松蔭寺の本堂裏にある、白隠禅師の墓へと向かう。
本堂、向かって左側には、白い六角形の建物がある。入口上の看板は外されているが
蔵として使っているのだろうか?その奥の大疑清と書かれた離れの横から境内の裏へ。
さらに、もう1つ。離れと本堂の間に、大憤志と書かれた建物が。こちらは坐禅堂との事。
それらの建物の間に生えている、天に向かって真っ直ぐ伸びた松。これが、2代目すり鉢松だ。
竹採公園にある物と比べると凄く大きいが、境内に生えている他の松に比べたら、だいぶ小柄。
幹の天辺には、しっかりと擂鉢が被せられているが、枝に遮られ、なかなかよく見えない。
試行錯誤の末、南東側の民家の屋根越しに眺めたら、けっこうハッキリと見る事ができた。
本堂裏。先程の坐禅堂の後ろにも、白い六角形の建物が。こちらは開山堂で、内部には
木造白隠禅師坐像が祀られており、この建物共々、有形文化財に指定されているそうだ。
奥へ進む途中にあった、石碑と地蔵菩薩郡。後で行く地蔵堂よりも、お地蔵様が多いぞ。
境内の南側、JR東海道線の線路を目前に、巨大な松の木が現れた。
その足元には白隠禅師墓の説明立札。墓は右側の囲いの中にある。
白隠慧鶴(はくいんえかく)。1686年(旧暦1685年)駿東郡原宿に、長澤家の三男として産まれる。
幼名を岩次郎といい、15歳の時に松蔭寺へ出家し、慧鶴と名付けられる。19歳で諸国行脚の旅を行い
33歳の頃に松蔭寺の住職となり翌年に白隠を号する。多くの弟子を育て、書物や書画も数万点残した。
1769年(旧暦1768年)に、84歳で亡くなる。当時としては、かなり長生きだったのではなかろうか?
「駿河には過ぎたるものが二つあり富士のお山に原の白隠」と、謳われるほどの名僧だったようだ。
次は、そんな白隠慧鶴こと長澤岩次郎が産まれたとされる、生家の跡地の方へと行ってみよう。
本堂へ戻る 白隠生家跡へ進む 長興寺へ進む
本堂、向かって左側には、白い六角形の建物がある。入口上の看板は外されているが
蔵として使っているのだろうか?その奥の大疑清と書かれた離れの横から境内の裏へ。
さらに、もう1つ。離れと本堂の間に、大憤志と書かれた建物が。こちらは坐禅堂との事。
それらの建物の間に生えている、天に向かって真っ直ぐ伸びた松。これが、2代目すり鉢松だ。
竹採公園にある物と比べると凄く大きいが、境内に生えている他の松に比べたら、だいぶ小柄。
幹の天辺には、しっかりと擂鉢が被せられているが、枝に遮られ、なかなかよく見えない。
試行錯誤の末、南東側の民家の屋根越しに眺めたら、けっこうハッキリと見る事ができた。
本堂裏。先程の坐禅堂の後ろにも、白い六角形の建物が。こちらは開山堂で、内部には
木造白隠禅師坐像が祀られており、この建物共々、有形文化財に指定されているそうだ。
奥へ進む途中にあった、石碑と地蔵菩薩郡。後で行く地蔵堂よりも、お地蔵様が多いぞ。
境内の南側、JR東海道線の線路を目前に、巨大な松の木が現れた。
その足元には白隠禅師墓の説明立札。墓は右側の囲いの中にある。
白隠慧鶴(はくいんえかく)。1686年(旧暦1685年)駿東郡原宿に、長澤家の三男として産まれる。
幼名を岩次郎といい、15歳の時に松蔭寺へ出家し、慧鶴と名付けられる。19歳で諸国行脚の旅を行い
33歳の頃に松蔭寺の住職となり翌年に白隠を号する。多くの弟子を育て、書物や書画も数万点残した。
1769年(旧暦1768年)に、84歳で亡くなる。当時としては、かなり長生きだったのではなかろうか?
「駿河には過ぎたるものが二つあり富士のお山に原の白隠」と、謳われるほどの名僧だったようだ。
次は、そんな白隠慧鶴こと長澤岩次郎が産まれたとされる、生家の跡地の方へと行ってみよう。
本堂へ戻る 白隠生家跡へ進む 長興寺へ進む
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