伝統ある英国のTANNOY IIILZで聴く、音楽の父J.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

「趣味」と「道楽」の違いを考える。勿論バッハを聴きながら比較的に誰からも愛される曲“バッハ:フランス組曲”で寛ぐ。

2021年03月16日 | バロック音楽・オーディオ一般

久しぶりに“海ほたる”に出かける、この海の見える景色は好きで、なにかホッとする・・・。一寸した仕事だが、風は強めだが晴天で富士山もスカイツリーも見える、海の上からの富士山も積雪があり実に美しい。“海ほたる”休憩所には春の房総写真菜の花と私鉄の写真展が掲載されていた。

本日は久々の仕事はダブルヘッターで夕方からも仕事です、未だ現役で動けることは健康だと思う、最近の誕生で73歳を迎える事ができた。逆に考えればこの歳で未だ働くことで生活するは大変貧困老人と思う、この貧困老人生活を楽しんでいます。



携帯での撮影でハッキリ都内の町並みが中央に見えるがスカイツリーは画面右にみえる、流石東京タワーは見えなかった。確かに波気はうさぎが飛び釣り船は見当たらなかった。海を見るとたまには釣りに行きたいと思う・・・

そのような事を思い、今ふと音楽鑑賞のとこで最近言葉遊びを思いついた。
筆者のリスニングルーム兼作業部屋は築30年古い木造の住まいで、リスニングルーム?作業部屋には壊れかけた本木造がいちばん音が良い、などとうそぶいている。現在の悩みはレコードプレイヤーが相当古く、アップグレードを考えているが考えれば相当の高額商材になるので写真でも見て我慢することが一番だ。夢はデッカの針を聴きたい。

見るは法楽(本来は社寺で神仏への手向けにする歌舞、音楽のこと。転じて、慰みや楽しみの意。自分の目でいろいろなものを見るのは楽しいということ。)とも言う。日本語の楽しみでもある。レコードプレイヤーもリムドライブのしっかりしたものがお好みだがガラードなどの良品は高額であり欲しくも手も足も出ない事が現実である。



今の自慢のエンクロージャーはAxiom80の箱に組み込んだIIILZ Monitor Goldで聴くが今の部屋とのマッチングは意外と古典的な表情も満足している。

音は近所に洩れ放題。だから深夜音楽を聴こうとすれば、サブのLS3/5A小型スピーカーで、ボリュームは絞って聴くことになる、低域不足は仕方がない。
最近天井から小さな観葉植物の鉢を吊り下げたが、雰囲気は変わったように思う。インテリアを美しく整理することは、かなり重要なことだと、わたくしは思っているが、さて自分自身は紺屋の白袴。

リスニングルームは、オーディオ機器をテストする実験室を兼ねているので、いまや不本意ながらインテリアは二の次でこればかりは残念でならない。しかしこの部屋で聴く音楽は実に楽しんでます。



ここで日本語に付いて考えてみた「趣味」と「道楽」の違いを筆者なりに考える、お江戸の時代は「道楽」で一括し、少し古めかしい語句でもある感じもするが、簡単に「趣味」とは「仕事ではなく、個人の楽しみとしてやっているものごと」「美しさやおもしろさを感じる、その人の感覚の傾向」「ものごとの味わい」のことで、「道楽」とは「お金がかかったり、無益であるなど、人に言いにくいもの」です。 「趣味は自分を磨けるもの」、「道楽は無益なもの」と基本的に考える事がよいのであろうか。

レコード、CDで音楽を聴くことに行き詰まりを感じたら、スピーカーでもアンプでもカートリッジでも、あるいはリスニングルームも含めて、ともかく再生装置の一部を変えてみるのは、意外に新鮮な刺激になる。むろん、こういう言い方にたいへんな危険があることは承知している。
しかし、オーディオに限らず、何かの道具の介在によってひらける趣味の世界では、道具を変えてみるというのは、ときどき必要なことのように思われる。何やらこの辺りからの話しは道楽、趣味をいったりきたりのこむつかしい話しになる、たとえばSMEのアームが、どうしてイギリスで生まれたか。マッキントッシュは、なぜアメリカで生まれたか。ハッセルブラッドがスウェーデンで、ライカがドイツで、パテック・フィリップは、なぜ、スイスに生まれたか。ポルシェは? ロータスは? ダンヒルは?……。


