伝統ある英国のTANNOY IIILZで聴く、音楽の父J.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

千葉の水郷佐倉の鰻を食べに・・・思うに日本は昔から海洋国であった、日本のルーツを考察する。

2023年03月11日 | 歴史(世界史/日本史)の考察


筆者の住む街の公園にも河津桜があり、河津桜とは静岡県賀茂郡河津町で毎年3月上旬に満開になるピンク色の桜です、意外と開花時期は早く、期間も長く楽しみが続きますが愈々散り始めた様である。

先日大阪に住む娘が遊びに自宅に立ち寄る、最近三月頃の体感気温で暖かく、皆でジュニアの厄年の御礼参りも兼ね、ドライブと美味しい物でも食べに行こうと出掛ける。以前行った笠森神社に同行した、帰りがけに少し大回りして水郷の街の利根川の美味しい鰻ランチを食べに寄り道をした。


笠森寺は、延暦3年(784年)最澄の開創で、坂東三十三霊場の第三十一番札所に数えられている。観音堂は後一条天皇の勅願で長元元年(1028年)に建立されたと伝えられていたが、昭和35年(1960年)の修理に伴う調査の結果、天正、文禄などの墨書銘が発見され、現在の建物の建立は伝統的な木造建築方法の桃山時代であることが判明したと言われている。

笠森寺の山門手前の崖の上に三基の句碑が並んで建立されている。中央の句碑が芭蕉句碑であり『五月雨に此笠森をさしもぐさ』左右にはそれぞれ各務支考、渡辺雲裏の『片枝に脈や通ひて梅の花』『すへられて尻の落着く瓢かな』の句碑が芭蕉句碑を守るかのように並んでいる。


レイライン春分の日と秋分の日に、太陽が通る道。北緯約35度23分を結ぶ直線上には、地理的な名所、歴史的な建造物が立ち並ぶ。
太陽が昇る東は、千葉県の玉前神社から、西は島根県出雲大社までを結ぶ線は、御来光の道として知られ神秘的なパワーをもらたすと言われています。

山門には正面左右には風神・雷神があるが一方は口を開きもう一方は閉じているので阿吽の仁王像をさすのだととも言われる。


お札参りに帰りに近くに有名な(怪しい寺があり)ちょいと覗いてみる。

千葉県長生郡長南町にある「長福寿寺」は“日本一の”金運寺“日本一宝くじが当たる”と名高いお寺のようです。 その篤いご利益から各メディアで頻繁に取り上げられるほど! そのご利益の所以は「人々を幸せにするためにやってきた」という伝説をもつ象・吉ゾウくんによるものなのですが、吉ゾウくんとは一体どんな石象なのか?

境内の両側に像の石像がありこの像が吉ゾウくんで説明がありお参りすると金運に預かると言われているそうです。



筆者が一番驚いた光景は像の石像の前で真剣にお参りする姿を見たからである、宝くじの当選には興味はあるが、どこか当たらないと思う自分が入ることで、真剣に当たる事を願う人に何故か驚きを覚えた。

勿論、出来れば宝くじでも当たり余裕があればオーディオ装置も最終的に完成したいので一千万ほどが当たれば良いイコライザー付きのマニュアルプレイヤーシステムEMT930stの程度の良いプレイヤーとか、WEのトランスを組み込む真空管アンプが欲しいのですが?未だまだ物欲欲望があり思うは当分元気で暮らせそうである。

簡単に拝観し場所は少し離れるが美味しいランチを求めひた走る。香取神社等東国三社巡りの途中で寄る方も多く。日本地図の編纂で有名な伊能忠敬の出身地でもある、小江戸佐原にある老舗鰻店『うなぎ割烹山田』に向かう。

この鰻調理は、新鮮な鰻を割く、そして炭で焼く、蒸す、其れからタレを付け炙り炊き立ての米の上に鰻を乗せムラシを入れた状態で配膳の運びとなる、筆者は調理人ではないので詳しくは知らないのですが、この様な手の込んだ仕事は日本文化の象徴でもあろう、支那料理も西洋料理もこの様な手の込んだ調理方法は珍しい方法だとも思う、又付けタレも昔からの秘蔵のタレを継ぎ足して使い次の世代に受け継ぎ伝統を継承する文化は日本の歴史を感じて止まない。



