よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

サタデーウォーク「七寺川から野外センターを巡る」(福岡市西区)

2024-05-25 18:17:31 | ふくおかウォーキング協会

5/18(土)ふくおかウォーキング協会のサタデーウォークは、「七寺川から野外センターを巡る」でした。

集合場所は、JR筑肥線今宿駅。参加者は、32名。

 

9:30 スタート

 

七寺川は今宿野外センターの方から長垂海岸の方に流れる川です。

俗に鯰川(なまずかわ)とも呼ばれ、地元の方にはその方が親しみやすいかもしれません。七寺川は河口近くの鯰川橋のところでもう1つの川と合流しますが、実は七寺川と

合流するこの小さな川が鯰川なのです。しかし、昔から七寺川全体を鯰川と思っている人も多いようです。

七寺川は高祖山、高地、叶ヶ嶽などいわゆる高祖山系を源流にもつ2級河川で、野外センター付近の2本の川がこの川の源となっています。

この七寺川の名前の由来は、今宿、上ノ原にある鉢伏山金剛寺が持っていた7つの子院(寺)から名付けられたとされています。

川の名の由来になった寺の名前については、諸説あります。「筑前国続風土記付録」の中の怡土群上原村の項に記されているのは、帰来寺・寿福寺・東光寺・常楽寺・寶憧寺(ほうとうじ)・金さん寺・長福寺の7つの寺です。この他にも、周船寺にある龍松寺なども名前があがっていますがはっきりしません。

風土記の中にある寺で現在、今宿に残っているのは常楽寺と金さん寺のふたつだけです。寿福寺は今津、東光寺は姪浜へそれぞれ移転し、長福寺は順光寺と改名しました。

残りの寺の消息は不明です。(今宿タイムスより)

 

今宿青木公園で休憩

 

ここから上り坂です。

約1時間で今宿野外センターに到着。

 

今宿野外センターは、これから夏休みにかけ子供たちのキャンプなどで賑わいます。また、高祖山の登山縦走コースでもあります。

 

 

休憩後再スタート

 

 

 

今日の目玉は、江戸時代前期「農業全書」を出版した「宮崎安貞書斎」訪問です。

安貞は、安芸国(現:広島市)の出身でしたが、25歳頃から福岡藩に仕えることになりました。28歳のとき、藩から京都に遊学するよう命を受け、そこで農業に詳しい儒学者の貝原益軒と

出会います。益軒から農業について学んだことがきっかけで、その後は自ら希望して農業に従事することを決めました。

やがて安貞は、大蔵永常(おおくら・ながつね)、佐藤信淵(さとう・のぶひろ)とともに江戸時代の三大農学者と呼ばれるまでになりました。安貞は農耕のかたわら農業技術の改良に努め、全国各地を回って経験豊富な老農からノウハウの聞き取り調査を行いました。

安貞は研究熱心な人でしたが、学問だけに没頭せず、農民たちと共に開墾したり作業したりしました。その合間に中国の農業書を読みあさり、時間を見つけては日本全国を回り、話を聞いてまとめることを繰り返しました。これらの背景には、師である益軒が社会のためになる学問を目指していたことが影響しているのではないかと考えられます。

そして、40年にわたるこの作業をまとめあげたのが『農業全書』だったのです。『農業全書』を刊行した年の7月、宮崎安貞は75歳で亡くなりました。

長年の農業への思いを遂げて往生したと言えるのではないでしょうか。(マイナビ農業より)

 

ちょうど西区歴史探訪の一行が訪れていましたので、一行が帰った後、宮崎安貞書斎管理人の三島氏に安貞のことを説明していただきました。

 

 

宮崎安貞書斎からゴールの九大学研都市に向かいます。

 

12:04 九大学研都市駅にゴールしました。

 

今日のGPS

今日は午後2時よりみずほPAYPAYドームでプロ野球のチケットをゲットしていましたので九大学研都市駅から直行しました。

ピンクユニフォームデーということで球場内は、ピンクに染まりました。

 

 

 

 


楽しいウォーク「アイランドシティから海の中道へ」(福岡市東区)

2024-05-24 06:48:09 | ふくおかウォーキング協会

5/15(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「アイランドシティから海の中道へ」でした。

集合場所は、JR香椎駅。参加者40名。

9:30スタート

 

 

アイランドシティ中央公園で休憩

 

