北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。
このブログは独り住まいのしょぼくれた邦人男が、アイスランドはレイキャビクでの生活を通して感じる雑感や、アイスランドの文化社会の一片の紹介を目的にして続けています。
私自身はルーテル派の教会の牧師なのですが、ブログの目的がキリスト教の紹介ではないので、あまりブログの中身がキリスト教に入り過ぎないように気をつけています。
そうはいっても時折キリスト教的な方向へ話しが行ってしまうことがあります。アイスランド文化の中でのキリスト教の存在は無視できませんし、あるいはクリスマス前の今の時期などには、キリスト教に全く触れないのはかえって不自然なことになってしまいそうです。
と言うわけで、今回は少しキリスト教っぽい内容になりますのでお赦しを。
前回、生活上の苦労や社会的な差別や暴力のために「暗きに座する人たち」があるのだが、クリスマスの光は本来そのような人たちを足かせや呪縛から解き放つためにこそもたらされるのだ、ということを書きました。
そのために「暗きに座する人たち」に光が届くように願うだけではなく、光が届くために自分自身の努力がなくてはならない、とも書きました。その続きで少し付け加えたく思います。
私の仕事では助けを必要としている人々ー移民もアイスランド人も両方いますーと会って話しを聞いたり、その他具体的にその人の問題を解決するための道を探したりすることが含まれています。
ここで肝心なことは「ワタシ、助ける人。アナタ、助けられる人」という図式には決してはまらないことです。
実は私はよくいう「チャリティ」というものがあまり好きではありません。チャリティというのは基本的には「施すもの-施されるもの」がはっきりと分かれており、その間に一線が画されていると思います。
それが全て悪いとはいいませんが、仮にお金持ちがお金に困窮している人に金銭的援助をすることを目的としたチャリティの場合、そもそもある人々が困窮している原因がそのお金を施そうとしているお金持ちたちにあることだって考えられます。
施す側がそういう事実の可能性を無視して、ただお金をあげて満足しているなら、それこそ「偽善」以外の何ものでもないでしょう。
もっともそのような例は極端に単純化したものですし、実際にはもっとこみいった仕方でお金も社会的利益も巡り巡っているでしょう。しかし、そうであればこそ「施す側-施される側」という仕分けもそう簡単にはできないはずです。
私の職務に関していえば、お金の流れはほとんど関係ないのですが、逆にある人が社会的に優位な立場に立っているか、弱い立場に追いやられているか、という点に関しては繊細になる必要があります。そのような違いは確かに存在しますが、それは恒久的なものではなく、事情によってはそんな立場など簡単に入れ替わってしまうものです。
恒久的と呼べるような状況は別のものです。それは人は皆人であるということの内に測り知れない価値と祝福を持っているということ。そして人は皆自分だけでは完璧なものではあり得ず、絶えず自分と他者を傷つけて生きているということです。それが罪というものの説明の仕方のひとつでしょう。
ですから、たとえ誰かが牧師のところへ自分の悩みや問題の相談に来たとしても、その関係は一時的な限られた状況であり、根本的には相談に来た人と牧師の間に敷かれる「仕切り線」などはないのです。牧師の職務では机を挟んでこちら側と向こう側に別れることはしません。同じ側に横並びです。
このことを理解しておかないと、牧師はとんでもない錯覚に陥りとんでもない自惚れにウツツを抜かすことになりかねません。そういういい体験?を私自身したことがあるのですが、それはまた次の機会にご紹介します。本題に入る前に字数が尽きてしまいました。
次回もう一回、牧師的なお話しになりそうです。クリスマス間近と思ってご容赦あれ!