いつも別館に行くのだが生憎木曜は定休日で本店は初めて尋ねた。2時迄に受付すればランチタイムで食べられますとの案内早速受付を。20分程で携帯電話が鳴った。店からの呼び出しである。
お店からの鰻を焼く匂いがたまらなく食欲をそそり、上じか重(ご飯の上に鰻が載る一般的な鰻重)、を注文した。肉厚で表面はカリカリに香ばしく焼かれていて脂がのった身肉はふっくらしていてとても美味しかった。ご飯も炊きたてタレの味も大変よく鰻と相性も良い。通常でもかなり盛りがよいのでジュニアは大盛りにした為相当な量になったが、勿論それでも見事に完食した。
鰻も肉厚で絶品でボリューム満点です、珍しく娘も完食した、鰻はやはり関東風が一番美味い。



上鰻丼と写真が上じか重。うなぎ割烹山田の鰻は箱蒸しという技法を用いていて余熱で軽めに蒸すことで旨味を損なわないように下準備した蒲焼きを備長炭でじっくり焼いていることにより独特の香ばしく肉厚ふっくら感がある鰻に仕上げることが出来ているのだそうです。それにこのかえしダレの深い旨味が絶品。

お店が火事に遭った時もこのタレだけは大切に抱えて無事だったそうです。その他にも鰻屋はあるそうで鰻文化は古い様である。



食後大正末期創業、地元の味醂を使って作る佃煮屋 麻兆を覗く、近くの古くから水郷の町として栄えたこの町には多くの老舗が残っています。
すずめ焼とは佐原の地域の様々なお店で販売されている佃煮の一種で、はぜ、小鮒等の小魚を串に刺したもの。姿が小枝に止まっているすずめに似ているから、や、お殿様がすずめを焼いたものと勘違いしたから、等様々な説があります。

思えばこの様な調理方法は実に手間、暇がかかり例えばハゼを釣り、内臓を出し炭火で焼き、それを天日干しして、その後煮込んで味付けをする調理である。またアサリも有名であるが生のアサリの身をを取り出し、作る方法と茹でて身をとり出し作る方法では仕上がりの味にに雲泥の差がつくのである。

娘の土産も購入し、自宅用のお酒のお供ににも購入した。筆者は勿論ハゼを注文した、後はアサリが美味しそうであった。此の地域の「わかさぎ」も注文した。
後日、炊き立ての白飯と味噌汁にすずめ焼きで食べる米の飯の旨さを味わう楽しみは格別で日本人として生まれた喜びを噛みしめる、楽しみでもある。



確かにこの辺り関東近県は江戸を中心にしての運河、河川を利用した交通網が昔から栄えており、海運業は荷物運送には無くてはならない常套手段であり、ここから利根川沿いに銚子港に出て江戸に物を運び栄えたわけであり考えれば昔の日本は想像を超える海運大国であったのであろう。勿論河川から河川に繋ぐ運河も多く工事した様である、そのような事を思い帰路に着いた。

今回は久しぶりに日本史について考えてみようではないか。筆者日出身は東三河地区で関東の江戸幕府以前お歴史ついては知らない事柄が多いのですが・・・色々日本の歴史を紐解くと、想像以上に水との関わり合いが強い、昔から海洋国であり交通機関も海。河川を利用して生活していた事も理解できる。

日本の石器時代については旧石器時代は、「打製石器」というものを使用して、狩猟や漁労、採集などを行っていた時代のこと。洞窟や小さなテント式の小屋を作って移住生活をしていたそうです。旧石器時代は200万年前に始まったそう。ホモ属(ヒト属)が誕生したころでしょうか。
地質学的には、約258万年~1万年前までを更新世と呼びます。氷河期とも被っています。氷河期は、氷期(めっちゃ寒い時期)と間氷期(比較的暖かい時期)を繰り返していて、氷期に氷が増えると海水面が下がります。

