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レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

アイスランド直産の「癒し」

2017-07-23 05:00:00 | 日記
前回は「夏休みの癒し」から始まって「テレビドラマを通しての自然」「アイスランドの生の自然」と追う流れで、結論的に「アイスランドの自然は癒しになる」ということに触れました。

それは嘘ではなくて本当のことだと思うのですが、「アイスランドの癒し」に関してはもう少し思うところがあるので、今回はこの点をもう少し深掘りしてみたいと思います。




癒しの風景1 シンクヴェットゥリ国定公園


始めにお断りしておきますが、「癒される〜?癒されない〜?」という問題は、基本的に個人の感性の問題だと思いますので、私が書きますことが万民に同じように通用するものとは考えていません。ただ、私だけの独りよがりとも思いません。ある程度同じように感じてくださる人はあるはずです。

春先にヨーロッパの教会のカンファレンスがレイキャビクで持たれました。現代ヨーロッパの問題に教会はどう取り組むか?というようなテーマでした。それほど大きなカンファレンスではなく、国外からの参加者が三十人くらい、国内からが十五人程度でほっこり感がありましたね。

私はカンファレンスの参加者ではなかったのですが、アイスランドの教会の働きを紹介するセクションがあり、そこで難民問題への活動を紹介するように依頼されたわけです。紹介といっても持ち時間は二十分程度なので、簡潔にポイントを示さないといけません。

で、ヨーロッパや北アメリカの人を相手にして、アイスランドでの移民問題や難民問題を説明する機会というものは、まあ、ある程度定期的にあります。そういった際に基本的に困ることがあります。

それはアイスランドは圧倒的な小国なので、例えば難民の問題を説明する際にも、実数値的な説明では、アイスランドの難民問題は大陸と比較になるものではないことが明らかになってしまうのです。ドイツでの難民受け入れ数が百万人とかいっている時に、アイスランドでの難民申請数が千五百とか、二千とか。

結果として、どんなに誠実に、かつ熱心にアイスランドの、例えば教会の難民問題での活動の様子を説明しようしても、すべては「大陸の教会がすでにやっている活動の超ミニチュア版だね」としてしか見てもらえなくなってしまうのです。

それは、事実ではあるのですが、なんとなく子供が大人に話しを聞いてもらっている「てい」になってくると、プレゼンターションする側としては面白くないものがあります。

そこで、今回は「アイスランドだからこそ」というような「独自性を入れよう」と思い立ちました。それで私が行き着いた「独自性」というのが「癒し」であったわけです。

説明しましょう。

まず、難民問題ですが、教会は(というか、私は)この問題を「人間性の喪失」「間化」の問題として考えます。「人間性の喪失」とは、人間らしさがなんらかの理由によって失われてしまっていることに他なりません。

そのような問題は世界中に多々あります。シリアの内戦を軸とした中近東での残虐な活動、アフリカの飢餓問題もそうですし、人身売買やその他行きすぎた商業主義や過酷労働もその範疇に入ることでしょう。高齢者の問題、障害者の生活条件等が加えられる状況もあるかもしれません。

原則的に、教会はそのような事態に対して憂慮を持ちますし、また実際に限られた範囲ではあろうとも事態を改善すべく取り組みます(取り組むべきです)。なぜなら教会の信条の基本は「人はすべて神の子としての価値を持つ」ということで、その価値が失われているなら取り戻すのは当然の務めだからです。

難民の問題はそのような問題のひとつなのです。それが唯一の問題なわけでは決してありません。そしてそのような問題に教会が取り組む時、それは単に憐れみや同情心の問題ではなく、教会としての原則的な視点があるわけです。

で、アイスランドにおける難民問題、という大陸に比して非常に小さな舞台に限ってみても、人間性が剥奪された状況というものは見て取れるわけで、その中でいろいろな救済を試みるわけです。

ところが、これは教会だけではなく、難民問題に携わる方すべてに共通する問題だと思うのですが、その取り組み自体が人間性疎外の入り口になってしまう危険と隣り合わせになっていることが普通なのです。

どれだけ努力しても、滞在を拒否され送還される人は必ずいます。しかも、相当数。貧困の中から這い出てきてのが、また貧困の中へ送り戻されます。(経済難民は「難民」としての保護は受けられません) たとえある人たちが許可を得て、新しい機会を得たとしても、すぐに次の難民申請者がやってきます。

こういう現実の中で、多くの関係者が「大海に小石を投げ続けている」かの喪失感を抱き始めます。それに飲み込まれてしまう人もあります。

この点で「難民の人たちの失われた人間性を取り戻そう」という試みは、試みる者自身の人間性の疎外/回復の問題とも化していくことになるのです。これはどこの国においても、多かれ少なかれ同じことが言えることでしょう。




癒しの風景2 スナイフェットゥルネス氷河の夕焼け


さて、そういう状況の中で、アイスランドではひとつの利点があることに気付かされました。それは、社会が小さいため、いろいろな意味で難民の人たちと「距離」が小さいのです。

長くなりすぎるので、詳しくは書けませんが、例えばある難民の人が当初は捨てばちで攻撃的であったのが、だんだんと落ち着きを取り戻し、希望を回復していく、というようなプロセスを、実際に目にすることができます。

私の身近なひとつの例を挙げますと、数年に渡る難民生活の後にここで絶望し、自殺未遂を二回繰り返して、精神病棟に何度も出入りした青年がありました。やって来た当初から頼ってきてくれていたので、その間ずいぶん心配しながら過ごしたのですが、二年を経て滞在許可を得、さらに一年後良い相手を見つけ、この夏にはパパになる予定でいます。

このような事実はまず第一にその本人にとっての人間性の回復の証しと言えるでしょう。そして、第二には救済を手伝っていた者 -上記の青年の例で言えば私自身ですが- にとっても 「人間性の回復」の確認となります。

そしてそのことは「自分でも何かを変えられるんだ」というある種の達成感、安堵感をもたらしてくれます。「小石を投げ続けることは無駄ではないんだ。少なくとも稀には結果をもたらすんだ」ということを知ることができること。これは癒しに他なりません。

いつも思うことですが、私たち人間の間での「助ける」「助けられる」というのはとても表面的なもので、実際は私たちはすべて「助け助けられている」のだと思います。そのことを感じられることは癒しです。

これらのことはアイスランドだけで起こっているわけでは、もちろんありません。どこにおいても起こっていることです。

ですが、小国であるが故に、ここではこの癒しの出来事に気がつきやすいのです。人の間の距離が近いために感じやすいのです。ベルリンや他の大都市では、規模が大きいが故に、そのようなデリケートな出来事に気が付くチャンスは、残念ながら少なっていることでしょう。

先の教会のカンファレンスでは、このようなことを述べた後でPRさせてもらいました。

「ですから、皆さんの中で燃え尽きそうな人、疲れが取れない人がいらっしゃるなら、是非ここの自然と小さな社会の中で数週間を過ごしてくだい。癒しを得られることは間違いありません。アイスランド産の癒し、他所ではなかなか手に入りませんよ」

みんな、拍手してくれましたよ、義理でないヤツ。
疲れた人、アイスランドへようこそ。


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is

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