ここのところ心の持ち方を考えるようになりました。
つい先日まではギスギスしたことしか考えていなかった私としては
余程空虚なものを感じるようになったか
余程年を取ったかしたのだと思います。
今回は「しあわせ」についてです。
職業柄、私は色々な所得(収入)の方達をお会いします。
その中には自身の環境を嘆いている方もあれば
充分満足されている方
さらなる高みを標榜している方など色々いらっしゃいます。
おひとりおひとりを思い浮かべると
私の目からお気の毒に見えるような状態であっても
「有難いありがたい、お陰さまで」と言われる方もあれば
どんなに大豪邸に住んでいても
「まだ足りない、まだ不安だ、周りは何もしてくれない」と嘆く方もあります。
どうも「幸福感」というのは、モノやカネでは測れないものの様です。
モノを見るから
カネを見るから
まだ足りないまだ足りないと餓鬼の世界に入り込んでしまう。
周囲からどう見えようと
モノは二の次
カネは二の次
そう思えればこれほど幸せな事はありません。
モノもカネも自身の生活のスパイス程度に思えれば
有っても無くても良いけれど
ある事自体に執着しない事が自身の心の幸せに繋がる事が自覚できる。
お茶碗一杯の幸せで良いじゃないですか。
それ以上モノやカネに執着する必要はありませんよね。
つい先日まではギスギスしたことしか考えていなかった私としては
余程空虚なものを感じるようになったか
余程年を取ったかしたのだと思います。
今回は「しあわせ」についてです。
職業柄、私は色々な所得(収入)の方達をお会いします。
その中には自身の環境を嘆いている方もあれば
充分満足されている方
さらなる高みを標榜している方など色々いらっしゃいます。
おひとりおひとりを思い浮かべると
私の目からお気の毒に見えるような状態であっても
「有難いありがたい、お陰さまで」と言われる方もあれば
どんなに大豪邸に住んでいても
「まだ足りない、まだ不安だ、周りは何もしてくれない」と嘆く方もあります。
どうも「幸福感」というのは、モノやカネでは測れないものの様です。
モノを見るから
カネを見るから
まだ足りないまだ足りないと餓鬼の世界に入り込んでしまう。
周囲からどう見えようと
モノは二の次
カネは二の次
そう思えればこれほど幸せな事はありません。
モノもカネも自身の生活のスパイス程度に思えれば
有っても無くても良いけれど
ある事自体に執着しない事が自身の心の幸せに繋がる事が自覚できる。
お茶碗一杯の幸せで良いじゃないですか。
それ以上モノやカネに執着する必要はありませんよね。