最近見つけた戦国時代の尾張地方の地図であるが戦国時代は埋立作業もなく湿地帯が多く海水面は多く残っていたそうである、桶狭間の戦いの頃の地図であり、熱田、大高、小牧などは海沿いであり海運だ栄え城を築き町を繁盛させたのはいまの交通網とは違い海運の交通網はかなり綿密であったのであろう。大高(おおたか)等は遠州地方からの大量の荷物を引き取った港でもあったのであろうと思える、古地図によって合点の行く話になろう。
今川方が東三河を制圧したのも田原の港、幡豆港等を制圧し西三河、と続き尾張港を制圧して行った海の制圧も十分考えられる。



話を戻し氷期はそのおかげで、日本とユーラシア大陸は陸続きになっていました。この時期に、北からマンモスとヘラジカ、南からナウマン象やオオツノジカが上陸したそうです。それを追いかけて、ご先祖様たちはやってきたのかもしれません。また、現在は「もう氷河期は終わった!」という考え方と、「いや、今は暖かい間氷期なんだ!」という考え方があるそう。

そして此処で発見された「岩宿遺跡」(いわじゅくいせき:群馬県みどり市)は、1946年(昭和21年)に発見された旧石器時代の遺跡です。 現代では、日本における旧石器時代は約40,000年前から15,000年ほど前までとされていまが、岩宿遺跡が発見された当時、日本に旧石器時代は存在しないというのが一般的な学説でした。
兎に角文明は支那から日本に伝わったとされる事が多く、現在日本人のDNAと朝鮮、中国とは全く違っていることが確認されているそうですが、DNAの研究も新しいテクノロジーは解明されれば違う歴史も解るのかもせれない。日本の土壌は弱酸性で人骨は溶けて無くなり証明は難しいとされている。これは歴史というよりむしろサイエンスと思考することが正しい考えである。

新たな考え方は、ジャワ原人のように日本原人が居たのかも知れないと思うは夢であろうか?そう言う考えに歴史を考えると何故か辻褄が妙に合うと思うは筆者だけであろうか?
旧石器時代の遺跡の発掘から文化は支那から来たという歴史は違うのかも知れない?氷河時代アフリカから陸路を渡った原始人達の移動は無理があり、海を渡った説が濃厚になる。



岩宿遺跡とは第2次世界大戦の頃までの考古学者は、発掘を進めて赤土(関東ローム層)が出るとそれを「地山」と呼び、それ以上掘ることはありませんでした。土器を使っていた縄文時代(世界史では新石器時代にあたる)の人々が日本の最初の住人だと考えていたからです。この考古学・日本史の常識を覆し、日本にも世界史でいう旧石器時代段階に人々が生活していたことをはじめて明らかにしたのが、岩宿遺跡です。
此処で素人の遺跡好きの人が発見する岩宿遺跡は、昭和21(1945年)に相澤忠洋(あいざわただひろ)氏により発見されました。昭和24(1949年)・25(1950年)に、その後頑張った明治大学考古学研究室による発掘調査により「日本列島に旧石器時代には人類が住んでいない」とされていたそれまでの学説をくつがえした遺跡として脚光を浴びました。日本最古の人類の歴史は数千年前の縄文時代から一挙に数万年前まで遡り、戦後の日本考古学の重要な出発点の1つとなりました。日本の旧石器時代を「岩宿時代」と呼ぶ研究者もいます。
日本歴史の黎明期のあり方を知る上で不可欠の遺跡である」ことから学術研究上も重要な場として国の史跡に指定されました。



当時は研究者の間では決して旧石器時代の石器は日本には無かったと言われたが、磨製石器の発掘東ローム層黒土(表土)の下にあり、火山灰などが降り積もってできた1万年以上前の赤土、相沢忠洋(あいざわただひろ)1929年生-1989年没。独学で考古学を学び、納豆の行商などをしながら赤城山麓の遺跡を調査し、岩宿遺跡を発見した。主に刃の部分を磨いた石斧。旧石器時代には磨製石器は存在しないといわれていたが、日本の後期旧石器時代初頭にはこの石器が特徴的に存在する。切り出しナイフに似た形の石器、後期旧石器時代後半期の初めに特徴的にみられる。
また実に面白き発掘は、神津島で最高の黒曜石が取れる場所そして世界最古の記録を持つ場所です。恩馳島(おんばせじま)は、神津島の前浜から見える離れ小島で、天候によって神津島からの距離感や見え方が変わる不思議な島です。
周囲はいつも白波が立っているような岩礁地帯で、かなり凪いでいる日でないと船で近づくことも容易ではない離れ小島です。最近は釣り人の穴場としても人気があり訪れる釣り人も多い島となっている様です。