例をあげればきりがない。SMEもマッキントッシュもハッセルブラッドもライカも、それぞれ、最初は、制作者が自分のために手造りで作り上げたメカニズムである。趣味の極致から生まれ、年月をかけて練上げられ改良を加えられた製品、こんにち、それぞれの分野での最高峰としてそびえている製品をみれば、趣味の極み、洗練の極みを求める心は、洋の東西を問わず、およそ人間の文化の究極の形をとって現われてくることがわかる。

しかし有名メーカー品もその中の代表作は流石という製品は多い、少し前は国産カメラはLEICA、ハッセル、CONTAXなどと比べ格が落ちたが、評価が上がったデジカメに以降後はトップレベルになった等です、但国産品の商品もレンズはCONTAX、LEICAとグローバル化(自由貿易)が進み世界のイイコト取りの商品に移行していくようで面白い組み合わせでもある。最近残念なことにNikonの一眼レフも撤退をするとアナウンスされたのは誠に残念である。

スマホのカメラ性能があがり、カメラの需要が無くなり、カメラ独特の性能とテクニックが無くても世の中動画が主流になって来たようである、芸術性を望むことは不要になっているようで寂しくおもいます。



わかりやすい話で例えると、ライカ0型(1923年)市販の準備段階で製造されたプロトタイプ。フィルム巻き上げと同時にフォーカルプレンシャッターをチャージ、沈胴式50ミリレンズ装着など、後に35ミリ小型カメラのスタンダードになる機構を採用していた。ただしこのモデルでは,シャッターチャージの際にスリットを閉じるセルフキャッピングが搭載されておらず、フィルム巻き上げ時はレンズにキャップをかぶせる必要がある。製造台数はわずか25台とも35台ともいわれている 。勿論個人仕様の範囲であろう、最近の情報ではオークションで2億3,000万程で取引されたと言われる。まさに道楽の極みであろう。

写真がライカ0型だが一見ブリキの玩具のようにも見える、塗装も剥げたところもありそのような高額なカメラとは決して思わない、マニアにしか分からない物のようである、今は此のライカレプリカも人気のようです。

これを単に物質文化とかたづける人は、優れた製品は優れた人間の精神の所産であることを知らない人たちである。昔ニコン程度の写真機をいじった人間がハッセルに触りシャッター音(パシャでなくバシャ)を聞き虜になり、ニコン等の音と随分と違い静かなスタジオ聞くハッセルのエロチックなシャッター音の虜になったモデルさんも居たと嘘の様な話しである。但カメラについて言えば最終的にはレンズの好みであるような気もする、メーカーにより色の調子、ボケ味等特に報道写真はあくまでもピント優先とか様々であり選択技もそれぞれである。写真の撮り方で面白くはモノクロ写真で如何にシズル感を出せるかが面白さでもある。

このように思うは道楽者なのだ、音楽愛好家であろうとする自分がそれを否定するかのようで、その間にいるような気がしてならない。



しかしここで考えれば全く不合理な話で、筆者等は再度オーディオの道の楽しさを得るためにこの世界に迷い込んでしまった人間であり、只々バッハ全体が良い塩梅で聴こえる装置が欲しく迷い込んだ“道楽”のような気もする。バッハの音楽は器楽、声楽、オーケストラ、パイプオルガンまで全ての音楽が広がり小宇宙が形成されているようです。それを簡便な装置で網羅しようとすれば無理の繰り返しのような気もする。

最近バッハ全集を入手したが、バッハ好きの筆者もやっとバッハ音楽の入り口にたどり着いたような気分である。又これらの音楽をいかに良い方法で再現し、ホール感たっぷりの環境の音の場を作って行くかが楽しみでもあり苦労でもあると思う。

最近国産品の古い真空管等を使用する場合が多い、筆者のオーディオ機材は昔は海外物が多い割合を含めていたが、最近真空管アンプの玉は古い国産品のデトックス品のなるべく新品を選び取付ける場合が多い、ロシア、支那製品も最近の商品は優れた商品が多くなって来たが、価格は古い国産品と変わりなく良い製品があれば国産品を愛用する。



