よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

京街道(東海道57次)「守口宿~大阪・高麗橋へゴール!」後編(大阪府守口市~大阪市中央区)

2022-12-02 04:48:29 | 京街道(東海道57次)

(前編からの続き)  

 京街道(京都・山科~大坂・高麗橋)ゴールしました!

本町橋から先に進みます。

 

京街道は、京阪東通り商店街の中を通っています。

 

太子橋から大阪市旭区に入ります。

京街道は、文禄年間(1592~1597)淀川左岸の堤防を改修し堤防上に陸路を開いたのに始まります。当初は大阪城京橋口が起点でしたが、江戸時代になって高麗橋東詰に移りました。

 

   

木犀(もくせい)の陣屋跡・・・古市村大字森小路字森の淺田邸の庭園に、みごとな木犀が三本あり、花の季節には蒲生や関目まで香りを漂わせ、それを愛でた十四代将軍徳川家茂が

淺田家に宿泊、多くの大名も守口宿を淺田家に替え宿泊したと言われています。当時、淺田家は森小路の庄屋で、木犀の陣屋、木犀の庄屋として江戸時代まで有名だったと言いますが、

陣屋の建物は現存していません。跡には小さいですが、木犀の木が3本立っています。

 

千林商店街を通ります。

 

古市橋

 

関目交差点 この辺りは、京街道七曲りと言って街道が複雑になっています。

 

秀吉が大阪に都をおいた際、鬼門の治めとして置いたのが関目神社(須佐之男尊神社)です。

大阪城築城の際に、現在の古市森小路からこの関目の地にかけての道路(1kmあまり)を特に屈折させて、敵が攻めてきた時に進軍を防ぎ、敵軍兵数を察知するのに便利なようにしました。

これは俗に「七曲り」といわれています。これと同時に大阪の北の護りとして武神である須佐之男尊を祀り、大阪の鬼門に当るので、鬼門鎮護の神として毘沙門天王を勧請して小さな社を

建立しました。これがこの神社の由緒だと伝えられています。「関目神社」というのは通称で、由緒からもわかるように正式名称は、「須佐之男尊神社」です。

社殿は生徳年間(1712~13年)の台風による被災や明治十八年の大水害により流出するなどしましたが、明治二十一年に復興しました。現在の本殿は、昭和五十二年に再建されたもの。

また毘沙門天王社は昭和六十年に再建されたものです。

この神社の境内には、「関目発祥之地」の石碑があります。現在の野江・関目を中心とした一帯は、平安時代以降は榎並荘と呼ばれていましたが、そのころからこの地は「関目」と

呼ばれていました。この地に見張り所(目で見る関所)があったことから生まれた名だといわれています。

 

阪急オアシスで休憩。

  

休憩後再スタート。

 

榎並地蔵・・・いつから祀られてたかは、不詳ですが古くから野江村の方々により大切にお祀りされていました。石に二体の人物像が彫られ、榎並地蔵として後に発見された

道標と一体の石仏と考えられています。

この辺りの地名が「榎並(えなみ)」です。多分榎の並木があったからだと思いますが、大阪・城東区のHPに由来が載っていました。

野江・関目を中心とした周辺一帯をいい、平安時代以降は榎並荘として史上によく知られていたのは、この地が近衛家の荘園であったからです。

言い伝えによると、この地一帯は大榎の繁茂した地であり、その森には鬼女が住んでいて、往来の人々を苦しめていたのを北面の武士の橘氏をはじめ36人が勅命によってこれを

討ち取りました。この功によりこの地を与えられ、榎を伐採して開懇したことにより榎並の名が起こったといわれています。

また、当地は河内の入江と大川の間に形成された干拓地で、茨田堤の構築により陸地化が進み、平安時代には農地になりますが、この地が大川の南、つまり「江南」に「榎並」の字を

あてたともいわれています。明治22年4月、野江村・関目村・内代村の3村が合併して榎並村となり、大正3年(1914年)10月に榎並町になりました。(大阪・城東区HPより)

 

 

京橋中央商店街に入ります。商店街の中が京街道です。

 

 

京阪の高架沿いに歩きます。

 

寝屋川橋東詰から京橋へ。

京橋の所には、「京橋川魚魚市場跡」の碑があります。江戸時代の川魚市場の跡で、明治時代の末期に中之島に移転するまで、この地で賑わっていたようです

  

京橋(橋梁)は京街道の起点(のち高麗橋に変更)、また東海道五十七次の終点(江戸日本橋から137里4町1間)であり、大坂では数少ない公儀橋でした。江戸時代の擬宝珠には

