よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く「三石宿〜有年(うね)宿」兵庫県に入ります

2014-01-11 14:47:11 | 山陽道(西国街道)を歩く

1/04 車を相生駅に置き山陽本線で昨日ゴール地「三石駅」へ。三石駅9:58着。

今日は、三石から船坂峠を越え兵庫県との県境の有年(うね)宿まで歩く予定です。

山陽本線と並行している旧道を進むと左の丘の上に「三石一里塚跡」があります。駅前にも一里塚がありましたがそれとは別かな?

先に進むと踏切があります。これから電車は、「船坂トンネル」です。旧街道は2号線と合流ししばらく行くと「梨ヶ原」の看板を左折します。

    

船坂峠に入りました。峠ということでしんどいのでは?と思っていましたが、そんなに急な峠でなく登っていくとすぐに頂上に着きました。

                    兵庫県に入りました!

岡山に入って9日目。やっと兵庫県に到着です。

     

船坂峠を下ると赤穂郡上郡町梨ヶ原です。

兵庫県に入ると山陽道が「西国街道」に名前を変えます。

   

梨ヶ原宿は三石宿・有年(うね)宿間の「間(あい)の宿」の休憩所で宿屋や茶店がありました。明治18年明治天皇がここに来られた時の記念碑も建っています。

       

船坂神社」があります。中に入ってみますと備前焼の狛犬や子供を連れている狛犬、玉を転がしている狛犬があります。

    

また本殿に入ると赤穂浪士47士の絵馬が奉納されています。ここ梨ヶ原は赤穂郡ですね。赤穂と言えば「赤穂浪士」です。

   

梨ヶ原集落の東の入り口に「有年」の標示があります。本来はこの街道これから「有年峠」という所を通るのですが、街道を歩いた先輩方のブログを見ていますと、イノシシが多いため柵があったり

またイノシシ駆除為3月末までハンターがいるから音のするものを持っていく・・・・・などと書かれています。家内と有年峠を通るか、2号線を通るか話し合った結果、安全な2号線を行くことにしました。

   

国道2号線は最初は歩道がなく道路の端を歩きましたが、車の往来が激しく怖いです。落地神社を過ぎると「鯰峠」に差し掛かります。昔は有年峠だけでしたが明治16年に山を切り崩してこの道路を造ったそうです。

昔はこんなに広くはなかったのでしょう。今は歩道もあり安心して歩けます。峠の頂上から「赤穂市」に入ります。

「西有年」に入りました。有年峠を通った街道はこのあたりに出てきます。橋を渡り「大避(おおさけ)神社」の所から2号線と別れ旧道に入ります。

大避神社は、大避大神(秦 河勝)をお祀りしている神社です。本家は赤穂市坂越にあります。また、赤穂市の巡回バスの名前が「ゆらのすけ」というのも面白いですね。

大避神社の先に歴史の案内の碑が立っています。もう消えかかってわかりずらいですが、「西有年宮東遺跡」です。

案内板の横には「平安時代末から鎌倉時代頃の掘立柱建物跡がたくさん見つかった。いっしょに壺や皿などの土器も出土した。」と書いてあります。

私、「宮東遺跡」というのを知りませんでしたのでネットで調べましたが、全国にあるのですね(埼玉、会津・・・・・)。大避神社に関係するものでしょうか?

とその時、消防車と救急車のサイレンの音・・・・・何事かな?と思って消防車の方を見ると国道で軽自動車が転倒しています。もし私達が大避神社に行かずにそのまま国道を歩いていたらこの事故に遭遇していたかも

知れません。大避神社のおかげです。

「東有年」に入ってきました。

    

 淳泰寺、有年小学校を通ると国道の所に弥生時代の住居が立っているのが見えます。興味深々でそちらの方に寄り道します。

   

    

説明文によると、

有年地区は千種川とその支流によって形成された東西に長い盆地であり赤穂市において最も遺跡が密集する地区となっている。

平成元年~平成4年迄圃場整備事業に伴って調査が行われ縄文時代後期(3500年前)から室町時代にかけての建物跡がたくさん発掘され、太古から人々が断続的ながら長期間「ムラ」を

営んできたことが明らかになった。ここでは弥生時代後期(1800年前)竪穴住居7棟、古墳時代後期(1450年前)竪穴住居22棟及び高床倉庫1棟が密集して検出された。

古墳時代の住居跡からは須恵焼、土師器、ミニチュア土器、鏃、紡錘車(糸を紡ぐ道具)など当時の生活を偲ばせる道具が多数出土したほか、古墳時代としては全国的にも珍しい土馬(土で作った馬の模型)も見つかっている

東有年の信号の所に「八幡神社」があります。八幡神社の鳥居は、延享元年(1744)の創建で今年で270年経つそうです。

八幡神社を左に行くと「有年(ありとし)家長屋門があります。宿場は有年(うね)ですが、ここでは有年(ありとし)です。どちらが先だったのでしょうか?

    

有年家は、江戸時代この地の大庄屋を務めた家柄であった。この長屋門は高さ8尺の石垣の上に建ち白漆喰の練塀、納屋と並び建って庄屋屋敷の格式を強く印象付けている。

赤穂市内に残る江戸時代の長屋門は赤穂城内にある大石良雄宅跡長屋門、近藤源八宅跡長屋門及びこの有年家長屋門のみであり主屋と一体となって赤穂藩の庄屋の

屋敷構えを残す貴重な文化財と言える。(説明文より)

東有年信号から旧街道に戻ります。

有年宿はかつて近世山陽道を備前国から東に山を越えた西有年上所にあった。然し街道の往来が増えるにつれておよそ1里東の熊見川(千種川)の川待ちに対応するためより川に近い

東有年に宿場が移された。参勤交代の際に大名が宿泊する本陣は、有年宿内でもやや左寄りにある「柳原家」に設けられたが現在は標柱があるだけとなっている。

また脇本陣は宝永3年(1706)の古文献では「儀兵衛宅」に設けられたとあるが場所等の詳細は不明である。

旅籠では柏屋、瓦屋、新屋、亀屋、蔦屋、菊屋、丸屋、紙屋、横屋、渋屋、池田屋、有田屋、角屋など数十軒があり今もこの屋号で呼ばれる家がある。

このほかにも木賃宿、商人宿、茶屋、牛馬宿、各種の商店等が軒を連ねていたが残念ながら数度の水害により浸水被害を受け、古い町並みの殆どが取り壊されており、

今は見る影もなくなっている。

  

   

時間は13:30分を過ぎてきました。街道は千種川を渡り有年駅に向かいます。途中「池魚塚」というのがありました。

道路改修資金のために売られた池の魚への感謝とその供養の塚。

14:00JR有年駅到着。今日はこれから車で自宅まで帰らねばいけませんのでここまでとします。

有年駅では、「特急スーパーはくと」が追い越していきました。

   

今日のGPSです。

 今回3日分のGPSです。西宮まであと約110kmぐらいになりました。