現在使用する真空管の種類は300B、EL34/6CA7、ECC82/12AU7、ECC85/6AQ8、6BM8等はメーカー違いで数セット所有しているがミニ管に関しては、最近までテレビ等に使われ品質も優れた国産品が健闘している、LUX KIT/A-3500のメインは松下製の6CA7を使いサブ管ECC85/6AQ8等は日立製品が相性は良かった、しかしメインのEL34/6CA7を交換すれば音質も微妙に違って来る、勿論同メーカーによっても製品のバラツキで音質は違う場合もある、同じ型番の違うメーカーの管は30本程あるが、メインの真空管を交換で出番が来るかもしれない、このあたりの追求は“道楽”という言葉が適応するようである。
多分この真空管は3年程で集めた品ですが、奥方曰く、無駄なものを買い、これを不用品と言う、死んだらゴミだそうです。私が死んだら全て処分と言う。これも考えものだ!全く猫に小判とは此の事である。

上記に各付はバッハは6曲の「フランス組曲」BWV812-817 (Französische Suiten BWV 812-817)である、バッバの作品したクラヴィーアのための曲集。バッハ自身は「クラヴィーアのための組曲」と名付けており、「フランス組曲」なる命名者は判っていない。おそらく、この組曲が優雅で親しみやすく洗練された音楽になっており、フランス的な感覚が盛りこまれているためにこう呼ばれるようになったものだろう。作曲年代についてもはっきりしていないが、1722年頃と推定されている。それは、バッハが最初の妻と死別後、2度目の妻アンナ・マグダレーナと1721年に結婚し、彼女に最初に贈った曲集「クラヴィーア小曲集」(1722年)に、このフランス組曲の第1~5番の5曲が含まれているという理由からである。

この曲集は、バッハがケーテンで過ごした1722年から1723年頃に作曲されたと考えられており、イギリス組曲やパルティータと比べ比較的演奏は容易であると言われる。イギリス組曲が短調作品が多く、演奏も技術が求められ、峻厳な曲想であるのと好一対をなしている。



この時期、バッハは先妻であるマリア・バルバラ・バッハを亡くし、15歳下のアンア・マグダレーナ・バッハと再婚しているが、創作の意欲も衰えがなく、本作をはじめ多くの鍵盤楽器曲が残されている。

いずれも数曲の舞曲より構成され、アルマンド、クーラント、サラバンドと続き、最後はジーグで締めくくる。これら4つの舞曲は、17世紀後半に確立された鍵盤組曲の古典的定型を成す。バッハは当時の慣習に従い、これらの舞曲がすぐにそれと判るような典型的な音型や語法を曲の冒頭から用いている。

我が家の庭にも春の花が咲き出し、桜開花情報も囁かれる、庭の花木をカットに使ってみました。



アルマンドはフランス語でドイツという意味の語で、4分の4拍子、上拍に始まる。落ち着きを保ちつつ淡々と途切れることなく進む舞曲。クーラントはやや速いテンポの活発な舞曲で、フランス式では2分の3拍子もしくは4分の6拍子、イタリア式では4分の3拍子もしくは8分の3拍子である。サラバンドはスペイン由来の3拍子の舞曲で、連続する2小節をひとまとまりとする。荘重で重々しく進む。ジーグはイギリスを発祥とする軽快で速い舞曲。本来の拍子は8分の3、6、12のいずれかだが、バッハは4分の4で1拍を3連符に分割して記譜することもあった。



舞曲の配列は、バッハの時代にはA-C-S-Gが定型となっていたが、サラバンドとジーグの間にさまざまな「当世風の舞曲」を挿入することが許された。代表的なものに、エール、メヌエット、ガヴォット、ブーレなどがある。エールは、イタリア語で言うアリアのことで、歌謡風の音楽。従って、エールは本来より舞曲ではなく、舞曲による組曲の中にしばしば挿入された器楽曲である。メヌエットは、フランスに生まれ上流社会で流行した優雅で気品漂う舞曲。落ち着いた4分の3拍子で、後にハイドンが交響曲に採用している。なお、通常は見かけの上で二部に分かれ、反復を含めるとメヌエット-トリオ-メヌエット・ダ・カーポの形式になる(中間がトリオと呼ばれるのは、宮廷舞踊において中間部分にオブリガート楽器を用いてトリオ編成にし、響きに変化をつけたことに由来する。鍵盤組曲では必ずしも3声部で書かれているとは限らない)。
ガヴォットは、やはりフランスに生まれ上流社会で流行した明るく快活な舞曲。通常4分の4拍子で、第3拍目から始まる。第5番に現れるブーレはフランス起源、2拍子の軽快な舞曲で、宮廷でとりわけ好んで踊られた。
フランス組曲6曲中、前半3曲が短調、後半3曲が長調で、ひとつの組曲は調的に統一されている。



