現在筆者の音響機器のエンクロージャーは所謂オールドTANNOYの10i吋同軸2ウェイ(IIILZ Monitor Gold)のユニットにGOODMANS AXIOM 80の箱にアコースティック・レジスタンス・ユニットA.R.U.180を装着した箱に納め試聴している、正直セットしたばかりの頃は、低音が煩く、桶の中で聴く様であり誠に酷い状況であったが、でもオリジナルと比べ低域の音は認識できる様になった事は確かである。
早速改良を始める設置方法、インシュレーター等検討し、勿論箱の点検収音材の検討見直し等も含め随分苦労した、勿論アンプ機器についても色々交換しそれに伴う接続ケーブル、電源ケーブル等の見直し少しずつ改善を重ね現在に至るが、筆者の実施している改善はネット情報によりますと未だ小学生レベル程と紹介されていた。
今やスピーカーケーブルでも片チャンネルだけで10万円程度は序の口と言われるそうであるが、リタイヤ組の筆者にはそこ迄のコストはかけられないのが現状である。勿論RCAケーブルも件案事項である。
アンプはオールドTANNOYを聴くには相性の良いと言われる真空管アンプに交換したが、但し昨年三極管の国産品300Bを入手でき現在使用中ではあるが、この球が実に相性抜群の良い塩梅である。筆者は勝手に思うが確かにオールドTANNOYの音の特徴はそれぞれ鳴らしようには千差万別方法はあるが、ヴァイオリンの音色は他のユニットでは真似の出来ない音を奏でる事が可能である。
オーディオに興味を持ち、当初のステサン誌の記事意外の五味康祐氏の記事が参考になりステサン誌も定期的に読む様になった、筆者が愛読する様になったのは1965年以降と思うは、それ以前のステサン誌及び五味氏の冊子は先輩の本をお借りし読ませていただいた。
記事内容によると(敗戦の衝撃、未だ醒めやらぬ昭和21(1946)年12月、雑誌『創元』第一号に美学評論『モオツアルト』を発表し、日本の知識階級や魂の潤いを求めていた若者に芸術と人生の何たるかを教えた小林秀雄は、女流ヴァイオリニストが大好きであった。小林秀雄は昭和47年春、剣豪作家で音楽とオーディオに狂っていた五味康祐と鎌倉で音楽談義をした。
対談時、ヴァイオリニストっていうのは女が一番いいと思っているんです。女とヴァイオリンっていうもののコンビがいいんです」と気焰をあげている。たまたまテレビでジョコンダ・デ・ヴィートの奏でるメンデルスゾーンを観て、レコードを全部買って来いと家人や弟子に命令したというほどの入れ揚げようである。)デ・ヴィートは35歳のとき、遅咲きの名花として世に出、イタリア最高のヴァイオリニストと謳われた。
以前当時の78回転のレコード版スクラッチノイズは多いが其のレコードからトレースしたジョコンダ・デ・ヴィートCDヘンデル:ヴァイオリンソナタ第4番二長調と当時のマスターテープが見つかりCDプレスしたブラームス:ヴァイオリンソナタ(雨の歌)含む第1番〜3番の発売があり、喜び勇んで聴いたが、音質は程々であったことを記憶するが今回改良したTANNOYで聴くと澄んだヴァイオリンの音色は絶品である、この様な事で今までと違った感覚になるとは、まさにオーデイィオの不思議な醍醐味でもあろう。再度聴き直し寸評したいものである。
ジネット・ヌヴーは15歳の年、ヴィェニャフスキ国際コンクールに参加。下馬評では敵なしと言われた26歳のダヴィード・オイストラフを差し置いて見事に優勝した。そのとき自由曲として選んだのが、お得意のラヴェル《ツィガーヌ》。この作品は後に、兄ジャンのピアノでスタジオ録音しているが、これは子供の産めない男には逆立ちしても敵わない特別の演奏だ。
世界に衝撃を与えたヴァイオリニストの誕生ジネット・ヌヴーは、1919年8月11日、第一次世界大戦の傷がまだ癒えないパリに、5人兄弟の末っ子として生まれた。ヴァイオリンを習いはじめたのは5歳のときだったが、その才能は最初からずば抜けていたようで、はやくも7歳でブルッフの協奏曲を弾いてデビューしている。
その本のお陰により、ジョコンダ・デ・ヴィート、ジネット・ヌヴー、そして男性の演奏者でジノ・フランチェスカッティ、となる3人の演奏者の深さを知る事となった。