休憩後再スタート

 

 

歩いていると「The358」というホテルがあります。358ってどういう意味なんだろうと調べてみると、三世代で楽しむ・五感を刺激する・八方を見渡せるという意味だそうです。

一回泊まってみたいですね。

青果市場で休憩。

 

休憩後再スタートします。

海の中道大橋を通り雁の巣レクリエーションセンターへ。

 

海の中道大橋を渡ると雁の巣レクリエーションセンターです。

ここでは、10月に福岡県ねんりん文化祭ウォークを開催します。当協会が幹事です。

  

雁の巣からゴール地海の中道駅に向かいます。

 

ここからゴールまでは、長い一本道。

 

12:23 海の中道駅にゴールしました。

 

今日のGPSです。

 

 

 

 


5月例会「市内公園新緑を巡る」(福岡市東区~博多区~中央区)

2024-05-17 15:13:03 | ふくおかウォーキング協会

5/11(土)ふくおかウォーキング協会6月例会は、「市内公園新緑を巡る」でした。

この時期、木々の新緑が眩しいです。5月例会は、市内中心部の公園の新緑を巡ろうというもの。

集合場所は、JR吉塚駅、参加者44人。

9:30 スタート

 

東公園へ

 

 

博多川  中州は、この博多川と那珂川の間に出来た三角州です。

3月末で閉館した「大洋映劇」は、解体中でした。

 

一蘭本店は、もう行列ができています。

 

福博であい橋

橋を渡るとまた行列・・・・明太フランスが美味しいと評判のパン屋さんでした。

 

天神中央公園

 

天神交差点

 

舞鶴公園

 

舞鶴公園の万葉歌碑

“今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松かげに ひぐらし鳴きぬ”

今はもうすっかり秋になってしまったようだ。山松の陰でヒグラシが鳴いているのだから

天平8年(736)に新羅の国に派遣された外交使節が筑紫館(鴻臚館)で故郷の大和を偲んで詠んだ歌です。秋には帰ってくるからと家族に約束して出発したのに、新羅に渡るどころか、

ようやく筑紫館(鴻臚館)に着いたところで秋になってしまい、故郷に戻れない悲痛な気持ちを詠んだものです。

 

1月にイベントを行った舞鶴公園三ノ丸広場は、グリーンのイベントが行われていました。

 

福岡城址潮見櫓は工事中

福岡城は、1601年(慶長6)から7年かけて築城された。かつて47以上の櫓があったとされるが、陸軍の駐屯地として利用され、その大半が失われた。

潮見櫓は、1909年(明治42)に崇福寺に移築され仏殿として活用されていた。工事は今年2月より始まり、古材の4割ほどを再利用し、長さや強度が足りない場合新しい木材で

補修する「繕い」という作業を行います。今後は、築城当時の工法で整備していき、25年春の完成をm見込んでいます。

 

西公園へ

 

 

西公園展望台近くには、行列ができるホットドック屋さんがあります。ホットドックスタイルのハンバーガーです。

この道50年の今橋さんの「今屋ハンバーガー屋」さんです。

 

西公園展望台

行列がなければ、ここで今屋ハンバーガーを食べるのがいいのですが、あの行列でしたら待ちきれません。

 

西公園を下り、地下鉄大濠公園前でゴール!

明日(5/12)は、ふくおかウォーキング協会の総会です。うまくやれるかな????(多少不安です)

 

 

 


やさしいウォーク「人丸公園と新宮海岸を歩く」(福岡県粕屋郡新宮町)

2024-05-15 05:11:38 | ふくおかウォーキング協会

5/9(木)ふくおかウォーキング協会やさしいウォークは、「人丸公園と新宮海岸を歩く」でした。

集合場所は、JR福工大前駅。福工大前駅は、近くに福岡工業大学、福工大付属城東高校(阪神タイガース梅野捕手の母校)、立花高校などがあり、朝は、通学する学生さんたちで

いっぱいです。

今日のコースは、福工大前駅をスタートし、人丸公園(人丸神社)~ひとまるの里~進藤商店~新宮バスセンター~シーオーレ新宮~JR新宮中央駅ゴールの約8km。

先ずは「人丸神社」。神社の説明文は影が出来て見にくいですが、

平景清の娘で、1178年(2年)に生まれた人丸姫を祭神としている。源頼朝暗殺を計画した平景清はこの地に流罪となり、後に幼い人丸姫も父に会いたい気持ちから京都より父を追い求めて筑前国まで行くも1192年(建久3年)に病で没してしまう。人丸姫の死後、父の死去した日向国であるこの地に塚を築いたのが始まりとされる

また、人丸神社に隣接する人丸公園は芝生広場や遊具などがあり、花見の季節には桜の名所としても知られる

 

神社の横には、遊戯施設があります。産直店「ひとまるの里」で休憩。

 

県道537号線の湊坂~下府にかけて工事用の仮囲いがあります。再開発事業が行われるのかな???

