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音楽は音楽。小沢と山本。

2012-06-28 09:44:29 | 歌・コンサートなど
ちょっと前になるが、新聞にでていた小沢征爾が山本直純を語っていた記事。


音楽の土壌、耕した山本直純さん 小澤征爾さんが追想(朝日新聞デジタル2012/6/16より)

 指揮者で作曲家の山本直純さんが18日、没後10年を迎える。「大きいことはいいことだ」のCMや、映画「男はつらいよ」の名テーマ曲で広く愛された山本さんは、クラシックの啓蒙(けいもう)活動やオーケストラの育成などを通じ、誰よりも日本における音楽文化の土壌を耕すことに情熱を傾けた才人でもあった。10代の頃からの盟友、小澤征爾さんが、その真価を振り返る。

 小澤さんが、「サイトウ・キネン・オーケストラ」にその名を残す斎藤秀雄に薫陶を受けたことはよく知られている。中学生になって斎藤の門をたたいたとき、「ちょうどいい、高校まで彼に教わりなさい」と紹介されたのが、三つ年上の山本さんだった。

 もともとチェリストだった斎藤は、作曲にもピアノにも秀でた山本さんに一目置き、自分が指揮をするリハーサルで彼の耳に頼ることすらあった。そんな山本さんに小澤さんは、スコアの読み方から各楽器の扱いに至るまで、音楽の基礎のすべてを教わることになる。戦後復興の機運に導かれ、岩城宏之、武満徹、林光ら、豊かな才能があちこちで芽吹きはじめていた、「日本音楽界の青春」とでもいうべき時代だった。

 欧州へと渡ることになった小澤さんの送別会で、山本さんは、手で大きな三角形をつくりながらこう言った。「オレは、日本で底辺のところを育てる。お前は世界の頂点を目指せ」

 ある時、海外から戻った小澤さんを、山本さんが新宿の映画館に誘い出す。「男はつらいよ」の第1作が上映されていた。ちょっぴり得意そうな山本さんの隣で、小澤さんは、ブルースをとりこんだテーマ曲のスケールの大きさに圧倒されていた。「鼻歌みたいに気楽に、あんなのが書けちゃうんだからね。ショスタコービチもシェーンベルクもブルースも、彼にとっては等しく『音楽』だった」

 そんな山本さんの間口の広さを証明したのが、TBS系の番組「オーケストラがやって来た」(1972~83年)だ。萩元晴彦プロデューサーのもと、山本さんが企画、構成、司会のすべてを担った。小澤さんと山本さんが創立に関わった新日本フィルハーモニー交響楽団も毎回出演した。

 1回の番組は30分。舞台裏で、山本さんは奔走する。ベートーベンの交響曲を3分程度に「圧縮」したり、バイオリンの巨匠アイザック・スターンに弾かせるため「からたちの花」を即興的にアレンジしたり。「1分間指揮者コーナー」など、一般の人を巻き込む工夫も忘れなかった。

 どんなに多忙になっても、小澤さんは帰国のたび必ず出演した。クラシックを理解する土壌を山本さんが耕し、そこに小澤さんが世界の風を連れて戻ってくる。それが約束だったからだ。ふたりが繰り出すコント張りのやりとりに大笑いしていた観客も、いざ小澤さんが目をかっと見開き、火を噴くような真剣さで斎藤秀雄編曲のバッハ「シャコンヌ」を指揮すると、しんと静まりかえった。

 「素人相手だから、と気を抜く楽員は、僕は容赦なく叱りつけた。一般の人々や子供たちにこそ真剣に向き合わなきゃ、と僕も直純も信じて疑わなかった」

 そもそも、テレビからクラシックの深みへと大衆を最初に導いたのは、かのレナード・バーンスタインだった。番組は、当時彼のアシスタントを務めていた小澤さんと、山本さんの試行錯誤の結晶でもある。現在、山本さんの没後10年に合わせ、DVD化やネット配信の動きが進んでいる。

 夏のサイトウ・キネンで若手を教えるようになってから、小澤さんは山本さんとの日々を改めて思い出すことが多くなったという。

 「こっちが音楽の敷居を下げたら絶対にダメだということを、僕は直純に教えられた。音楽は神秘的な真実。音楽への尊敬でつながれる人たちを、どれだけつくることができるか。ぼくが直純との約束を果たさなきゃいけないのは、本当はこれからなのかもしれないね」(吉田純子)

以上が新聞記事からですが、その中の
「オレは、日本で底辺のところを育てる。お前は世界の頂点を目指せ」は
お互いを認め合っての信頼関係と、気宇壮大さが現れていて、
すっかり、このフレーズが気にいってます。

覚えておきたくて、ここに載せておきます。

上を目指す人、底辺を支える人。
どちらも、必要。


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