特に彼女の名を世界に知らしめたのは、1835年にワルシャワで行なわれたヴィエニャフスキ国際コンクールだった。各国から有望な若き名手たちが大勢参加したこのコンクールで、15歳のジネット・ヌヴーは、2位のダヴィード・オイストラフに大差をつけて優勝したのだ。
話は筆者の音響機材の音であるが、色々変更しながら調整はしては見るが、最近の録音状態の良いソフトは音質も良くはなり、相変わらず昔の録音の再生は低音の被りが耳につき気に入らない事が気になっていた、大好きなWanda Landowskaのチェンバロの音も何故か低域が被り実にバランスが良くない。
しかし最近インシュレーターを改良したSPENDOR SP3/1P、LS3/5aは箱から音が離れた感じに聴こえる様になったので、早速メインの(IIILZ Monitor Gold)のユニットの箱のインシュレーターも改良を施し視聴すると今までのような低域被りも解消された良好な音質に変わった、試しにWanda LandowskaのInvention BWV772を試す、なんという事か見事にエンクロージャーのセンターに定位するのではないかまるでマジックの様であった、音質の改良された為かボリュームを上げても音の抜けが良く爽やかな感じが増した我ながら見事である。
今まで散々苦労を重ね、色々試しては見たのだが、この様な事で簡単に音質変化するとは思いもしませんでした。この際ジャズ系統も試聴するが以前より全体に抜けの良い音になった様に思う、アメリカのカラッとして音ではありませんが。一番の変化はヴォーガルは断然リアルで生々しく聴ける。
確かに筆者はショパンのピアノ曲は好きで良く聴くが、最近購入したファジル・サイ(ピアノ)沈黙を破って登場したオール・ショパンの皆さんご承知のノクターン集を愛聴する。
仕上がりは「きれいにまとめた演奏」とは次元をことにする、胸を焼かれるような憧れと、深い深い沈潜と、激しい情熱がほとばしり出るようなロマンティックでダイナミックな、ファジル・サイにしかなし得ないハイパー・ロマンティックなショパンを聴くことができた。訳があり第20番 ハ短調を繰り返し聴く。以前と比べ確かに澄んだだ無駄な音は無く、それどころかより研ぎ澄まされた音が聴ける様になった。
仕上がりは「きれいにまとめた演奏」とは次元をことにする、胸を焼かれるような憧れと、深い深い沈潜と、激しい情熱がほとばしり出るようなロマンティックでダイナミックな、ファジル・サイにしかなし得ないハイパー・ロマンティックなショパンを聴くことができた。訳があり第20番 ハ短調を繰り返し聴く。以前と比べ確かに澄んだだ無駄な音は無く、それどころかより研ぎ澄まされた音が聴ける様になった。
ファジル・サイ(ピアノ)ショパン:ノクターン「夜想曲」集
ノクターン第20番 嬰ハ短調 遺作
【演奏】
ファジル・サイ(ピアノ)
【録音】
2016年3月 ザルツブルク、モーツァルテウム 大ホール
【演奏】
ファジル・サイ(ピアノ)
【録音】
2016年3月 ザルツブルク、モーツァルテウム 大ホール
フレデリック・ショパン(1810-1849 Chopin, Frederic)は、フランス人の父ミコワイ・ショパンとポーランド人の母ユスティナ・クシジャノフスカの間に1810年3月1日に生まれた。父は16歳のときにポーランドに渡り、スカルベック伯爵の家庭教師などをつとめる。
同家で小間使いをしていた同伯爵家の遠縁にあたるクシジャノフスカと知り合い、二人は1806年に結婚する。ショパンの兄弟では、3歳年上の姉ルドヴィカのほかに、妹イザベラ(1811年生)、エミリア(1813年生)がいる。姉ルドヴィカとは強い絆で結ばれ、彼女はショパンの死を見取った。
フレデリック・フランソワ・ショパンは、ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるようになった。
夜想曲第20番 嬰ハ短調 KK. IVa-16「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」(遺作)は、フレデリック・ショパンが1830年の春に作曲し、没後の1875年1月5日に出版されたピアノ独奏曲。正式な献呈はないが、姉のルドヴィカ・ショパンがピアノ協奏曲第2番を練習する時のための曲として書かれた。