先人達の冒険力と探検力は素晴らしい物があります、自由を目指より豊かな生活力を求める希望に満ち溢れていたのであろう。



一番興味深いことは、この時代に遠方の神津島のゆるキャラのモチーフにもなっている天然記念物「カンムリウミスズメ」の数少ない営巣地の一つでもあり、黒潮の影響による魚影の濃さで「釣り人の聖地」とも称される、いろいろてんこ盛りな濃い島です。
関東圏の黒曜石産地は、神津島だけではなく長野の霧ケ峰周辺や箱根、少し遠いですが福島の高原山など、幾つか存在します。しかも、長野の黒曜石などはとても質が高く、埋蔵量も多く、石器としての利用に十分適うものです。
そんな産地が比較的近くあるにもかかわらず、わざわざ命の危険を冒して海を渡り(山もいくらか危険があったとは思いますが)、神津島の黒曜石を大量に持ち出していたのかの疑問・・・?
最初はただ質の良さで利用されていたのが、それが時が経つにつれて、神津島、恩馳島、もしかしたら黒曜石自体を対象とした信仰へと変わっていったゆえ、その信仰を表現するために命がけで島に渡り黒曜石を採集していたのかもしれません。これは色々な理由で)比較的可能性が高いと考えています。しかも、現在でも恩馳島には「恩馳神社」という神社が存在し、毎年ではないそうですが神事も執り行われています。これは過去にあった恩馳島への信仰が神社という形で残ったものではないか、と考えています。そこで海運業は相当発達したと思われる所以である。



上記写真の様な黒曜石は実にキレイな波紋みたいな割れ口(貝殻状断面という)が、恩馳島で採れる黒曜石の特徴は質の良い物が多く珍重された。この恩馳島の黒曜石は石器の原料として用いていた古代人も理解していたようで、特に縄文時代においては、この黒曜石が大量に(それもたぶんトン単位で!)海上輸送によって本土に持ち出され利用されていたことが分かっています。
磨製石器の日本では磨製石器営業、磨製石器製作工場、海運業、陸上運送業等仕事分担が出来上がり充実した生活を長い間平和に暮らしていた様である。
何故なら人間を殺戮する磨製石器は出土しては無く日本独自の温和な時代が長く続いたと想像できる。



この文書を読んだ時に思ったことは人類アフリカ発祥説の他にも日本発祥生もありかも知れないと思ったことでした。磨製石器で巨大な丸太船を作り横に並べ安定させ航海術を所得していたのではあるまいか?
ある程度南の島に次々に島を渡りフィリピンまで行くのも想定内であろうと想像できる、また弥生式時代の米も支那種とは違い日本は水田利用の亜熱帯で採れる米であり伝承ルートは支那では無く今までとは違うことが想像できる。

神津島(コウヅシマ)から伊豆半島との位置関係を示す現代の地図である。これから論じたい黒曜石と海の道に対する私的イメージを赤の点線で描いてみた。
この様な資料を集め想像し探索することも全く愉快である。
当時の旧石器人は道を構築するという概念は無く、土地を所有するという概念も無く、結婚という概念も無かった。ただ自然界に現存する獣や魚や植物を採取して食べて行き、本能的に親子関係を大切にし子孫を作り育てることに専念していたに違いない。



ただ彼らが初めて神津島の黒曜石を知ってからは、その島の持つ他に類例のない地理的存在観念と黒曜石採取欲を強く感じた瞬間だったかも知れない。海を渡って如何に安全確実に黒曜石を運んだらよいか明確な目的意識が湧き、比較的安全な河口や海の浅瀬で試行錯誤を重ね、当時の採取可能で加工可能の材料で海に浮き移動可能な物体を作るため、おそらく気の遠くなるほどの年月を重ねて黒曜石を手に入れる渡航術を身に付けたものと想像される。複数人の共同作業には当然言語の発達も進んでいった。