新宮町は、2010年に入り新宮中央駅周辺やNTT社宅跡地などの宅地開発が進み、2015年の国税調査では人口増加率が22.9%と全国の市町村で1位を記録しました。

 

ひとまるの里から海岸線に進みます。

 

 

福岡で有名な干物屋さんの「進藤商店」に到着。

進藤商店は、明治後期の創業ですので百年企業です。店内には、福岡の大スター「博多華丸・大吉」さんの色紙で飾られています。

今日は、進藤商店に行くということでしたから、冷凍バックを持参しました。今晩のお酒のアテには何がいいかな・・・・・

  

進藤商店からオルレ新宮コースの一部を通り西鉄新宮駅へ

 

西鉄新宮駅から杜のみや住宅地を通ります。

 

鹿児島本線のガードを潜り「シーオーレ新宮」へ。ここで休憩

「シーオーレ新宮」は、保健館や図書館などがあり、複合施設です。

ネーミングですが、「シー」は海ということでわかりますが、「オーレ」とは???

パンフを見ると、新宮海岸の海を表現した「シー」と新宮町にある立花山の特産品であるオレンジから取った「オレ」を合わせた造語だそうです。

海・山の自然を象徴するものとして「シーオーレ新宮」と名付けられたそうです。

 

シーオーレ新宮からゴールのJR新宮中央駅へ

新宮中央駅周辺には、郊外型家具店やホームセンターなどが建ち並んでいます。

 

11:55 JR新宮中央駅にゴールしました。

 

今日のGPSです。

 

 

 

 


楽しいウォーク「桂川(けいせん)町を歩く」(福岡県嘉穂郡桂川町)

2024-05-14 04:36:48 | ふくおかウォーキング協会

GW明けの5/8(水)、ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「桂川けいせん)町を歩く」でした。

今日は、朝から小雨が降っています。午後には上がる予報です。

集合場所は、JR桂川駅。参加者33名。

 

9:30 スタート 雲が低くいつ雨が降ってもおかしくない天気です。

 

穂波川を通り、旧筑穂町へ。

 

旧筑穂町役場(現飯塚市役所筑穂支所)で休憩。

 

雨は、何とか持ちそうです。休憩後再スタート

大分(だいぶ)小学校発祥地を通ります。

「大分(だいぶ)」とは、難解地名ですね。駅名は「筑前大分(だいぶ)」です。

調べてみると、神功皇后が三韓征伐の帰途、ここで兵を解散したそうで「大分かれ(おおわかれ)」が「大分(だいぶ)」と呼ばれるようになったそうです。

 

大分小学校発祥地の横には、「大分(だいぶ)八幡宮」があります。

大分八幡宮のHPによると、

神亀3年(726)の創建と伝えられる大分八幡宮は、神功皇后の所縁の地で、筥崎宮の元宮とされています。御祭神は応神天皇(八幡大神)、神功皇后、玉依姫命です。

神功皇后は、三韓征伐から帰国した後、粕屋の宇美邑にて応神天皇を御出産遊ばされ、その翌年の春、粕屋と嘉穂の郡境にある大口嶽(大口嶽の乳呑坂)を越えて当地に至ります。神功皇后は、当地にて引率していた軍士を解隊し、それぞれの故郷に返します。その大分から大分と称されるようになったと伝えられています。

御祭神である応神天皇(八幡大神)の神霊は、欽明天皇32年(571)に豊前国宇佐郡に所在する馬城嶽(御許山)に出現したと伝えられ、神亀2年(725)に現在の宇佐神宮の鎮座地である小倉山社へ遷座します。その翌年の神亀3年(726)、御神託により豊前地方と穂波地方、太宰府を行き来する拠点であり、大分の由緒ある当地に鎮西第一といわれる壮麗な社殿、穂浪宮(大分宮)が造営されたのが大分八幡宮の創始とされています。