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
前回、アドヴェントの忙しさの中で忘れられてしまいがちになる「生活に捕われた人」や「心配や不安に捕われた人」について少し触れました。そしてアドヴェントの時期の本来のメッセージは、そのような人を(こそ)照らす光が与えられる(キリストの誕生)、ということだということを書きました。
アドヴェントからクリスマスにかけてよく引き合いに出される聖書の語句にこのようなものがあります。旧約聖書のイザヤ書からの言葉ですが、キリストの誕生を預言するものとされます。
「わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる」(イザヤ書42:7)。
ここでいう「囚人」とは第一義的には独立を失って捕囚民となっていたユダヤの民のことですが、今日的な意味では人間的な罪や弱さ、あるいは社会からの差別や艱難を受けている人全てを指しています。
私が日常の生活で関わる中で「暗きに座する者」として挙げられるのは、いの一番に庇護申請者の人たちです。彼らは避難民なのですが、まだそうと認定されておらず庇護申請をしてその結果を待っている人たちです。
このブログでも何回か庇護申請者については触れたことがありますが、彼らは「そこにいるのだが、仲間ではない。人間ではあるのだが、何の権利もない。今日を生きていて、過去は戦争や迫害で埋め尽くされ、未来は暗くて何も見えない」と描写しても言い過ぎにはならないでしょう。
私は移民牧師として彼らとは定期的に接触する機会があります。付け加えておくと、彼らのある者はキリスト教徒であり、別の者はイスラム教徒であり、また他の者は何の宗教にも属していません。私はキリスト教の教会の牧師ですが、庇護申請者との関わりで根本になるのは「人間」であることで、宗教の違いには後ろに身を引いてもらいます。
その庇護申請者の中のひとりを紹介しましょう。名前は仮にヤシールとしましょう。ヤシールはアフガニスタンで生まれました。現在二十三歳。私の長男と同い歳です。もの静かで控えめな青年です。
彼が幼少の頃はタリバンが権勢をふるっていました。ヤシールはタリバンが差別の対象としているエスニックに属し、父親はそのために命を奪われました。そして母親は子供たちを連れてアフガニスタンからイランへ逃れていきました。ヤシールがまだ六歳だった時です。
ところがイランでもアフガン難民に対する差別が公然と存在し(これは現在でもそのようです)、十六歳になったヤシールはひとりでイランを抜け出しました。その後、トルコやギリシャで難民申請をしましたが、すでに難民でいっぱいになっている国ではまともな扱いを受けることはできませんでした。
そして二年前にアイスランドへやってきました。そしてここでやっと彼の難民申請はきちんとした審査のプロセスへ乗せられたのです。その間、彼は滞在場所の近くの高校にも通うことが許されました。
ここで終わっていたらアイスランドはなんと人道的な国なんだろうか!という良いお話しなのですが、残念ながらそうではありません。この十月に移民局は彼の難民申請を拒絶しました。
その理由云々を記すことはできないのですが、全く納得の行かない理屈(というより理屈になっていない)であることは確かです。当然ヤシールは内務省に上訴しました。今現在、まだ回答を待っているところです。
実は私は彼が息子と同じ年齢であることもあって、個人的な思い入れがあります。これまでの二十三年間で子供として、若者として、私が「当たり前の生活」と考えているような生活をどれだけすることができたのでしょうか?