神津島から旧石器人が採取した黒曜石(コクヨウセキ)がどのようにして運ばれたのか、神津島近辺で黒曜石が現在確認されているのは利島(トシマ)と伊豆の河津(カワヅ)(段間ダンマ遺跡)と伊豆大島の三か所である。利島は古代よりミツケノ島(見付けの島)とかアズケノ島(預けの島)とか呼ばれており、海上から見るに円錐状のシンボリックな形状で海の民にとって分かり易い目印だったに違いない。

また、利島の遺跡から45kg黒曜石が発掘されており黒曜石搬送の中継基地的役割をしていたのではと推察される。(かなり後世のこととなるが大量の和鏡も発見されておりアズケノ島と呼称されて来た)一方、静岡県賀茂郡河津町見高の段間遺跡(ダンマイセキ)からは250kg以上の神津島の黒曜石が発見されていることから河津が本土側の集積地だったと推定されている。

神津島から河津まで直線距離約60kmだが、立ち寄ったかどうかは別にして現在では神津島から式根島まで約10km、式根島から新島まで約3.5km、新島から利島まで約10km、利島から河津まで約33kmとなる。つまり、島伝いを通過することにより安心が得られ、万が一の備えとして危険が生じたら島に避難したと考えられる。また、殆どの地図に載せられていないが、釣りが好きな人には知られるこの海域に海上に顔を出す岩礁も多く、海退の生じた太古ではもっと多くの岩礁があったかも知れない。



なお、伊豆大島の縄文時代中期の遺跡から神津島の黒曜石が確認されているので、旧石器人の子孫は渡航船体の構造進化に相俟って渡航技術を磨きつつ、相模湾横断も達成した可能性も高く赤の点線にて推定航路を記入した。その後、彼らの子孫は日本各地・世界に輪(倭・和)を広げて行ったと思われる。

残念ながら、今から1万年以上前の伊豆半島南東の島々の形状や海の様子に対し科学的研究がされていないが、原始宗教神話の源流の地でもあり海彦の生活の場でもある。当時山彦達(内陸)の羨望の的・黒曜石を生む宝島でもある当該エリアの考古調査解明が切望される。
鉋もノミも無い時代に磨製石器での舟の建造技術は相当難しい方法であろう、現在と比べ当時が相当未来が面白かったようにも思えます。



上写真はグーグルマップの写真版ですが日本の南の島、伊豆半島南東の島々から島と渡続けばグアム島まは意外と簡単に辿り着くであろう。それからパラオ辺りは簡単に航海していたのであろう、赤線で示した様に島々を渡り海洋生活集団も考えられる話でもあり、これも磨製石器時代の頃の話である。

ただし、最も知りたい当時の舟ないしは筏の構造を知り得る木・竹・草・皮などの遺品に遭遇することは繊維質は腐り易いことから見つけ出すことは極めて困難だと憂慮される。ただし、磨製石斧をはじめとする石器など間接証拠が見つかればと期待している。最近の風潮として、南方の民族が黒潮ルートに乗り日本列島にやって来て日本古来の旧石器人と交わり倭人を構成したとの説をWebサイトで散見される。もともと舟の操れる民族だから神津島の黒曜石を発見し運べるのは当然の帰結であると短絡して論ずることに私は否定的立場をとりたい。

なぜなら最近の遺伝子研究において日本人の遺伝子が南方系住人のそれとは異なることが証明されているからである。彼らは土器や言語の類似を主張しているようだが、3万5000年前に海で囲まれた日本列島において渡海技術を有する海洋文化が萌芽し、1万年以上に亘り渡航術を発展させ縄文時代の早い時期にロシアアムール川、壱岐、竹島、朝鮮半島、沖縄、中国沿岸部、台湾、フィリピン、東南アジア方面に足をのばして行き、私的交易や情報交換をしていた可能性が高いからだ。日本の土壌の特筆として弱酸性の土地のため人骨は溶けて無くなる弱点があるが貝塚等の貝殻があれば弱アルカリ性の土壌に変化し、五万年前の貝塚から人骨が見つかれば日本原人も成立可能となり新しい発見となるのである。
今後も新しい科学と共に太古の時代が解き明かされる日本の歴史の事実は実は大変楽しみでもある。ブラボー!