宇佐宮御託宣集の延喜21年(802)6月1日の件にて『我宇佐宮より穂浪の大分宮は本宮也』と記され、箱崎の松原への遷座の神託があり、3年後の延長元年(923)に遷御したことから筥崎宮の元宮とされています。その遷座の前からの御神体で、神功皇后が腰裳に挟んでいたとされる「くしみ玉」は、大分八幡宮にて奉斎されていたとされています。

 

因みに「大分県」の「おおいた」は、「豊後国風土記」では、"おおいた"について景行天皇に由来を求めています。天皇がここに来たとき「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国

(おおきた)と名づくべし」とし、これがのちに"大分"と書かれるようになったといわれます。 しかし、実際の大分平野は広大とは言いがたく、むしろ地形は狭く複雑であり、

「多き田」→「大分」との見解が最近の定説です。これが"とよのくに""おおいた"の由来です。(大分ガイドO-BOOKより)

 

神功皇后は、三韓征伐から戻るときに三本の樟を持ち帰り、香椎宮・宇美八幡宮・大分八幡宮の三社にそれぞれ植えたと伝えられています。福岡県天然記念物指定を受けている御神木の樟は、その子孫とされています。大陸系の樟で、推定樹齢が約700~800年、胴周り径が約9mです。(大分八幡宮HPより)

  

大分八幡宮から再スタート

 

バラのきれいな民家の前を通ります。ご自由に見学してくださいということでしたのでお言葉に甘えお邪魔させていただきました。

 

 

 

 

赤いブラシの花

 

こちらは白のブラシの花

 

 

 

 

 

民家の方に話を聞くと、これだけのお庭にするには5年かかったとのこと。愛情をたっぷりかけて育てられたのでしょうね。

久しぶりにこんなきれいなバラを見ました。

民家のバラを見てから再スタート

 

ゴールの桂川駅が近づいてきました。桂川駅は、JR原田線と福北ゆたか線(篠栗線)の合流駅です。

 

12:04 桂川駅にゴールしました。

今日のGPSです。

 

 

 

 

 


楽しいウォーク「長崎街道・三国境、健康さやわかウォーク」(福岡県筑紫野市)

2024-05-05 18:45:26 | ふくおかウォーキング協会

4/24(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「長崎街道・三国境、健康さわやかウォーク」でした。

今日は、朝から細かい雨が降っています。

集合場所は、JR原田(はるだ)駅、参加者は33人。

 

細かい雨も上がり9:30スタート。原田宿は、長崎街道の宿場町。原田宿の起こりは明らかではありませんが、寛永15年(1638)正月、島原・天草一揆鎮圧に向かう松平信綱公の軍勢が

原田に宿泊した記録(「黒田家譜」)がありますので、この頃には宿場ができていたと考えられています。

 

筑紫神社は、「筑後国風土記」に記述されていることから、奈良時代以前から鎮座すると推測され、筑紫地区で最も古い神社であり、神号は筑紫の国の國號起源といわれている。

「筑紫」の名は、古事記・日本書紀に重要な地名として登場し、「筑前と筑後の境となる山に荒ぶる神がいて、峠を行き交う人を多く取り殺していた。それを鎮めるために筑紫の神として

祀った」ということから、筑紫神社、ひいては筑紫の呼称の起源とされている。古より「筑紫」は九州全体を表す地名とされていることから九州の総社とも称されている。「延喜式」神名帳では名神大社に列せられており、高い格式の神社として朝廷より尊崇されていた。(ふくおかナビより)

 

 

 

九州歴史資料館で休憩

 

一ノ口遺跡は、小郡市と筑紫野市に拡がる三国丘陵の南部の丘陵部(標高30~50m)端に位置する。小郡・筑紫野ニュータウン建設工 事に伴う発掘調査によって、

縄文時代~古墳時代を中心とする集落遺跡が検出された。住居跡や土壙内から7点の石器が検 出され、報告されている。 昭和57年度以降、数多くの弥生時代遺跡が

確認されている。当遺跡の周辺は、北部が標高70~80mの開析の進んだ痩 せ尾根が広がり、南部はその尾根から派生する丘陵が標高35~50mの舌状のゆるやかな丘陵群をなしている。この丘陵 群には、いずれも弥生時代の集落が営まれており、膨大な数の甕棺墓、竪穴式住居跡等々が発掘され、土器石器に混じって 当時の動植物の骨・種なども出土している。道状の遺構や集落を囲む柵列もあって、当時盛行を保っていた有力なムラの一 つだったと考えられる。(小郡市埋蔵文化センターより)