足掛け八年の独りぼっちでの放浪と避難の生活。正直いって想像もつきません。「ギリシャにいた時は、一ヶ月シャワーも浴びれないことがあった」と彼は笑いますが、アイスランドで滞在を否決された時は「本当にどん底に突き落とされたようにパニックになってしまった」と涙声になります。
私も含めて庇護申請者を支援する民間の人たちは、申請が法律家たちの机の上に乗っている間には、直接問題に介入する術がありません。ただ訪問し、話し相手になり、うつになったり自暴自棄になったりしないようにできるだけのことをします。
また移民局や内務省に嘆願書を出したり、否定的な回答に対して抗議行動をすることもありますが、どれだけ直接の影響を与えられるのかは疑問です。
アドヴェントの、そしてクリスマスの光がヤシールにまで届くことを心の底から願います。そしてその願いを本当の願いにするために、光が届くように自分では何ができるかを探り、それをなせることを祈ります。
応援します、若い力。Meet Iceland
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歳を重ねるほど一年の流れが加速していくというのは何か理由のあることなのでしょうか?このブログを始めて一年以上経ちましたが、メイルでわざわざ「toshikitomaさんの一年前のブログです」とリンクを送ってきてくれます。
いつもはそのまま削除してしまいますが、先日去年のアドヴェントに書いたものを見てみました。全く同じで「月並みな物言いですが、とんでもない速さで月日は流れ明日(12月1日)の晩からはアドベントに入ります」と書いています。進歩のなさが露見してしまってますね。(^-^;
アドヴェントは「待降節」であり、キリスト・イエスの誕生、すなわちクリスマスに備えるための時期です。そのためもともとは自分のあり方を顧みて、正すべきところは正してクリスマスに臨む、という厳粛な時期であります。
「ヨーラ・ファスタ」というクリスマス前の断食(食事の節制)をする人がいるのもこのためです。教会歴を用いる宗派のキリスト教会に縁のない方はご存知ないと思いますが、アドヴェントの典礼色(教会の祭儀で用いる色)は紫で、これは復活祭前の受難節と同じ色なのですが、これも身を正すというところから来ているわけです。
ところが俗世は随分と違う道を進んでいっているわけで、実際のアドヴェントの時期はかなり違った雰囲気になっていることはご承知の通りです。ただ念のために断っておきますが、ワタシは個人的には、別に俗世のアドヴェントを全部否定しようとかいうつもりもないのです。特にここアイスランドでは、アドヴェントとクリスマスが(それがどのような形であれ)この暗い時期を耐え易くしてくれているのは確かですから。
俗世のアドヴェントは「師走」と同じく忙しい時期です。クリスマスのご馳走や家族揃っての集い、プレゼントの交換などが馬の鼻先のニンジンのようにぶら下がった日々です。
プレゼントを何にしようか、ご馳走を何にしようか、などと言う楽しい期待に(たとえそれがクレジットカードには重いものであっても)心を奪われている時には、なかなか本来の仕事とかには気持ちを集中できないこともあります。
しかしこれはある意味それなりに「恵まれた」立場にある人たちについてのことであるでしょう。アイスランドのような小さな社会であってさえも「生活を楽しんでいる人たち」と「生活に捕われてしまっている」人たちが別れてしまっています。
生活に捕われている人たちの中には、クリスマス前後の食卓に乗せる「食事パック」を受け取るために生活保護団体の列に並んだり、プレゼントを買うためのお金をどう工面しようかと悩んだり、ずっしり重いローンの負担で住む場所が無くなるのではないかと心配している人もいます。
また、フィリピンからの移民で故国の被災地の家族や親戚の生活を心配している人たちもいますし、病いを患っている人だっていますし、難民申請をしていて将来の見通しが立たない人もいます。決して皆がみなハッピーなわけではないのは世の常でしょう、残念ながら。
クリスマスの本来の意味はそのような「生活に捕われた人々」「大きな心配や不安に捕われた人」も含めて、というよりはむしろそのような人々をこそ照らす光をもたらすものです。
ところが皮肉なもので、皆がメリークリスマス待望的な忙しさに巻き込まれてしまうと、やはり生活に捕われた人たちや、ケアが必要な人たちへのサポートが二の次になっていってしまうように見受けられます。
もっともワタシ自身、門前の小憎とはいえ牧師ですから、世間を批評する前に自分自身の襟を正さなくてはなりません。とにもかくにも世間の流れに身を任せずに正しい(と思う)方向へ舵を取るのは、そうと意識しなくてはできないことですね。