「元和九年造立」(1623)の銘があった現在と異なり、最長時には100メートルを超える長さを誇っていました。

北詰には京街道沿いに相生西町・相生東町・野田町といった町並が形成され、川魚市場もあり、大坂の玄関口の一つとして賑わいました。南詰は大阪城の虎口の一つである京橋口となります。

 

京橋からは、大坂城が見えます。

 

先へ進みます。

 

 

下記の地図を見ると大阪には、橋が多いですね。

天満橋は、大川に架かる天満橋筋(府道30号線)の橋です。難波橋、天神橋と共に浪華三大橋と称され、最も東(上流)に位置します。

京阪天満橋のガーデンテラスで休憩します。大川(旧淀川)には、屋形船、水陸両用バスなどの観光船が運行しています。

大川沿いには、桜の木がありますので桜の季節には水上からのお花見が楽しめそうです。

 

平安時代、八軒家浜は渡辺の津と呼ばれ、京都からの人々が船を下り、熊野古道へ発つ起点として、大阪の水運と陸路を繋ぐ交通の要所でした。江戸時代には、京都と大阪を結ぶ舟運の要衝

として賑わいました。八軒の船宿があったことから八軒家浜と呼ばれるようになりました。

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や司馬遼太郎「竜馬がゆく」、浪花節「森の石松三十石船」にも八軒家が出てきます。

 従来も、緑道や駐車場として利用されていましたが、平成18年度に京阪電鉄中之島線の建設事業に合わせ、水辺のにぎわい創出、舟運活性化のための水辺空間整備が行われました。

歴史的価値のある八軒家浜を再生するため、地域の住民や企業などと協議を行い、平成20年に雁木・遊歩道・船着場が、平成21年にはにぎわい施設「川の駅 はちけんや」が整備されました。

 

八軒家浜の常夜灯・・・安政7年(1860)、夜の乗下船時の安全の為、地元の町人が燈籠を建てました。その燈籠は、明治時代ごろに生国魂神社へ移され、北門に現存しています。

この燈籠は、残されていた図面を元に復活させたものです。

  

平安時代の後期(11~15世紀)ごろ、現在の天神橋付近は、渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれ、港として熊野参詣に利用されていたため、熊野古道の起点として有名になりました。

熊野古道にはいくつものルートがあって、特に紀伊路、中辺路には、渡辺津から熊野三山までの間に百ヶ所近くの熊野権現を祭祀した九十九王子がありました。

一の王子(窪津王子)があった場所は、現在の坐摩(いかすり)神社行宮とされています。

  

今橋から高麗橋へ。

 

14:15   「高麗橋」に到着しました。

ゴールの高麗橋には、私の街道歩きの師匠「ランドセルさん」がお出迎えに来ていただきました。

ランドセル師匠とは、5年ぶりぐらいの再会です。

 

   

高麗橋は、豊臣秀吉の時代に大坂城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、江戸時代になると、交通の要所であるこの橋は、幕府が直接管理する公儀橋として重視されました。

現在の橋は、昭和4年(1929)に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋として今も現役として使用されています。

明治時代には、高麗橋東詰に里程元標が置かれ西日本主要道路の距離計算は、ここを起点として行われました。

それにしても高麗橋は、江戸の日本橋に似ていますね。

 

本日のGPSです。

このあと、師匠が、緒方洪庵の旧宅、福沢諭吉生誕地を案内していただきました。

緒方洪庵旧宅(適塾)・・・・ 洪庵(1810~1863)は岡山の人で17歳で来阪、中天游に学んだ。天保9年(1838)洋学を志す者のために、自宅に塾を開いた。

1階の奥が洪庵の家族の住居で、2階は塾生が起居していた。そのなかから、大村益次郎(ますじろう)・橋本左内(さない)・福沢諭吉・長与専斎(ながよせんさい)らを輩出し、

また洪庵は、大坂で最初の種痘を実施するなど医学者としても活躍した。

 

  

福沢諭吉生誕地・・・・私は、福沢諭吉は大分・中津で生まれたと思っていましたが、ここ大阪の蔵屋敷で生まれていました。

  

淀屋橋で師匠と別れ、歩いて今日のホテルに向かいます。

 

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今年は、奥羽街道(江戸・日本橋~福島・白河)、京街道(京都・山科~大阪高麗橋)を完歩しました。

来年は、どこかの街道に挑戦したいですね。