 

 

 

 

三国境は、江戸時代の筑後国(小郡市)、筑前国(筑紫野市原田)、肥前国(佐賀県三養基郡基山町)のことで、その三藩の国境に建てられたのが「三国境石」です。
現在では消滅していますが、江戸時代はこの付近は三国坂と呼ばれた険しい峠だったようで、その峠に建っていました。現在の東明館小学校の敷地に当たります。
また、この近辺には三藩の内それぞれ二藩の境界線を示す境石が、いくつも建てられていたそうで、一部は今でも残っています。

 

三国境から九州道基山PAへ

 

基山PAで仮ゴール。基山PAからは、福岡・天神、博多駅方面のバスがあります。

私は、JRで帰るので本来のゴールJRけやき台駅に向かいます。

 

せっかくここまで来たのですから、けやき駅近くのラーメン屋さんに立ち寄ります。昔はよく通っていたのですが、何十年ぶりぐらいに行きました。

 


「第38回飯田やまびこマーチ2日目10km」(長野県飯田市)

2024-05-03 14:30:12 | ふくおかウォーキング協会

4/28(日)「第38回飯田やまびこマーチ2日目」

昨日の大平宿コースで古傷の膝痛が再発したが、宿に帰り湿布薬を貼り、幾分かはよくなりました。20kmコースにエントリーしていましたが、膝痛の影響もあり10kmコースに

変更しました。

30k、20kのスタートを見送り、7:30ふくおかW協会Nさんと3人で歩き始めます。

 

 

大宮神社の所が20k・30kと10kの分岐点。10kコースは右へ。

 

トンネルを通ります。

 

 

黒田諏訪神社へ

 

下黒田の人形舞台は、1840年に再建された総二階建の操り人形専用の舞台で重要文化財に指定されています。

亀甲梁という部材を用いて「テコ」の原理を利用して正面間口に柱がない構造です。

 

飯田は、京と江戸の真ん中に位置することから、西日本と東日本の両様の文化が流れ込む山間部交通の要衝だった。この地域に人形浄瑠璃が伝わったのは江戸時代初期の正保4年(1647年)で、名古屋から来た一座が興行を行い好評を博した(『熊谷家伝記』)。江戸時代中期になると京都や大坂を中心とする上方で隆盛を極めていた人形浄瑠璃は、野郎歌舞伎の台頭により勢いを失いつつあった。結果、浄瑠璃の人形遣い達は活躍の舞台を日本各地に求め、諸国に旅立った。

天明年間には人形芝居興行の免状を持つ、淡路出身の吉田重三郎が下黒田村(飯田市上郷)に来住し、人形芝居を教えた。文化5年(1808年)には同じく淡路出身の森川千賀蔵が河野村(下伊那郡豊丘村)の村人に『道薫坊伝記』を譲渡し、天保3年(1832年)には大坂出身の桐竹門三郎が下黒田村(飯田市上郷)に来住した。伊那谷での人形浄瑠璃は庶民から熱狂的に受け入れられ、村人は浄瑠璃の舞台や人形の為に田畑さえ売り払う者まで出現した。天保の改革では人形浄瑠璃の上演が禁止される一方で、一時的に江戸所払いとなった七代目市川團十郎が飯田出身の13代目後藤庄三郎の興行手配により天保10年(1839年)8月に川路村(飯田市川路)で10日間、歌舞伎の旅公演を行っている(『遊行やまざる』)。明治以降は集会条例等による思想警察の監視など、苦難の時代が続いたものの、300年のあいだ黒田人形、今田人形(飯田市)、早稲田人形(下伊那郡阿南町)、古田人形(上伊那郡箕輪町)の四座が伊那谷の人形芝居の歴史を

今に伝えている

そんな伝統人形浄瑠璃や伝統芸能の宝庫と呼ばれる飯田市で国際児童年の1979年、全国の人形劇人が集まって人形劇カーニバル飯田が始まった。以後1998年に20回を数えたが、20回目のカーニバルを持って飯田市主催での人形劇イベントは終了することとなった。この時、市民にこれまでのカーニバルの意義を再確認すると同時に、これからもこのような祭典を続けていきたいという動きが起こり、人形劇のまつり「いいだ人形劇フェスタ」の第1回が開催されるに至った。(wikipediaより)

