5月17日紀伊國屋サザンシアターで、古川健作「真理の勇気 ― 戸坂潤と唯物論研究会」を見た(演出:鵜山仁、青年劇場公演)。
1945年8月9日、戸坂潤は獄死した。戦争が終わるわずか数日前のこと。
時は遡ること12年前、「野蛮で反知性的なファシズムに対し、我々はあくまでも知性を武器にして闘い抜く」と、戸坂潤は岡邦雄、三枝博音と共に
唯物論研究会を立ち上げた。しかし「危険思想を広める恐れがある」と特高警察の監視が始まり、やがて集会禁止から執筆禁止に。
しかし彼は常に前を向き、誰よりも貪欲に生きることを求めた(チラシより)。
戸坂潤のことは名前しか知らなかったが、今回も古川健のおかげでいろいろ勉強になった。
話は彼の仲間との社会的活動と、家庭生活、及び女性関係とを行き来して進行する。
私生児として母一人子一人で育ったというから、さぞ苦労したことだろう。
当時はまだシングルマザーなどという言葉もなかった。
そもそも「私生児」という言葉自体、ありがたいことに、今ではほとんど死語だし。
母親は立派な人と評判で、しっかり者だったらしいが、母子ともに相当差別されたに違いない。
そんな彼は非科学的な考えを憎み、理不尽な世の中に対する怒りを抱いているが、それでも感情的になることなく、冷静に理論的に戦おうとする。
彼は唯物論研究会(略称:唯研)を立ち上げ、その有力メンバーとして機関紙を発行するなど旺盛な言論活動を展開する。
評者は情けないことに、彼らの言う唯物論とマルクス主義の違いもよくわからないのですが・・。
マルクス主義の方は、NHKの「百分で名著」のおかげでだいぶ分かったような気になったけど。
生い立ちゆえか、彼は旧来の道徳には縛られない自由思想の持ち主でもあった。
再婚した妻がありながら、同じくバツイチの同志・光成秀子と時々会っている。
彼女は同志とは言え、戸坂を尊敬し、多くの疑問を抱えて積極的に彼に会いたがり、教えを乞う良き生徒のような存在。
彼は一線を越え、彼女を妊娠させてしまう。
だが彼女は実家が裕福だからか焦ることもなく、男に頼る気もない。
子供は産んで自分で育てます、あなたに迷惑はかけません、と言う。
彼女を見ていると清々しい(時代を考えると驚くべきことだ)が、男の態度を考えると腹立たしい。
女の独立精神と、自分に対する敬愛の気持ちを利用しているとしか思えない。
一方、彼の妻は賢く、夫のしたことに気づいている。
女が彼らの家を訪ねると、妻は「ご迷惑を・・」とか言って彼女に頭を下げる。
不意をつかれた男は驚いて「そういう言い方は・・」と止めようとするが、女は落ち着いて「いえ、こちらこそ・・」と返礼するのだった。
男はでくの坊よろしくそばに突っ立って見ている。
ここでは思想家・雄弁家たる戸坂潤も、女癖の悪い、ただのだらしない男に過ぎない。
二人の女は自立した大人、それに対して男は二人に世話を焼いてもらう子供のようだ。
構成はさすがにうまい。
官憲の目は厳しさを増し、彼らの事務所に警官が常駐するようになる。
警官は職務上、仲間内の会話を逐一メモするが、内容が難し過ぎて難儀する、というのがおかしい。さもありなん。
集会は禁止され、執筆も禁止され、唯研は解散。
戦争末期、ついに戸坂は逮捕され、敗戦直前に獄死する。
家族は戦後、彼が獄中で聖書を熱心に読んでいたと聞かされる。
家を訪ねてきた同志に、母と妻は聖書に彼の写真を貼ったものを差し出す。
戸坂は無神論者だったので、「位牌は違うかな、と思って」と母。
母「潤は生きていると思います。戸坂ならこう考えるのではないだろうか、と考えてくれる人がいる限り、潤はその人の中で生きていると思うのです。」
戸坂潤役の清原達之が素晴らしい。
その他の役者たちもみな好演。
音楽の使い方もいい。