初版では「アダージョ」という標題がついていたが、ブラームスがこの曲を写譜する際にこの標題を消してしまった。残った速度記号の「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ(Lento con gran espressione)」のみが残り、これが標題として知られるようになった。また現在では夜想曲として知られるが、これはルドヴィカがショパンの未出版作品のカタログを作った際に「夜想曲風のレント(Lento w rodzaju Nokturna)」と記したことによる。ショパン:ノクターン集
「ノクターン」という呼び名は、邦語では「夜想曲」と訳されるように、「夜を想う曲」というのが語源にもある ようです。
この曲を作曲した当時、ショパンには、 コンスタンツィア・グラドコフスカという片想いの女性がいましたが、この作品にもそのような一途な片想いに 悩み苦しむショパンの姿が影を落としています。この曲の初版には「姉のルドヴィカが私のピアノ協奏曲第2番の練習の前に弾くために」と 書かれていたようです。 曲については、 同じ音型を繰り返す4小節の序奏の後、嬰ハ短調で悲痛で孤独なモノローグが奏でられますが、この旋律は一瞬にして 聴く人を捕らえます。とくに15小節目の3連符の下降音型は、静かな叫び声といった趣で聴く人に強く訴え、胸が痛みます。 曲の至るところに、作曲当時のショパンの決して幸せではなかった青春時代、片想いの苦しみといったものが 感じられ、聴くたびに目頭が熱くなる作品です。
ショパンの数ある作品の中では、最近では認知度ナンバーワンかもしれません。
映画「戦場のピアニスト」ではこの音楽象徴的に使われましたし、最近では平原綾香が「風のガーデン」の主題歌として取り上げています。
上のピアノはショパンが使用した楽器だそうです。この様に紹介されていました(作曲家ショパンの死後、このピアノは150年以上の間、その存在を忘れられていた。イギリスのサリー伯爵領 ( Surry ) に住む収集家のもとでこのグランドピアノを発見したのは、スイスの音楽教授ジャン・ジャック・エーゲルディンゲル氏だ。決め手となったのはピアノに記された通し番号だった。)
ジネット・ヌヴー(Ginette Neveu)の演奏を聴き納得したCDです、1949年6月10日 、ハーグでのライヴ。ヌヴーはブラームスのヴァイオリン協奏曲を看板楽曲にしていて、僅かCD7枚分しかない彼女の録音遺産の中で、4種の録音を残しました。これはその最後の録音記録であり、「弾くたびに良くなってゆきたい」と願っていた彼女の同曲べスト演奏となりました。若き日のドラティの気魄のこもった、かつ冷静な視座も併せ持った指揮も見事です。
注意事項は「放送用のアセテート盤からの復刻で、若干のスクラッチ・ノイズが伴いますが、音自体は極めて鮮明です。」ジネット・ヌヴー生誕100年&没後70年記念盤を購入したがやはり低音が被り気味だは合ったが。
コピーでは「この音質の良さには思わず興奮!気迫と情熱、凛とした弾きぶりには思わず震撼、身ぶるい!伝説の名演(ブラームスの協奏曲49年盤)がかつてないほど極上の音質で蘇る!」と煽った文言が掲載されていた。
《CD3》
1) ラヴェル:ツィガーヌ
2) ラヴェル:ハバネラ形式の小品
3) スカルラテスク:バガテル
4) ファリャ(クライスラー編):歌劇『はかなき人生』~スペイン舞曲
5) ショパン(ロディオノフ編):夜想曲第20番嬰ハ短調
6) ディニーク(ハイフェッツ編):ホラ・スタッカート
7-10) スーク:4つの小品Op.17
11-13) ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ ト短調
[共演]
ジャン・ヌヴー(ピアノ)
[録音]
1946年3月26日&8月13日(1)、1946年3月12日(2, 3, 4)、
1946年8月13日(5, 6)、1946年8月14日(7-10),
1948年3月18日(11-13)、
ロンドン、アビイ・ロード・スタジオ
ここでは筆者の好きな曲を修復後のTANNOYで聴いた、どうであろうか?
