戦後 70 年の 8 月 15 日が巡ってきた。
私は 80 歳でなんとか生きながらえている。ふと思いついて、名戸ヶ谷の香取神社に自転車で出かけた。
大津川のカワウ、道端の百日紅を眺めて進み、お盆の時期なので、農家の入り口には先祖の霊を迎える花や供え物があった。
神社に着くと、いつもの静かなたたずまいの中で、鳥居だけがが新しくなっていた。
いつになく、境内の戦死者慰霊碑の文言をていねいに読んだ。
日中戦役 太平洋戦争 戦役者之碑
勝敗の如何を問わず戦争ほど強烈にして無残な体験を人間に強いるものはない。
そしてわが国の史上例を見ない大戦であった日中戦争と引続いて勃発した太平洋戦争に軍人として参加した私達の場合平和を希求する目的から、この異常な戦争体験を次代に伝承すべきか否かは極めて重い問題意識として常に心を占めているところである。
この戦争に際し、戸数僅か九十六戸の名戸ヶ谷から百八名の壮丁が戦場に出た。然し「古来征戦幾人かかえる」ある者は南太平洋海域に於ける絶海の孤島に散り、ある者は熱帯の密林の中に異国の土や草木を血に染めて死んだ。
その数は二十七名、なにぶん戦場の範囲が広く、北にアリューシャン列島から南は豪州海域に及び、陸では中国大陸からインドとの国境にもわたるものだっただけに遺骨の蒐集さえ出来なかったものもあり、まさに「鬼哭シュウシュウ声天に沸く」の思いというべきであろう。
歳月の流れは容赦なく事物を風化させ、すべては歴史の中に埋没する運命にあるが、生き永らえて故国に帰った私共の責務の一端として、まず戦死者の慰霊碑を建立すべきだという事に意見の一致をみた。
そのために、幼児からなじんだ産土の神の境内に一基の碑を建て、いまは亡き戦士たちの名と私共の追憶の想いを刻んで、御霊安かれと祈るものである。
昭和 55 年 7 月 吉日
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