駒込寺めぐりのつづきです。
“八百屋お七”ゆかりの寺“焙烙地蔵の大円寺”“お七の墓のある円乗寺”“目赤不動の南谷寺”のあと、本郷通りをJR駒込駅に向かって歩き、広大な境内を持つ“曹洞宗 吉祥寺”に来ました。
文京区の説明板には「僧侶の養成機関として栴檀林(駒澤大学の前身)を持ち、一千余名の学僧が学び。昌平坂学問所と並び称された」と書かれています。
「ここは、江戸時代の大学のキャンパス」
「この寺の門前に住んだ人達が明暦の大火で武蔵野に移り、拓いた村が“吉祥寺”」
などと、感慨にふけりつつ、人気のない境内を歩きました。
たどりついたのは、参道左手にある“お七・吉三の比翼塚”です。
天和 3 年( 1683 )放火の咎で火刑に処せられた八百屋久兵衛の娘“お七”( 16 歳 )が一目ぼれをし、会いたさの一念から放火までしてしまった、その相手の学僧とはどんな青年だったのだろう。
(こんなふうに写真を使ってごめんなさい)
私は、センダンに一目ぼれ。花の咲く 5 月下旬(だったかな)はさぞ見事なことだろう。
吉祥寺を出て、本郷通りを北に行くことしばし、「富士神社入り口」の信号を右にはいったところ、「富士神社」に来ました。
「江戸八百八講」といわれるほど、江戸のあらゆる町にあった「富士講」、その人たちの信仰のよりどころです。
「本郷村の名主が天正元年( 1573 )現在の東京大学の地に駿河の富士浅間神社を勧請したことにはじまる。寛永 5 年( 1628 )加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間神社を現在地に移した。
拝殿は富士山に見立てた山の上にあり江戸期の富士信仰の拠点となった。」(文京区の blog による)