序盤はショパンの激しいピアノ曲。次いでアルビノーニのアダージョ。ラストは、またショパンか何かの静かなピアノ曲。
彼は、私生活においては、理解ある(あり過ぎる)妻と愛人に甘えた無責任な男と言ってもいいだろう。
だが、愛人との間に生まれた私生児を可愛がり、時には寝かしつけてやるという一面もあった。
そう、彼は自分と同じ私生児をこの世に誕生させてしまった。
そのことを自分でもはっきり自覚している。
「神はいない」と演説でも言っていた彼が、最後に聖書を読んでいたということが驚きだった。
どういうことだろうか。
彼は、それまで聖書を読んだことがなかったのだろう。
宗教というものを、ただ観念的に一律にとらえて嫌悪し、否定していたのだろう。
だが、刑務所で実際に聖書を読んでみると、意外にも面白くて引き込まれてしまった。
そこに救いを感じる。
その頃の彼と話がしてみたい。
古川健という作家は、興味深い。
劇団チョコレートケーキでいくつか彼の作品を見てきたが、彼の描く女性は、気丈な人か、ステレオタイプか、のどちらかだと言えるのではないだろうか。
いや前者だって後者の一類型だから、結局、全部ワンパターンってことじゃないか。
むろん、ミソジニーではなく、その対極にあるわけだが。
あんなに多くの男性を個性豊かに描き分けることができるのに(「帰還不能点」の面白さを見よ!)、どうして女性はワンパターンなのか。
言いにくいが、想像力が足りないとしか考えられない。
こんなにも才能がありながら、バランスを欠いているとは、劇作家として致命的ではないだろうか。
実に惜しい。
彼がこれまで出会ってきた女性たちは、みな、立派な人たちだったのだろうと推測できる。
それはもちろん素晴らしいことだが、できればいつか、一度でいいから、だらしない女性、ダメな女性、腹黒い女・・とかを書いてみせてほしい。
「三銃士」のミレディみたいな、とまでは言わないけど(笑)。
1945年8月9日、戸坂潤は獄死した。戦争が終わるわずか数日前のこと。
時は遡ること12年前、「野蛮で反知性的なファシズムに対し、我々はあくまでも知性を武器にして闘い抜く」と、戸坂潤は岡邦雄、三枝博音と共に
唯物論研究会を立ち上げた。しかし「危険思想を広める恐れがある」と特高警察の監視が始まり、やがて集会禁止から執筆禁止に。
しかし彼は常に前を向き、誰よりも貪欲に生きることを求めた(チラシより)。
戸坂潤のことは名前しか知らなかったが、今回も古川健のおかげでいろいろ勉強になった。
話は彼の仲間との社会的活動と、家庭生活、及び女性関係とを行き来して進行する。
私生児として母一人子一人で育ったというから、さぞ苦労したことだろう。
当時はまだシングルマザーなどという言葉もなかった。
そもそも「私生児」という言葉自体、ありがたいことに、今ではほとんど死語だし。
母親は立派な人と評判で、しっかり者だったらしいが、母子ともに相当差別されたに違いない。
そんな彼は非科学的な考えを憎み、理不尽な世の中に対する怒りを抱いているが、それでも感情的になることなく、冷静に理論的に戦おうとする。
彼は唯物論研究会(略称:唯研)を立ち上げ、その有力メンバーとして機関紙を発行するなど旺盛な言論活動を展開する。
評者は情けないことに、彼らの言う唯物論とマルクス主義の違いもよくわからないのですが・・。
マルクス主義の方は、NHKの「百分で名著」のおかげでだいぶ分かったような気になったけど。
生い立ちゆえか、彼は旧来の道徳には縛られない自由思想の持ち主でもあった。
再婚した妻がありながら、同じくバツイチの同志・光成秀子と時々会っている。
彼女は同志とは言え、戸坂を尊敬し、多くの疑問を抱えて積極的に彼に会いたがり、教えを乞う良き生徒のような存在。
彼は一線を越え、彼女を妊娠させてしまう。
