よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「糸島を歩こう(一部朝ドラロケ地)」福岡県糸島市

2025-01-27 14:11:19 | ふくおかウォーキング協会

1/22(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは「糸島を歩こう(一部朝ドラロケ地)」でした。

集合場所は、JR筑前前原駅。参加者33名。

 

9:30スタート。先ずは前原(まえばる)商店街へ

 

この商店街は、朝ドラ「おむすび」で主人公の祖父役「松平 健」さんがダイエーホークスの野球帽を被り、自分の所で獲れた野菜を売っていました。

 

唐津街道「前原宿」

戦国時代の前原村は、現在の前原駅の南側付近で、ほんの10軒ほどの村だったそうです。前原の地名の由来が、村の前が原っぱだったので「前原」としたそうです。

その後、1638年の島原の乱後、治安維持のため関番所が設けられ、更に1685年頃、御茶屋・人馬継所ができ、前原村の人たちを強制的に移し、宿場としての形が整いました。

唐津藩主や福岡藩主が宿泊する御茶屋は、法林寺周辺にあったといわれています。町民などが宿泊する町茶屋は、辰美商店にありました。

唐津街道は、この商店街を通ります。

 

 

 

先に進みます。

 

 

 

一番田舎(でんしゃ)、志摩の四季で休憩

 

志摩の四季から師吉地区に入ります。彦山は、昔、牧場がありました。私も中学の頃、何回か遠足で行ったことがあります。

 

道路の側に「大石神社」というのがあります。社殿も何もありません。

調べてみると、幕末期の1851年、福岡藩10代藩主「黒田斉清」の墓を造るため、この大石を切り出すように命じられました。

そこで住民たちは、訴えます。以前にも同じような命を受けて実行しようとしたら村で災難が続発したので断念した・・・・・

そんな因縁である石であることを陳情した所切り出しを免れたそうです。

アグリで休憩。

 

休憩後再スタート。泉川沿いを歩きます。

 

12:40 筑前前原駅にゴールしました。

 

 

 

 

 

 

 


やさしいウォーク「博多旧市街・まちなか歩き」(福岡市博多区)

2025-01-19 11:32:26 | ふくおかウォーキング協会

1/9(木)ふくおかウォーキング協会やさしいウォークは、「博多旧市街・まちなか歩き」でした。

よく県外の方に福岡と博多の違いを聞かれます。

博多は商人の町、福岡は、関ケ原の戦いで功を得た黒田長政が福岡城を建てたので福岡は、城下町です。

博多は、昔から大陸への貿易港として栄えましたが、戦国時代度々の戦火で焼かれ、豊臣秀吉の太閤町割りで博多商人の協力の下、博多の町が整備され、今日の博多の基盤となりました。

「福岡」という名は、黒田家のルーツである岡山県瀬戸内市長船町福岡からです。(下図は、博多の太閤町割り、岡山県瀬戸内市長船福岡)

 

明治になり福岡が市制を開くとき、市の名称を「福岡市」か「博多市」にするか、議会でもめましたが、結局議長採決で「福岡市」になりました。

代わりにJRの駅は「博多駅」になりました。

また、工芸品やお菓子や食べ物にはよく「博多」が使われます。博多人形、博多バサミ、博多もつ鍋、博多ラーメン、博多明太子、博多あまおう、博多ぶらぶら・・・など福岡という名がつくものは

ありませんね。「博多」というと、古い町で皆が知っているというイメージがあるからそんなネーミングになったのかな?

「福岡」というと、福岡・北九州・京築・筑豊・筑後など広域的なものを含みます。

 

今日のウォーキングは、その博多の旧市街を歩こうというもの。

集合場所は、博多駅の音羽公園。今朝は、寒く時々小雪が舞っています。参加者23人。

9:35スタート

 

 

住吉神社は、相撲の神様です。九州場所には浅香山部屋(魁皇)の稽古場になります。

 

キャナルシティを通り、博多の総鎮守「櫛田神社」へ

 

この日は、外国の団体さんが多くお詣りに来られていました。

 

 