第1楽章から、猛烈な気迫が聴く者の心を揺さぶります。吸引力の強さは無類です。ヌヴーのソロの音、凛とした弾きぶり、ストラディヴァリウスの艶やかな音がしっかり捉えられいます。ヴァイオリン・ソナタで演奏を聴くのは初めてであるが、全く古さは感じなく最高の作品に仕上がった演奏である。
この様な記事が掲載されています。
"不世出の天才ヴァイオリニスト"ジネット・ヌヴー。1919年8月11日パリ生まれ。1949年10月28日、アメリカ演奏旅行のためパリから飛び立った飛行機がポルトガル領アゾーレス諸島(大西洋上)中のサン・ミゲル島に墜落、まだ30歳の若さで命を絶ってしまいました。遺された録音は数少なく、どれもが本当に貴重。
従来盤には、世界初発売したキング・セブンシーズのKICC-2182(91年発売、ミュージック・アンド・アーツ原盤、廃盤)、ミュージック・アンド・アーツのCD-837(94年発売)、DanteのLYS389-392(98年発売、廃盤)等がありました。今回の音源はEPITAGRAPH(エピタグラフ)が知人を経由してオランダの放送局のアーカイヴから入手したもの。記録・保存用のアセテート・ディスクから復刻、デジタル・トランスファーした音源です。スクラッチ・ノイズこそありますが、高域を損なわないように過度なノイズ・リダクションはしていないため、臨場感は抜群。第1楽章のあと、聴衆の拍手が起き、その後軽くチューニングしています。YouTube配信音声です。
12.Nocturne No. 20 in C-Sharp Minor, Op. posth. (arr. K. Rodionov for violin and piano)
編曲 : コンスタンティン・ロディオノフ - Konstantin Rodionov
ジネット・ヌヴー - Ginette Neveu (ヴァイオリン)
ジャン・ヌヴー - Jean Neveu (ピアノ)
1946年8月13日(5, 6)のショパン(ロディオノフ編):夜想曲第20番嬰ハ短調のピアノ共演のジャン・ヌヴーを聴く、冒頭からピアノ演奏が始まり主題のジネット・ヌヴーのヴァイオリンが鳴り出す、実に美しい綺麗な旋律である4枚目のCDにも同曲が録音されているが、共演がブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラーになっている、録音:1938年4月13日とされていた。
まさに望んでいたタンノイの怪しい様なそれでいて透き通った涼やかなヴァイオリンの音色の響きがやっと聴けたのです。
確かにヴァイオリンの音が聴けた、ヌヴー音が聴けたのである。その後曲も終わり、闇静寂が漂い余韻い酔い空白の時間が過ぎていく。今までずっとこの音を望んでいた音なのであろうかと・・・。
5度目の訪米を控えた1949年早春、彼女はスペア楽器の必要性を感じ、楽器商マルセル・ヴァトロでJ・B・グァダニーニを購入しました。グァダニーニはオモボノ・ストラディヴァリウスとともにワニ皮カバーが付いている頑丈な二重ケースに収められました。
彼女の楽器についての伝説に「ストラディヴァリウスは破壊されずに生き残った」というのがあります。海外盤の初期LPにある記述を訳したものですが、彼女が持っていたのは、前述した通り有名な「アントニオ・ストラディヴァリウス」ではなく、その息子の「オモボノ・ストラディヴァリウス」でした。また、彼女の遺品を確認した楽器商ヴァトロの2代目、エティエンヌ・ヴァトロ(1925~2013)の証言によれば、事故後、エール・フランスの調査官が発見したのは二重ケースと2本の弓だけでした。エティエンヌは事故から33年後の1982年6月30日、フランスのTV局アンテンヌ2の番組で以下のように証言しています。
もっと沢山の作品を味わって見たかったヴァイオリニストである、ブラボー!
敗戦の衝撃、未だ醒めやらぬ昭和21(1946)年12月、雑誌『創元』第一号に美学評論『モオツアルト』を発表し、日本の知識階級や魂の潤いを求めていた若者に芸術と人生の何たるかを教えた小林秀雄は、女流ヴァイオリニストが大好きであった。小林秀雄は昭和47年春、剣豪作家で音楽とオーディオに狂っていた五味康祐と鎌倉で音楽談義をした。
席上、「私はね、皆なんだかんだって言うけれどね、ヴァイオリニストっていうのは女が一番いいと思っているんです。女とヴァイオリンっていうもののコンビがいいんです」と気焰をあげている。