よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

福岡県の県名「福岡」のルーツ「瀬戸内市長船町福岡」を散策

2014-01-05 20:15:35 | 歴史

今日(1/5)からNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」が始まりましたね。

関ヶ原の戦いの功績で官兵衛は、筑前52万石を拝領しました。

お城は、最初名島城でしたが、福崎(今の大手門から舞鶴)に新しいお城を築きました。

そのお城の名前を、黒田家の再興の地、岡山県瀬戸内市長船福岡庄からとって「福岡城」と名付けました。

官兵衛の曽祖父「高政」は、近江国伊香郡黒田村(現長浜市木之本町)出身。京極氏に仕えていましたが、

将軍足利義稙と前将軍足利義澄の船岡山の戦いで軍令に違反したとされ、義稙の怒りに触れお家断絶だけは免れましたが、

近江の国にいられなくなり親族を頼って、邑久(おく)郡備前福岡(現瀬戸内市長船福岡)に移りました。

その後、高政は、福岡で没し、その子重隆は播磨の豪族赤松氏に仕えていましたが失望して福岡に戻り小作人同様の生活をしていました。

然し広峰神社の御使と組んで黒田家家伝の目薬、「玲珠膏」を売り出した所、これが大ヒットして有力豪族の仲間入りしました。

それから、重隆は嫡男「職隆」に家臣団を与え、共に豪族「香山重道」を襲わせその首を御着城主小寺にその首を差出し重用され、その後職隆は姫路城の城代となりました。

職隆の嫡男「官兵衛」は天文15年(1546)11月この姫路城で生まれています。

私感ですが、官兵衛は、黒田家にとって備前福岡時代は一番失望したときであり、これから運があがってきたのでそこからこの「福岡」を新しいお城の名前にしたのではないでしょうか?

福岡には「博多」という商業都市があり、城下町「福岡」とは那珂川を挟んで分かれていました。

明治22年市制を施行と 市名をどうするか議員の間で投票になり「博多市」「福岡市」は同数。議長の決済で「福岡市」になりました。

プロローグはここまでにし、早速この「備前福岡」を紹介します。

備前福岡は

福岡の地は鎌倉時代吉井川の水運に支えられて大いに栄えた。山陽道周辺に市場が発展、福岡市(ふくおかのいち)と呼ばれ、西国一の賑わいであったといわれている。この市は長く繁栄し、江戸時代まで続いたという。

弘安元年(1278)に一遍が布教に訪れて280名もの住民が出家したと伝えられている。その様子は一遍死後に描かれた『一遍上人絵図』に描かれている。なお、これには福岡市の様子も描かれており、その繁栄ぶりが全国的に有名となった。

また、この地に住み着いた刀工はと呼ばれる名刀を生み出し、福岡一文字や備前長船などといった有名な刀工派閥が誕生、備前刀として伝統工芸となり今に残る。さらにはこの地は備前焼の集積地としても知られていた。

室町時代から南北朝時代になると最勝光院領を経て、後醍醐天皇の命により東寺領とされた。また、この頃、吉井川の中州に福岡城が築城され、北朝の赤松氏の支配下に置かれており、観応元年(正平5年/1350)には足利尊氏が、応安4年(建徳2年1371)には今川了俊も陣地を構えている。 (ウィキベディアより)

     

   

妙興寺には、官兵衛の曽祖父のお墓があります。

      

吉井川近くには、「福岡市 跡」の碑が建っています。また「一遍上人」の布教の絵図もあります。

   

町には、バス停みたいな小路の案内板があります。

    

    

駆け足で町の中を廻りましたが、静かなとても落ち着きのあるいい町でした。

また長船町の中には「備前長船刀剣博物館」もあります。