく仕事で一緒になる方なのですが、奥さんがパーキンソン氏病と診断された、というのです。奥さんはまだ五十になるかならないかという方です。
「とにかく毎日水泳に行ったり、ロングウォークをしたり、身体を使うようにしている」ということでしたが、それでも身体が思うように動かないことがあるらしく、ご自分が相当いらいらさせられることもある日々のようです。
同じ頃、新しく共同のプロジェクトを始めた隣り町の教会の女性牧師の方。ある集いで「昨春にフェルイング(献信礼)を受けた少年のお父さんが癌で亡くなってしまい、とても悲しい」とのこと。
聞けばその子のお母さんも病弱で、少年自身が自分の健康のことも気にかけているのだそうです。牧師というのは職業的に人の死に接する機会が多いので、ある面では慣れてしまうこともあるのですが、その女性牧師は目に涙を浮かべて話してくれたので、私の心にも残るものとなりました。何も実際的なことはできませんが、毎日祈ることはしています。
そんなこんなを考えているうちに、「世の中には毎日、この病気という大きな壁にぶち当たっている人が多くあるんだ」という、当たり前のようなことを改めて認識したわけです。
誤解されたくないので、言い足しますが、決して病気に悩む人のことを普段から忘れているとか、そういうことではありませんよ。癌にかかった方は、これまでにも何人も周囲にいましたから。ただここのところ「じっくり深く考える」ことの少ない生活になっていました。
直接自分が責任を持つ分野ではないのと、何せ難民問題で心は占められてしまっていましたから。知らず知らずのうちに、「この世の問題は難民問題しかない」というようなツボにはまってしまっていたのでしょう。
病気と向かい合う生活というのはどんなものなのだろう?と改めて考えています。ここでいうのは風邪やインフルエンンザではなく、長い間生活の中で「共存」しないとけないような性質の病気のことです。
すぐに生命を脅かすような危険な病気ではないとしても、やはり生活のあり方に規制を与えられてしまうでしょうし、「自分のやりたいことを、自分のやりたいようにやる」という自由も制限されてしまうことでしょう。
そういう中で「自分の達成したい人生の目標」と「病気と戦う日常」を両立させていくことは、私なんぞにはほとんど不可能なことのように思えてしまいます。実際には、そのようにしている方たちも多いと理解しますので、なんというか、すごいことだと感じ入ります。
この面に関しては、まだまだきちんとした理解をするようにし、考えを深めていかないといけないですね。正直言って「アマチュア」です。病気にならずして、病人の方のことを理解することって、できるものなのでしょうか?
大切なものが沈む深淵があるように思われます。
周囲にいる病気と闘っている皆さんはもちろんのこと、全国にいらっしゃる同様の状況にある方々の日々の幸せと、健康の回復をお祈りいたします。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
大震災の時に官房長官として頑張っていた枝野さんには好感を持っていましたので、ワタシ的には嬉しい感があります。実は小池さんも応援していたのですけどね(「ビジネス·ワールドサテライト」のキャスターの頃より割りと好きでした。アラビア語ができたりして格好良い女性でしたよ)、さすがにあの「排除」発言ではガッカリかつ「なんだこいつ」と感じです。
ちなみに私はまだ「日本人」なので、しようと思えば在外投票はできるのですが、「税金も払ってないし、帰国する意思もない者が投票するのは、むしろ無責任」という考えを持っていますので、投票したことはありません。これからもないでしょう。
その日本から約一週間遅れて、ここアイスランドでも選挙でした。実は今、これを書いているのが金曜日。投票日は明日(28日)の土曜日です。結果が明らかになり、少し落ち着いたらこちらの選挙について書くことにします。
以上は前置き。話しがまったく変わるのですが、人というものはやはり自分の生活の中で取り組んでいるというか、大きな問題となっているものに引きずられてしまいますね。
私は教会の牧師であり、ここのところは難民の人たちとの活動に取り組んでいますので、「教会」「難民」というトピックが生活の中で大きな位置を占めています。
自分のFacebookの最近の投稿などをたどっていくと、やはりこのふたつのトピックに相当Occupiedされている、という感じがします。意外と自分では気がついていなかったので、びっくりしたくらいです。「これはちょっと憑かれている感じがするなあ...」みたいな。
自分が直面している問題に「憑かれて」しまうと、それだけが世の中で大切な問題だ、みたいな錯覚に知らぬうちに落ち込んでしまったりしますね。自分のしていることは真剣に踏まえた上で、周囲で起こっている他の大切なことにも目が届かないといけないのでしょう。
最近、そのことに改めて気付かされるようなことが周囲で立て続けに起こったので、今回はそのことについて書いて見たいと思います。それは「病気」です。

