それでは三門の脇から中へと進んでみましょう。
中に入ってすぐ正面、三門から直線上の場所に有るのが本堂。
説明書きによると本堂は、1629年に蜂須賀蓬庵が娘辰の供養のため
住職の居室を再建寄進した物との事。昭和34年に解体修理されている。
そして、その本堂の右側に位置するのが徳雲院。こちらは、1642年に再建された物。
益田豊後の弟と、その子供3人がここで切腹させられたという曰く付きの場所のようだ。
肝心な血天井は、この徳雲院の外廊下の天井に有った。
長い説明文が有る。要約すると・・・長宗我部元親という人物が、敵対していた猛将
新開遠江守忠之(新開入道道善)を、和談と称した計略によって打ち倒した際に
飛び散った血液が縁板へと染み込み、その縁板を用いたのがこの血天井。との事だ。
よく見てみると、天井の所々に手形等が付いているのが解るだろう。
物が物なだけに、ここは地元では心霊スポットとしても騒がれているようで
そのせいか『夜間は許可無く寺内に入ることを禁止します』との警告も出ていた。
今回は悪天候のため、以上をもって早々に切り上げる事にしました。じっくり見て
回る事は出来なかったけれど、丈六寺は中々面白味の有るお寺だったと思います。
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中に入ってすぐ正面、三門から直線上の場所に有るのが本堂。
説明書きによると本堂は、1629年に蜂須賀蓬庵が娘辰の供養のため
住職の居室を再建寄進した物との事。昭和34年に解体修理されている。
そして、その本堂の右側に位置するのが徳雲院。こちらは、1642年に再建された物。
益田豊後の弟と、その子供3人がここで切腹させられたという曰く付きの場所のようだ。
肝心な血天井は、この徳雲院の外廊下の天井に有った。
長い説明文が有る。要約すると・・・長宗我部元親という人物が、敵対していた猛将
新開遠江守忠之(新開入道道善)を、和談と称した計略によって打ち倒した際に
飛び散った血液が縁板へと染み込み、その縁板を用いたのがこの血天井。との事だ。
よく見てみると、天井の所々に手形等が付いているのが解るだろう。
物が物なだけに、ここは地元では心霊スポットとしても騒がれているようで
そのせいか『夜間は許可無く寺内に入ることを禁止します』との警告も出ていた。
今回は悪天候のため、以上をもって早々に切り上げる事にしました。じっくり見て
回る事は出来なかったけれど、丈六寺は中々面白味の有るお寺だったと思います。
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