宝石ざくざく◇ほらあなJournal3

ロシア語をはじめ、外国語学習に関するあれこれを書いておりましたが、最近は…?

外国語と母語

2012年08月28日 | 
内田樹氏の『街場の読書論』と『街場の文体論』を読んだ。
『読書論』は図書館で借りて、『文体論』を早く読みたくなって書店に行ったらたくさん平積みになっていた。多くの人に読まれているのだと実感。

その中で、外国語学習について書かれていた文章を抜書き。

(『街場の文体論』P244-245 言語は道具ではない)

《本来、外国語というのは、自己表現のために学ぶものではないんです。自己を豊かにするために学ぶものなんです。自分を外部に押しつけるためではなく、外部を自分のうちに取り込むために学ぶものなんです。

理解できない言葉、自分の身体のなかに対応物がないような概念や感情にさらされること、それが外国語を学ぶことの最良の意義だと僕は思います。浴びるように「異語」にさらされているうちに、あるとき母語の語彙になく、その外国語にしか存在しない語に自分の身体が同期する瞬間が訪れる。それは、ある意味で、足元が崩れるような経験です。自分が生まれてからずっとそこに閉じ込められていた「種族の思想」の檻の壁に亀裂が入って、そこから味わったことのない感触の「風」が吹き込んでくる。そういう生成的な経験なんです。外国語の習得というのは、その「一陣の涼風」を経験するためのものだと僕は思います。》
(抜書き終り)

なるほどなぁ。

また『街場の読書論』に「母語運用能力について」という項があり、気になったので抜書き。(P258-259)

《外国語を学ぶときに、私たちはまず「ストックフレーズ丸暗記」から入る。

自分が何を言いたいのかあらかじめわかっていて、相手がそれをできるだけ早い段階で察知できるコミュニケーションが外国語のオーラル・コミュニケーションの理想的な形である、

母語言語運用能力というのは、端的に言えば、「次にどういう語が続くか(自分でも)わからないのだけれど、そのセンテンスが最終的にはある秩序のうちに収斂することについてはなぜか確信せられている」という心的過程を伴った言語活動のことである。

ストックフレーズを大量に暗記して適切なタイミングで再生することと、言語を通じて自分の思考や感情を造形していくという(時間と手間ひまのかかる)言語の生成プロセスに身を投じることは(結果的にはどちらも「たくみにある言語を操る」というふうに見えるけれど)内実はまったく別のことである。》
(抜書き終り)

読んで思ったのは「おや、私は自分の外国語学習の究極目標を、分不相応に高いところに設定していたのではないか。そしてそれが達せられないことにイラついたり落ち込んだりしているのではないか」ということだった。
すなわち、私は外国語でも「言語を通じて自分の思考や感情を造形」したいと希望している。そして、ただ「ストックフレーズを再生する」することにどうも抵抗感がある。言ったり書いたりしてみてはじめて「ああ私はこういうことが言いたかったのか」と分かる喜びを外国語でも味わいたい、と自分は思っているようである。

ともあれ、「私は『外国語ができる』の意味を『母語レベル』と設定していたが、そりゃ大変だ」という発見があった。まずはやっぱりストックフレーズを適切に再生できること、からかなぁ・・・

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