 

人形浄瑠璃は、人形・太夫・三味線が一体となった総合芸術です。江戸時代庶民の娯楽として全国に広まりました。

私の町でも江戸時代から続くこの伝統芸能を保存し、年1回公演しています。

 

土曽川大橋を渡ります。その先には、「麻績(おみ)の里」という産直店がありました。看板には、博多ラーメン専門店という文字が・・・・

ラーメン屋さんはまだ開店前でしたが、産直店の店内をのぞいてみました。

 

五平餅がありましたので買って3人でいただきました。この五平餅のルーツは、昨日歩いた大平宿だそうです。

 

五平餅をいただき再スタートします。

民家には、大きな白藤があります。この藤「ダルマ藤(ヤマフジ)」というそうです。

 

遠くには、ちょっと霞んでいますが、3000mクラスの南アルプスの山々が見えます。この中に日本で2番目に高い山「北岳」や4番目に高い「間ノ岳」があります。

  

山道を下りてくると「元善光寺」です。

 

元善光寺は、長野市善行寺が創建される前にご本尊があったことから「元善光寺」と呼ばれています。

 

元善光寺の横から麻績(おみ)の里に向かいます。ここがチェックポイント。

 

「麻績(おみ)」とは、どういう意味か、調べました。

麻(を)を績(う)むこと、つまり麻を細かく裂いて撚りあわせて麻糸をつくること。麻を作ることができる豊かな土地のこと。

麻績神社の所には、「麻績の里舞台桜」があります。名前は隣接する旧座光寺麻績学校校舎にちなんだもので、平成17年に座光寺地域が公募して命名しました。

旧座光寺麻績学校校舎は、明治7年(1874)竣工の県内最古の木造校舎であり、県内最大の歌舞伎舞台を併設したもので、長野県宝に指定されています。

植えられた年代については諸説ありますが、『明治28年 座光寺尋常高等小学校日誌』に、「四月六日 土曜日 晴れ 夜 前ノ櫻満開 本日二八学年度入学(以下略)」

とあり、明治28年(1886)にはある程度の大きさになっていたことがわかります。

 

敷地内には、竹田扇之助記念国際糸操り人形館があります。

今日、飯田やまびこマーチ参加者は、入館料は無料です。中に入ってみました。

  

黒田の人形浄瑠璃・国際糸操り人形・それと川本喜八郎人形美術館など飯田は、「人形の町」ですね。

糸操り人形館を出て再スタートします。

 

 

三宜園の急坂、ここが最大で最後の難関の急坂です。何年か前も通りましたが、あの時は休憩なしで上れたのですが、やはり歳かな・・・・途中で休憩して上りました。

埼玉のSさんとお会いしましたが、彼女若いせいか、一気に上っていきました。

 

追手町小学校の横を通りゴールへ近づきます。

 

10:45 ゴールしました。

帰りのバス(12:34)までは、時間がありますのでお昼は、信州そばをいただきました。

次回は、どこに行くかまだ決めてませんが、協会の仕事が空いた時にまた参加したいと思います。

 

 

 

 


楽しいウォーク「姪浜から西新まで郊外散策」(福岡市西区~早良区)

2024-04-22 18:47:37 | ふくおかウォーキング協会

4/17(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「姪浜から西新まで郊外散策」でした。

集合場所は、地下鉄姪浜駅。参加者40名。

 

9:30スタート

福重交差点の所に更地がありました。ここには、福岡市で老舗の家具屋さんがあった所です。(2022年廃業)

私が子供の頃は、「カワムラの家具と一緒にお嫁入り」がキャッチフレーズでした。創業は明治43年(1910)。あの頃は、天神が本店だったと記憶しています。

 

 

JA博多じょうもんさん福重市場で休憩。「じょうもんさん」とは、「上等」を意味する博多の古い方言で、JAでは、産直店を展開しています。

休憩後再スタート。室見川沿いに歩きます。つい2週間前は対岸の桜並木を見に行きましたが、その桜も葉桜になっています。

 

 

早良区原付近

ここにも川沿いに鯉のぼりが・・・

 

原中学校では、女子中学生が手を振ってくれました。

 

 

 

なかにし商店街へ

 

12:00 地下鉄西新駅にゴール!