駄菓子の卸問屋「遠藤商店」。店内を見ると懐かしい駄菓子がいっぱいです。

綱敷天満宮は、菅原道真が大宰権帥に左遷されて赴任の途中、袖の港に上陸した時、住民達が綱で敷物を作り出迎えたと言われている。その後、その場所に社殿が建ち綱輪(つなわ)天神と

呼ばれた。現在、社名は綱敷天満宮となり、社殿所在地の町名は綱場(つなば)となった。

 

このあたりから雪が降ってきました。積雪まではなりませんが、寒くなってきました。

中洲国廣神社は、ビルとビルの間に挟まれた神社です。毎年10月に行われる「中洲祭り」では、500人の女性が神輿を担ぐスタート地点になっています。

 

那珂川横の薬院新川が博多部と福岡部の境界です。ここから福岡部に入ります。

 

福博であい橋  福岡の「福」と博多の「博」から福博であい橋と名付けられました。

この橋では、NHK朝ドラ「おむすび」で主人公の結が書道部の先輩と待ち合わせた場所、また、博多ギャル連合が大勢で闊歩しているシーンです。

 

東屋には、博多どんたくの「傘鉾」をイメージしています。

 

福博であい橋を渡り再び「博多部」に入ります。川端商店街には、博多で一番甘いぜんざいで有名な「川端ぜんざい」

川端商店街から「冷泉荘」に向かいます。

冷泉荘は、1958年(昭和33年)、当時最先端の鉄筋コンクリート民間集合住宅として建てられるも、時代の変遷とともに老朽化、2000年頃にはスラム寸前のアパートとなって

しまった「冷泉荘」。このままではと一念発起し、2006年、東京・青山の同潤会アパートをモデルにアーティストやクリエーターが集まる3年限定のチャレンジの場として再生。

巨大流しそうめん大会や七夕祭り、ワインと共に音楽や演劇を楽しむ周年パーティなどさまざまなイベントや交流が生まれ、建物に活気が満ち溢れてました。(冷泉荘パンフより)

2024年には、国登録有形文化財(建造物)に登録されました。

私、冷泉荘の名前は知っていましたが、実際行ったのは初めてでした。

 

11:20 冷泉公園にゴールしました。 今日のGPSです。

 

 

 

 


楽しいウォーク「西鉄大橋駅・高宮駅界隈の三社詣り」(福岡市南区)

2025-01-16 18:17:36 | ふくおかウォーキング協会

1/8(水)ふくおかウォーキング協会今年最初のウォークは、「西鉄大橋駅・高宮駅界隈の三社詣り」でした。

集合場所は、西鉄大橋駅。参加者は、38名。

9:38 スタート

 

先ずは、熊野道祖神社へ御祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)   久那斗神 (くなどのかみ) 八衢比古神(やちまたひこのかみ) 八衢比売神(やちまたひめのかみ)
由緒
 熊野神社は古より塩原の射場「塩原中央部」に伊邪那岐命を祭祀せられ、道祖神社は塩原イトリサヤ「塩原四丁目芸工大前」に久那斗神、八衢比古神、八衢比売神を奉斎しておりましたが、昭和十二年両者が合祀せられ現在の熊野道祖神社となったのであります。
 文献では「古事記」上巻伊邪那岐命が黄泉国より帰られる段に「亦塞其黄泉坂之石者號道反大神、亦謂塞其黄泉大神」(そのよみどのさがにさやりまししいしはちがえしのおおかみ、またのなをさやりますよみどのおおかみ)とあるのが最初で即「道反大神(ちがへしのおおかみ)、またの名塞坐黄戸大神(さやりますよみどのおおかみ)」とも呼ばれ、巨石を以て象徴し衢路(みち)に坐して悪霊を防ぐ神でありまた一方古典に見ゆる岐神(ふなどのかみ)(久那斗神、船戸神)とも申し上げます。何れも王朝の昔より悪疫を塞ります神並に旅行の幸福を守護し給ふ神とも信仰せられ、

総括的にはサイノ神と申し奉ったものであります。
 道祖神社の神域は、昼尚暗き樹木に覆われ周囲は水田地帯でありましたが、昭和二年四月七日福岡県立筑紫中学校が道祖神社の境内を含む塩原に開校せられ、同校建設の際、社地の樹木を