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まず始めに言っておきたいことは、私は六十歳前にしてかなりポンコツになってきていますが、これという病気は持っていません。これまでもウツで二ヶ月ほど仕事を休んだことがあるのと、痛風の発作で苦労したことが何度かあるくらいで、それを抜かすと、小学四年生の頃のおたふくにまで遡るのではないか?と思えるほど病気怪我には縁がない男なのです。
それはありがたいことなのですが、その分「病気になる」ということが自分の生活感覚の中では稀薄なってしまい、「世の中には病気で苦労している人が多くあるんだ」ということすら、特別な機会がないと考えなくなってしまっていたりします。
今年の夏の始まりでしたが、同僚である女性牧師が癌であると診断されました。まだ若い人で、小さな子供が四人もいます。幸いなことにまだごく初期の段階、ということでしたが、なかなか手術が決まらず長—い待ち時間を強いられました。
本人はいたって気丈に振る舞っていましたが、内心怯えているのが良くわかります。ちょうど日本では小林麻央さんが亡くなった頃だったので、小さい子供さんがあることなど、思いが重なってしまう部分もあり、側にいる私まで心が重くなる部分がありました。
そして、夏が終わると、私が所属する教会地区の地区主任の牧師さんが「運動ニューロン病」という難病にかかっていることがわかりました。本人がそう発表したからわかったのですが、私には近い方なので、これも個人的にショックな出来事でした。
今はまだ元気に仕事をされていますが、いつどのくらい症状が進行するのかわからない病気なので、もちろん本人も片時も不安がなくなる時はないことでしょう。私とは五歳しか違わないので、私自身もいつまで仕事ができるものやら、とか考えさせられてしまいました。
しばらくしてつい最近のことですが、これもよく仕事で一緒になる方なのですが、奥さんがパーキンソン氏病と診断された、というのです。奥さんはまだ五十になるかならないかという方です。
「とにかく毎日水泳に行ったり、ロングウォークをしたり、身体を使うようにしている」ということでしたが、それでも身体が思うように動かないことがあるらしく、ご自分が相当いらいらさせられることもある日々のようです。
同じ頃、新しく共同のプロジェクトを始めた隣り町の教会の女性牧師の方。ある集いで「昨春にフェルイング(献信礼)を受けた少年のお父さんが癌で亡くなってしまい、とても悲しい」とのこと。
聞けばその子のお母さんも病弱で、少年自身が自分の健康のことも気にかけているのだそうです。牧師というのは職業的に人の死に接する機会が多いので、ある面では慣れてしまうこともあるのですが、その女性牧師は目に涙を浮かべて話してくれたので、私の心にも残るものとなりました。何も実際的なことはできませんが、毎日祈ることはしています。
そんなこんなを考えているうちに、「世の中には毎日、この病気という大きな壁にぶち当たっている人が多くあるんだ」という、当たり前のようなことを改めて認識したわけです。
誤解されたくないので、言い足しますが、決して病気に悩む人のことを普段から忘れているとか、そういうことではありませんよ。癌にかかった方は、これまでにも何人も周囲にいましたから。ただここのところ「じっくり深く考える」ことの少ない生活になっていました。
直接自分が責任を持つ分野ではないのと、何せ難民問題で心は占められてしまっていましたから。知らず知らずのうちに、「この世の問題は難民問題しかない」というようなツボにはまってしまっていたのでしょう。
病気と向かい合う生活というのはどんなものなのだろう?と改めて考えています。ここでいうのは風邪やインフルエンンザではなく、長い間生活の中で「共存」しないとけないような性質の病気のことです。
すぐに生命を脅かすような危険な病気ではないとしても、やはり生活のあり方に規制を与えられてしまうでしょうし、「自分のやりたいことを、自分のやりたいようにやる」という自由も制限されてしまうことでしょう。
そういう中で「自分の達成したい人生の目標」と「病気と戦う日常」を両立させていくことは、私なんぞにはほとんど不可能なことのように思えてしまいます。実際には、そのようにしている方たちも多いと理解しますので、なんというか、すごいことだと感じ入ります。
この面に関しては、まだまだきちんとした理解をするようにし、考えを深めていかないといけないですね。正直言って「アマチュア」です。病気にならずして、病人の方のことを理解することって、できるものなのでしょうか?
大切なものが沈む深淵があるように思われます。
周囲にいる病気と闘っている皆さんはもちろんのこと、全国にいらっしゃる同様の状況にある方々の日々の幸せと、健康の回復をお祈りいたします。
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