だが彼女は実家が裕福だからか焦ることもなく、男に頼る気もない。
子供は産んで自分で育てます、あなたに迷惑はかけません、と言う。
彼女を見ていると清々しい(時代を考えると驚くべきことだ)が、男の態度を考えると腹立たしい。
女の独立精神と、自分に対する敬愛の気持ちを利用しているとしか思えない。
一方、彼の妻は賢く、夫のしたことに気づいている。
女が彼らの家を訪ねると、妻は「ご迷惑を・・」とか言って彼女に頭を下げる。
不意をつかれた男は驚いて「そういう言い方は・・」と止めようとするが、女は落ち着いて「いえ、こちらこそ・・」と返礼するのだった。
男はでくの坊よろしくそばに突っ立って見ている。
ここでは思想家・雄弁家たる戸坂潤も、女癖の悪い、ただのだらしない男に過ぎない。
二人の女は自立した大人、それに対して男は二人に世話を焼いてもらう子供のようだ。
構成はさすがにうまい。
官憲の目は厳しさを増し、彼らの事務所に警官が常駐するようになる。
警官は職務上、仲間内の会話を逐一メモするが、内容が難し過ぎて難儀する、というのがおかしい。さもありなん。
集会は禁止され、執筆も禁止され、唯研は解散。
戦争末期、ついに戸坂は逮捕され、敗戦直前に獄死する。
家族は戦後、彼が獄中で聖書を熱心に読んでいたと聞かされる。
家を訪ねてきた同志に、母と妻は聖書に彼の写真を貼ったものを差し出す。
戸坂は無神論者だったので、「位牌は違うかな、と思って」と母。
母「潤は生きていると思います。戸坂ならこう考えるのではないだろうか、と考えてくれる人がいる限り、潤はその人の中で生きていると思うのです。」
戸坂潤役の清原達之が素晴らしい。
その他の役者たちもみな好演。
音楽の使い方もいい。
序盤はショパンの激しいピアノ曲。次いでアルビノーニのアダージョ。ラストは、またショパンか何かの静かなピアノ曲。
彼は、私生活においては、理解ある(あり過ぎる)妻と愛人に甘えた無責任な男と言ってもいいだろう。
だが、愛人との間に生まれた私生児を可愛がり、時には寝かしつけてやるという一面もあった。
そう、彼は自分と同じ私生児をこの世に誕生させてしまった。
そのことを自分でもはっきり自覚している。
「神はいない」と演説でも言っていた彼が、最後に聖書を読んでいたということが驚きだった。
どういうことだろうか。
彼は、それまで聖書を読んだことがなかったのだろう。
宗教というものを、ただ観念的に一律にとらえて嫌悪し、否定していたのだろう。
だが、刑務所で実際に聖書を読んでみると、意外にも面白くて引き込まれてしまった。
そこに救いを感じる。
その頃の彼と話がしてみたい。
古川健という作家は、興味深い。
劇団チョコレートケーキでいくつか彼の作品を見てきたが、彼の描く女性は、気丈な人か、ステレオタイプか、のどちらかだと言えるのではないだろうか。
いや前者だって後者の一類型だから、結局、全部ワンパターンってことじゃないか。
むろん、ミソジニーではなく、その対極にあるわけだが。
あんなに多くの男性を個性豊かに描き分けることができるのに(「帰還不能点」の面白さを見よ!)、どうして女性はワンパターンなのか。
言いにくいが、想像力が足りないとしか考えられない。
こんなにも才能がありながら、バランスを欠いているとは、劇作家として致命的ではないだろうか。
実に惜しい。
彼がこれまで出会ってきた女性たちは、みな、立派な人たちだったのだろうと推測できる。
それはもちろん素晴らしいことだが、できればいつか、一度でいいから、だらしない女性、ダメな女性、腹黒い女・・とかを書いてみせてほしい。
「三銃士」のミレディみたいな、とまでは言わないけど(笑)。
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