漫りに伐り忽ち病等其他不慮の災害に罹った者が多く、斯る御神威に鑑み強いて移轉せしむる事は神罰の恐れ尠からずとして遂に此儘据置かれる事になったのであります。
 この霊験あらたかなる神明照覧加護の下、交通安全、商売繁昌、学業成就、夫婦和合、旅行安全、開運、厄除、各種祈願成就の為県内はもとより、遠隔地から多くの参拝者が訪れて居ります。

明治以前から塞神又は道祖権現或は葛権現と稱して崇敬され、今日に及んで居りますが其名も著き神秘なる一例を挙げると、明治二十一年の大暴風の際、倒れたる神木が一夜の間に自ら起き直り

今尚森々として繁茂し榎の大木が自然の造形其のままに四季折々の変化を遂げ、参拝者の心を慰め鬱蒼たりし千古の森も依然として尊厳を保持せられて居るのであります。
 先の、福岡市計画事業塩原地区区画整理事業の実施に伴い、新大橋駅前一号線「新大橋駅より北方三〇〇米先の下辻堂井尻線に交叉する」幅員二十二米道路が境内地中央部を縦断することと

なった為、神殿を新築移転、諸設備の改装の止むなきに至った次第であります。昭和五十三年境内地模様替報告祭を奉仕して、諸工事に順次着工、その間御神霊御加護のもとに関係者各位の

ご協力に依りまして、昭和五十七年十一月八日本殿遷座祭、同年十一月二十日本殿遷座奉祝祭の重儀を滞りなく斎行致し、昭和五十九年三月を以ちまして境内整備事業の一切を完了致した次第で

ございます。(境内案内看板より)

 

この神社は、初めてお詣りしました。

地禄神社、塩原中央公園を通ります。

 

塩原中央公園には、保育園児が遊びに来ていました。園児を見るとウォーカーの皆さんの顔がジージ・バアバになるんですね。グータッチをして別れました。

 

清水の大楠というのがあります。

  

かつては、背が高く大きな樹冠がここから北に8kmほど離れた名島橋からも見えたそうで、昭和20年(1945)6月の福岡大空襲で燃えました。幸い樹皮の奥までは、火が回らず済んだそうで

再生しています。幹回りは9,7m。

ここでふくおかウォーキング協会あてに電話がかかり応対していたら、もう皆さん先に行かれていて探すけど見つかりません。

仕方ないので次の休憩地「西鉄高宮駅」に向かいます。そこでやっと合流しました。

高宮駅から高宮八幡宮に向かいます。

高宮地区は、福岡市内でも高級住宅地の一つです。高宮八幡宮は、「高宮」の町名の由来にもなりました。

八幡宮まで上りが続きます。

 

高宮八幡宮は社記によれば、天智天皇磐瀬行宮にあらせられた時、神功皇后ゆかりの地として、この所を御奉祀あらせられたという。
 その後、寛仁年中(1017年頃)岩戸小卿大蔵種直に至りて社殿を造営して武運を祈り、代々崇尊、南蛮夷の賊並に刀伊の賊討伐の際、最も神威を顕はし給うたという。又、建久年中(1190年頃)原田家が怡土郡の高祖城に移ってから、当神社を高宮の西南、宮の尾に遷し、高宮・平尾・野間三村の氏神、那珂郡の鎮守の神として里人の崇敬を集め神域は高燥の地を占め、老樹鬱然と幽邃を極めた。
 関が原の役後、黒田長政公入国後は、当社を武運祈願の神社として木造の鳥居の御寄進がありその地を鳥居の下と云い、流鏑馬奉納の地を馬場と云い伝えており、慶長七年(1602年)本営を古営の跡東南の地に遷座し奉り、分霊を平尾・野間の両村へ勧請して現在に至っている。
 又、当宮は古く安産の守神として宇佐八幡宮から勧請して奉祀してあったが、三百七十年余前、黒田藩の武士が妻の安産祈願をしたところ、玉の如き男の子を出産した。この子が長じて十七才の時、一本の棒を持って諸剣士と試合をなし、電光石火、急所を突いて次々と相手を打ち負かした。これが黒田藩独特の杖術を始めた夢想権之助である。夢想権之助は神社神域の隣、大森二郎氏の先祖と共に、黒田藩の指南役として奉仕した。この縁によって後に当社を黒田藩の杖術槍術の祈願社とされた。
 なお、現在黒田藩に残る抱大砲の西洋兵術は、肥前鍋島藩と共に長崎からいち早く伝わったものであるが、この砲術発達の基礎となった。両脚を開き、腰を落して前かがみになり、臍下に力を入れて火薬に火が付くのを待つ。この腹力の入れ方は、権之助が始めた杖術の呼吸を学びとったものである。
 平成二年十一月吉日改装 本文井上瑞衛撰定 不破又一郎謹書(境内由緒掲示板より)