お昼は、近くの長崎チャンポン店へ。

 

 

 

 

 

 


サタデーウォーク「直方チューリップフェアと直方の歴史探索」(福岡県直方市)

2024-04-16 07:03:05 | ふくおかウォーキング協会

4/13(土)ふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、「直方(のおがた)チューリップフェアと直方の歴史探索」でした。

この時期、直方には、1,000人を超えるボランティアの方々の協力によって植えられた約20万球のチューリップが、遠賀川の河川敷に咲き誇ります。

集合場所は、JR直方駅。参加者31名。

直方(のおがた)」という地名は、福岡に住んでいるものだったら難なく読めるのですが、他の地区の方には、難解地名だと思います。

直方市のHPを見ると、「直方の中心部は、かつて、鞍手郡倉久村(現 宮若市倉久)に所在する内山寺の末寺である東蓮寺があったことから東蓮寺村と呼ばれていました。

元和9年(西暦1623年)、初代福岡黒田藩主の黒田長政が亡くなりました。その遺言で、四男高政に4万石を与え、この地に支藩を作ることになりました。藩主の館がこの東蓮寺村に

おかれたので、この藩は東蓮寺藩となりました。延宝3年(西暦1675年)、東蓮寺藩は直方藩と改名しました。「東蓮寺」を改名するにあたり、儒学者貝原益軒の兄で、当時本藩である

福岡藩から出向いていた貝原元端が「直方」と命名しました。これは、藩内の小村「直方(能方)村」(現直方市中泉)の読みを取り、中国の古典『易経』から縁起の良い「直方」の字を

当てたといわれています。

また、命名にあたっては南北朝時代にこの地方が、勤皇方(きんのうがた)であったり、懐良親王(かねながしんのう)方、つまり王方(のうがた)であったことにちなみ、

そう呼ばれていたとも伝えられています。」

また、大相撲元大関「魁皇」の出身地としても知られています。

9:30スタート。

 

 

多賀神社へ。多賀神社は直方城下町の鎮守として、元禄4年(1691年)から現在の場所に鎮座しています。別名を日若宮といい、江戸時代以来「日若踊」が奉納され、京都の葵祭りに

ならった御神幸とともに、県の無形民俗文化財に指定されています。一の鳥居は、宝永4年(1707年)直方藩最後の藩主黒田長清が寄進したことが、石柱の左右に刻まれており、

直方市で二番目に古い鳥居です。

 

多賀神社から遠賀川沿いに歩きます。

 

 

 

須賀神社へ。「須賀(すが)神社」は、1350年以上の古い歴史があり、平安時代の貞観3(861)年には、境内に隕石が落ちてきたという摩訶不思議な神社です。

この隕石は「直方隕石」と呼ばれています。目撃記録が残り、科学的に鑑定・証明された世界最古の隕石として知られています。境内には、記念碑が建てられており、隕石のレプリカが

一般公開されていますが、5年に1度10月の「神幸大祭」では、実物の隕石が公開されます。

 

 

神社には、狛犬のほか、大黒様・恵比寿様もあります。

須賀神社から再スタート

 

 

もち吉チューリップ園  もち吉は、直方が本社、チューリップフェアに合わせ、チューリップ園には、何種類ものチューリップがあります。

 

もち吉で買い物を済ませ、再スタート

東勘六橋を渡り、遠賀川河川敷へ。

 

河川敷では、チューリップフェアが開催されています。

 

見事なチューリップの数々です。

 

 

 

 

綺麗なチューリップのもとで記念写真

 

チューリップ鑑賞の後、ゴールの直方駅に向かいます。

 

商店街の処には、長崎街道直方宿西構え口があります。

直方のお菓子と言えば、「成金饅頭」です。

成金饅頭は投機に失敗したある青年が生み出したとされている。明治時代のこと、日露戦争で物資の値が高騰することを見込んだ青年はうずら豆を大量に買い込んだ。しかしその直後に日露戦争は終結。相場は暴落し、青年は貨車数台分のうずら豆を抱えることとなった。途方に暮れた青年が大量の豆を処分するためにうずら豆から白餡を作り饅頭を製造したところ、好評な売れ行きを博したのが成金饅頭の始まりであるとされている。当時の筑豊では重労働で疲労した炭鉱労働者たちに甘い菓子類が大変好まれていた