バッハ :フランス組曲 第5番 BWV 816 ト長調
第5番ト長調の「ガヴォット」の自筆譜(初稿)。

第5番はバッハの組曲創作のひとつの頂点とも言うべき作品である。ほぼすべての楽章で、前半と後半の終結の形が統一される(M.ゲックはこれを「脚韻」と呼んでいる)。そのため、ひとつの楽章の印象が鮮明になり、楽章間の対比が鋭くなる。各楽章が比較的長く、6つの組曲中で最大の規模となっているにも拘らず、少しも冗長さを感じさせない。
冒頭楽章アルマンドはモテットタイプの典型をみせる。声部数は定まらないが充溢感のあるテクスチュアの中で、動機が自由に展開されるようなものをこのように呼ぶ。バッハはプレリュードやファンタジア、またアルマンドでしばしばこうしたタイプのもの書法を用いている。この第5番のアルマンドは声部声部数の増減が激しく、2声のみになる部分も多いが、保続音の効果によって実際の声部数以上の重なりや遠近感が生み出される。
奏者が各動機をどのように扱うかによって演奏効果に大きな違いが現れ、聴くたびに新たな発見や驚きがある、という点で、バッハの鍵盤曲の最高傑作のひとつである。

クーラントはひじょうにテンポの速い、走り回るような躍動感に支配される。音域と保続音が効果的に用いられており、一度聴いただけでも、走句が広がってはまた集まる図形が像を結ぶ。終止音は前半も後半も単音となり、その唐突さがユーモラスですらある。



サラバンドはきわめて表出的なアリアである。3声が厳格に維持されるが、右手高声部のモノローグに中声部と左手声部がゆったりと従う。
第6楽章の挿入舞曲ルールはもと、劇場用の技巧的な舞踊で、ゆったりとしたテンポながら、大回転や複雑なステップを含んでいた。器楽曲でもその特徴を引き継ぎ、シンコペーション、ヘミオラ、8分-4分音符の弱起パターンなどを用いる。第5番第4楽章のガヴォットでもこうした複雑なリズムが随所に登場する。



ジーグもまた組曲終楽章の典型である。休むことなく動き続ける中で、独特のリズムを持つ模倣主題は決して見失われることがない。3声フーガとしては比較的簡明な作りで、全編ほとんど2声テクスチュアを保つが、終結部でにわかに3声部に戻り、最終和音は5つの音が同時に響く。この長大にして優雅な組曲の終わりにふさわしく、壮麗かつ潔い終止である。

ほぼすべての楽章で、前半と後半の終わり方の形がそろえられているので、
ひとつひとつの楽章の印象が鮮明になっていて、楽章と楽章あいだの対比がはっきりと感じられます。
各楽章がほかの作品に比べて長く、6つの組曲の中で最大の規模となっています。それなのに、曲の中に無駄がなく、ながったるく感じさせないのは、さすがバッハ!
また、チェンバロ音楽の中でもいちだんと優雅な作品に思う?クーラント、ジグを除くと、模倣対位法の役割が以前に比べて弱くなっているからなのか、代わって歌うようなメロディックな旋律と、楽器の特徴を生かしたような音楽語法がより前面に出ているように思う。



とりわけバッハの器楽曲を聴くときに感嘆するのは、バッハが一見シンプルな楽想やテーマからあらゆる発展、展開の可能性を見出し、緻密に構築された作品を創り出すことです。しかもけっしてドライではなく、心に響く豊潤な音楽なのです。シンプルかつ優美なテーマを素材に、技巧と工夫を凝らした変奏が繰り広げられさまは、まるで宝物のようです。
道楽的に聴くか、趣味的に聴くかもバッハ探求へのアプローチが変わり面白く思えるのは筆者だけであろうか、ブラボー!