境内には、ハート型の石があり、恋愛運・縁結びにもご利益があるそうです。

  

坂道を上り、多賀・大池地区を通ります。

歩いていると階段の傾斜が70度ぐらいの階段がある民家がありました。手すりもなくどうやって上るのでしょうか?

 

 

三つ目のお宮は「若久住吉神社」です。

 

● 御 祭 神
 当若久住吉神社は底筒男神、中筒男神、表筒男神の住吉三神を祭神とし、相殿に神功皇后 菅原神社(菅原道真)を合祀します。blue ● 御 由 緒
 住吉三神は遠い神代の昔に、伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラヘ(禊祓)をされた時に、志賀神社の御祭神、ワタツミ三神と警固神社の御祭神・直毘の神と共に御出現になりました。したがって当社の御鎮座は遠い遠い神代のことで、年代を定めることは出来ませんが、全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです。
祭神菅原神は大字若久字天神に無格社天神社として祭祀してありましたが、大正13年10月14日許可を受け、明細帳編入と同時に合祀されました。
● 社 殿
約1800年前、第14代目仲哀天皇の皇后となられた神功皇后が熊襲叛するに及び、天皇とともに西征途中、天皇が香椎で崩御のあと新羅を征して凱旋され、誉田別皇子(後の応神天皇)を筑紫で出産されましたが、新羅から帰国されたとき、ここに立ち寄られ、ここに神社を建てようとされたということに起源しております。
一説には、約380年前に、この附近のお金持ちの人たちがこの地をならして当時の国主、黒田長政によって、住吉三神と神功皇后、天神様となった菅原道真公のご神徳を奉賽して造営されたものと伝えられています。
その後老朽化したため、現在の社殿は昭和39年、地元の金子市作、大野惣次郎、国武英太氏らの篤志家によって改築されたものであります。
● 境 内 平 地
境内平地には天保6年4月の鳥居、つづいて注縄掛石に左に(神光長明)右に(松寿千古)とあり昇格記念として大正15年10月の建立と刻まれています。
● こまいぬ(狛犬)
社殿の前に据え置かれた一対の獅子に似た狛犬の像は昭和60年3年10月、地元の三浦久・三浦千代子ご夫妻同じく三浦郁夫・三浦美春ご夫妻のご寄進によるものであります。
● 神 殿
神殿後方には若久公民館があり、なげしには明治、大正の絵馬が四枚掲げられています。
● 境 内 地
総面積約二千坪で周囲は竹林と鬱蒼とした樹木に圍まれ神々とした神域を醸しています。
社殿の正面左手には、黒田長政公の植樹と伝えられる山桃の木が亭亭とそびえ、御祭神の禊祓に房わしい御神木 として大切に保存されています

 

25年初のウォーキングですのでここで記念写真を撮ります。

若久住吉神社からゴールの西鉄大橋駅に向かいます。

 

12:40 大橋駅にゴールしました。

 

 

 

 


1月例会「25年新春三社詣り」(福岡市中心部)

2025-01-13 12:26:39 | ふくおかウォーキング協会

1/11(土)ふくおかウォーキング協会1月例会は、「25年新春三社詣り」でした。

集合場所は、博多駅の音羽公園。

今日土曜日から3連休です。参加者が少ないのでは?と思いましたが、55人と久しぶりに多くの参加者が来られました。

新しい方が多く参加されましたので出発前にふくおかウォーキング協会のことや、ウォーキングの効用など説明させていただきました。

今日のコースマップ

9:43スタート

 