「成金」の名称については、炭鉱で財を成した成金が多かったため、地元で炭鉱王と呼ばれた貝島太助が名付けたため、鉱山機械を売って財を成した沼田槌蔵にちなんだなど諸説がある。

最盛期の1950年代には10軒ほどの店で作られていたが、炭鉱の衰退とともに2020年の時点では大石、喜久屋、博多屋、まとやの4軒まで減少した。一方で、近年ではインターネットや電話による通信販売での売れ行きが伸びている。2000年には直方市出身の魁皇が大関に昇進したのを記念して魁皇の焼印を押したものが商品化され、九州場所期間中やイベントなどで

販売されるようになった。 (wikipediaより)

 

12:15 直方駅にゴールしました。

 

 

 

 

 

 


楽しいウォーク「みなと百年公園から多々良川河畔を歩く」(福岡市東区)

2024-04-12 10:38:34 | ふくおかウォーキング協会

4/10(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「みなと百年公園から多々良川河畔を歩く」でした。

福岡市内の桜は、前日の雨風で花が散ってしまい葉桜状態です。本来ならここ みなと百年公園も桜の名所ですが・・・・

 

集合場所は、JR香椎駅、参加者40名。

9:30 香椎駅スタート

 

 

桜はもう葉桜になりかけています。

 

 

みなと百年公園は、博多港開港100周年を記念して平成11年(1999年)に造られました。

 

 

百年公園から名島海岸へ

 

昔、「妙見島」というのがあり、(今は、埋立てられています)天正年間(1573~1592)名島城主小早川隆景公在城の時、博多の豪商神屋宗湛が茶会を儲け隆景公を饗したと宗湛日記に

記されています。

 

名島水上飛行場」は1930年に設置された水上機専用の飛行場。翌年1931年に、世界一周中のリンドバーグ夫妻が水上機シリウスに乗ってやってきました。陸上機が使えないという使い

勝手の悪さから1934年に閉鎖。また「名島橋」というのは、飛行場のための道路整備の一環として架橋されたものです

 

 

名島神社」その昔、神功皇后が名島の黒崎海岸から三韓へ出兵される際、宗像三女神に無事を祈願されました。無事に帰還され、祈願成就のお礼として

三女神を奉斎されたのが、名島神社のいわれと略記に記されています。

また、「名島」という地名の謂れは、神功皇后が出航に当たって海岸で将校の名を呼び、最後の兵の名をしめ切った→ 名しめ→名島

あるいは、船出するとき、軍勢の名を呼んだことから名を呼ぶ島とされたと地名由来として伝えられています。

 

 

名島神社の上には「名島城址」があります。

戦国時代天文年間(1532~1555)に立花城主立花鑑載が支城として築造したといわれ、のちの天正16年(1586)から慶長5年(1600)の黒田入城まで、秀吉から筑前国を与えられた

小早川隆景・秀秋がここを改修し居城とした。東をのぞく三方を海に囲まれた戦国時代の城郭で、北に本丸、その南に二の丸、三の丸を配し、海水を引き込んだ堀割と空堀で周囲を防御する。東西840m、南北280~400mの規模をもつ。関ヶ原の戦い以降、初代福岡藩主黒田長政も初めここを居城にしたが、城下町の発展に不便な地として、慶長6年(1601)から福崎の地に

福岡城の築城を始めた。慶長12年(1607)福岡城の完成、移転とともに廃城となった。この時石垣や門などを新城に輸送したといい、遺構として名島門(市指定建造物)が福岡城に、

唐門(県指定建造物)が崇福寺に残る。(福岡市の文化財より)

 

名島神社を下りると「名島発電所跡」があります。

当時東洋最大と言われた火力発電所を偲ぶ記念碑です。大正9 年に第1 号発電機が竣工し、高さ61 メートルを誇る4 本の煙突が発電所の象徴となり、その姿は市内の至る所から確認できたと

言われています。その煙突も1961 年(昭和36 年)から1962 年(昭和37 年)にかけて順次解体されました。現在、跡地は名島運動公園となっています。

 

踏切を渡り多々良川河畔へ

 

国道3号線博多バイパスに入ります。この区間3号線の渋滞緩和の為、2018年3月に開通しました。

旧唐津街道上にありますが、その風情はもう残っていません。

 

12:00 千早駅にゴールしました。

 

この日のGPSです。