皆様も師走の喧噪の中で確かな道をご自身のテンポで歩まれますよう。
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外国語を学ぶ際に特に始めのうち難しいことは単語を覚えることですよね。特に歳がいってから学ぶと覚えたつもりになっていても忘れてしまう、ということさえ起ってきます。私は三十過ぎてからアイスランド語を学ぶ羽目になりましたので、文法よりはむしろ単語で苦労しました。
英語などでもそうですが、単語を構成している接頭辞や接尾辞のような構成要素の持つ意味が分かってくれば多少は覚えやすくなってきますね。re–が付けば「繰り返し」に関係のあることでしょうし、aqua- が付けば「水」関連ですよね。
アイスランド語でも同じことで、ある程度そういう単語の中の構成部分が頭に入ってくれば単語の理解が多少は楽になります。それまでは(それでも?)なかなか覚えられない単語もあります。
私が苦労したのは例えば「とりあえず」を意味するbrada-birgdaという単語です。これがbradabirgdaだったかbradabrigda だったかいつも混乱してしまうのです。あと「哲学」のheimspeki。これもheimskepiと混乱してしまいました。...何度も。
単語を覚えられないのと平行して勘違いというものもあります。ある単語と他の単語の取り違いです。これもよくあります。...今でも。
先週の日曜日前後のことですが、 教会のエッセイや説教を閲覧できるサイトで同僚の牧師さんのうちの二人がheimsendirについて話したり書いたりしているのを見ました。heimは「自宅」ですし、sendingは「送ること」ですので、heimsendingは「宅配」のことです。
宅配といえばピザ?もちろん家電やその他の商品もありましょうが、ここではまずピザです。でもどうしてピザの宅配が牧師さんの説教ネタになるのかなあ...?そう思いながらも、アイスランド語で書かれたものは頑張らないと読めないワタシは放っておきました。
二日ほどして全く別のサイトでまたもや同じ言葉と遭遇したワタシはやっと自分の勘違いに気がつきました。heimsending「宅配」ではなくてheims-endir「世の終わり」でした。heim(ur)は「世界」、endirは「終わり」です。
先週の日曜は教会歴の最後の日曜日で(ということは次の日曜日、すなわち昨日からはアドヴェントになります)、その日には世の終わりとか「終末」が教会での説教の話題になるのです。
ワタシの勘違いのもとは単語の区切り方の間違いでした。Heim-sendirではなくて、Heims-endirだったのです。エライ違いだわ、もう。
それにしても「終末」というのは牧師にとっては必須の業界用語なんですけどね、二十年いてもそれさえモノにしていないとは...情け無いッス。でもワタシ、「世の終わりがそこまで来ている!」タイプの牧師さんではないのです。...言い訳。
もうひとつ、最近の勘違い。
今週の日曜日からアドヴェント入りしてクリスマスがぐっと近づいてきました。アドヴェントについては昨年書きましたのでそちらもよろしく読んで下さい。
昨年のアドヴェントについてのブログはこちら
で、当然クリスマスのプレゼントが視野に入ってきています。知り合いの十一歳の男の子にクリスマス・プレゼントの希望を訊いたのですが、「ピンクのサッカーボール」とのこと。「よしっ」と約束しました。
でもピンク?ネットで調べたらあるにはあるんですね。多くは女子サッカー用の四号球ですが五号級もないわけではない。それでも、どうも変。男の子は普通ピンクの色のサッカーボールを所望するだろうか?十一歳の男の子がフェミニストであり得なくはない。でも可能性は低いだろう。
確認しようと思ってその子のお母さんに尋ねたら「フフ、それはpinkではなくてpinkuでしょ。「ちょっと」という意味だけど控えめに希望を言う時などに小さな子が使うことがある言葉なの」だそうな。でも辞書にも載っていない...奥が深いぞ、アイスランド語。
というわけで今回もワタシの勘違いでした。でもピンクのサッカーボールを買ってしまう前に確認してよかった。(^-^;
「そんな勘違いの連続でよく生活できてるなあ?」と思われる向きもあるでしょうが、できるんですよねえ。ワタシがノーテンキなのか?アイスランドがそういうところなのか?
アナタはどう思いますか?
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