先ずは、住吉神社へ

当社の歴史は、およそ1,800年以上前に遡ります。全国に2,129社ある住吉神社の中でも、最初の神社と云われており、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されています。

また、住吉大神をお祀りしている神社は全国にありますが、そのほとんどが海側にあり、特に現在では大阪の住吉大社、下関の住吉神社、そして当社が日本三大住吉と云われております。

 

博多の古図を見れば、住吉神社周辺は、海だったようです。

住吉神社から博多の総鎮守「櫛田神社」へ

今日も外国の方の来訪が多く、本殿前には、長い行列が出来ていました。

 

櫛田神社から福岡市中心部天神を通り、旧平和台球場址へ

 

舞鶴公園は、福岡城址のところにありますが、最近福岡城天守閣再建計画が起こっています。

昔は、天守閣はなかったという意見が多くを占めていましたが、近年の研究で天守閣はあったという書物がでてきたそうです。

天守閣を再建すると観光の目玉になるという賛成派の意見ですが、さて、どうなることでしょう?

 

福岡城址から福岡・護国神社へ

 

ここで記念写真を撮ります。

護国神社からゴールの警固公園に向かいます。

12:27 警固公園にゴールしました。

 

途中2人ぐらいの方がリタイアされましたが、残り全員無事完歩されました。

これを機にウォーキングを続けてほしいですね。

 

 

 

 

 


2025年新春合同三社詣りウォークin筑後(福岡県筑後市)

2025-01-06 18:29:23 | ふくおかウォーキング協会

2025.1.5 NPO福岡県ウォーキング協会では、県内6団体と教職員互助会と新春合同三社詣りウォークを行っています。

また、福岡では、お正月に三社詣りを行う風習があります。昔は、産土神・鎮守神・氏神をお詣りしていたそうです。

昨年は、ふくおかW協会が担当でしたが、今年は、ちくご歩こう会の担当です。

会場は、筑後広域運動公園。参加者は100人前後でしょうか?

 

コースは、10kmと5kmコースがあります。

10:00 10kmコーススタート

10:09  10kmコーススタート

一つ目は、中山八幡神社です。

 

 

 

 

 

ソフトバンクホークスベースボールパーク

夕方のニュースで放送していたのですが、今日ドラフトで指名された選手の入寮式が行われたそうです。寮はこの球場内にあります。

 

二つ目は、常用(つねもち)天満宮です

  

常用天満宮から三つ目の「水田天満宮」へ

水田天満宮は、御祭神 菅原道真公をお祀りいたし鎌倉時代の嘉禄二年(鎌倉時代1226年)に菅原長者大蔵卿為長朝臣が後堀河天皇の勅命により建立し、明治維新までは後堀河天皇勅願所の提灯が

御本殿の左右に灯されていました。
 御神領は、天文・天正年間には623町余り、豊臣秀吉時代に小早川秀包公(毛利秀包・久留米城主)より 一千石、慶長6年に筑後国主 田中吉政公より 一千石、江戸幕府上使 松倉豊後守重政より

一千石、久留米城主 有馬豊氏公より二百五十石、柳川城主 立花宗茂公より 五十石の寄進があり、総高三千三百石を領有していました。(神社HPより)

 

末社の恋木神社は、恋命(こいのみこと)を祀る全国唯一の場所。

 

 

この地は、筑後の志士・真木和泉が10年ほど蟄居したところで、現在も神社の南西100mほどのところに山梔窩(さんしか)という史跡が置かれています。ここには筑前の志士・平野國臣や

清川八郎が来訪し、尊王攘夷の策源地となっていたものと思われます。

 

水田天満宮からゴールに向かいます。12:50 ゴールしました。

 

今日のGPSです。

ウォーキングの後は、隣の温泉「恋ぼたる」でウォーキングの汗を流しました。

 

 

 

 


2025年「明けましておめでとうございます。」

2025-01-01 08:42:30 | 日記

2025年(令和7年)明けましておめでとうございます。

本年もどうぞ宜しくお願いします。

また今年も近くの初日の出スポットに行ってきました。

福岡の日の出時刻は、7:23です。

7:27明るくなってきました。

 

 

 

昨年は、雲がかかりチラッとしか見えませんでしたが、今年は、ばっちりです。

今年もいい年でありますように