5/22(火)
西日本グリーンパス最終日のこの日、念願の「竹生島」(ちくぶじま)に行ってきました。
竹生島は、長浜市の沖合にある周囲2km、面積0.14㎢の琵琶湖で沖島に次ぐ2番目に大きな島です。島の名前は、「(神を)斎(いつ)く島」に由来し、その中の「いつくしま」が
「つくぶしま」と変じ、「竹生島」になりました。また、竹生島という漢字は、島の形が雅楽などで使われる楽器の笙に似ていることから名付けられたという説などがあります。
琵琶湖八景の一つに数えられ、平家物語「竹生島詣」や謡曲「竹生島」にも神秘的な美しさを秘めた島として登場し、千年を経た今日でも、その姿は人々の心をひきつけて
やみません。(竹生島パンフより)
竹生島へは、長浜港、彦根港それと今津港からの航路があります。今回は今津港から。往復の乗車券は、2700円。
出港まで時間があるので港の周りを散策します。
琵琶湖周航の歌の誕生の地は、ここ「今津」だそうです。(詳細は、琵琶湖周航資料館の時に紹介します)「今津」という地名は、3番の歌詞に出てきますね。
そういえば、私には記憶がありませんが、姉たちに言わせると、母がよくこの歌を口ずさんでいたそうです。福岡にも「今津」や「長浜」がありますので懐かしがっていたのかな?
9:30今津港を出港。
約25分で竹生島に到着。竹生島に住んでいる人はいません。お寺や神社、売店などに関わっている方は、皆さん船で通勤されています。
竹生島には、琵琶湖周航の歌4番の歌詞の歌碑が建てられています。
この島には、神社とお寺が一つずつあります。西国三十三カ所観音巡りの三十番札所である宝厳寺(ほうごんじ)、そして竹生島神社とも呼ばれる、都須夫麻神社(つくぶすまじんじゃ)。
都須夫麻神社は、明治に発布された「神仏分離令」によって、宝厳寺から分離する形で建てられました。なので、どちらの寺社も同じ神様を祀っています。
拝観料600円を支払い島内へ。
先ずは、「宝厳寺」(ほうごんじ)へ。
竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、
五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。
行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)をご本尊として本堂に安置。翌年には観音堂建立を発案しました。後年、その遺志を継いだ浅井の大領が千手千眼観世音菩薩像を
安置しました。それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。
当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602年)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や
唐門などを移築させています。
本尊の大弁才天は、江の島・宮島と並ぶ「日本三弁才天」の一つで、その中で最も古い弁才天です。そのために当山のみ「大」の字をつけ、大弁才天と称します。
開山時(724)聖武天皇の勅命を受け、僧行基が開眼したものです。本堂は、昭和17年(1942)に再建され、現在の本尊の弁才天像を安置しています。
弁才天:平安時代から続けられている竹生島弁才天の祭り「蓮華会」で頭役を務めた浅井久政(長政の父)が小谷城で祀られた弁才天を奉納しています。
不動明王:上の牙歯で下唇をかむ忿怒の様相を示す不動尊、一木造りの構造で造像は、平安時代後期頃と考えられ竹生島現存最古の彫像です。
三重塔:文明19年(1487)に宮大工・阿部権守が建立。江戸時代初期に落雷で消失しましたが、図面を発見し、平成12年(2000)に350年ぶりに再建しました。
古来の工法に基づいて建築し、四本柱に32体の天部の神々を描き、四方の壁に真言宗の八人の高祖を配しています。
急な階段を下りていきます。
唐門:唐門とは、唐破風を持つ門という意味です。この『唐門』は、秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた『極楽門』を豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築された
ものです。移築の際、土地の条件から観音堂に接して建てられています。桧皮葺、建物全体を総黒漆塗りとした上に金鍍金の飾金具が散りばめられ、虹梁中央の蟇股の周囲には鳳凰や
松・兎・牡丹の彫刻を、二枚の大きな桟唐戸や壁には牡丹唐草の彫刻を極彩色塗りとして飾っています。豪華絢爛と言われた桃山様式の『唐門』の代表的遺構です。
文献としては、醍醐寺座主三宝院義演による日記『義演准后日記』に、大坂城の極楽橋が豊国神社に移築された旨の記述があり、また、豊国廟社僧の梵舜が『舜旧記』 にて、豊国極楽門を
竹生島に寄進したとの記述を残しています。この二つの文献の記述により、大坂城の極楽橋が竹生島宝厳寺に移築されたことは間違いないでしょう。
船廊下:この廊下は、観音堂移築と同時に掛けられ、秀吉の御座船「日本丸」の骨組みを利用しています。急斜面に掛けられたため、その足元は、高い舞台構造(懸造)となっています。
これも唐門・観音堂と同時期に桃山様式で作られたものです。
船廊下を渡ると、都久須麻神社(竹生島神社)です。
関白秀吉公が、時の天皇をお迎えするためにその時代の粋を集めてつくった「日暮御殿」という伏見城内最高の建物を神殿として寄進したものです。
殿内には、狩野永徳・光信筆の天井絵・襖絵などをはじめ、高台寺蒔絵の柱・長押など建物すべてが極彩色に飾られており、桃山文化の代表的な国宝建造物です。
本殿内部のいたるところに華麗な装飾をみることができます。
祭神は、市貴杵島比売命(弁財天)、宇賀福神、浅井比売命、龍神です。
八大龍王拝所から突き出たところにある鳥居に向かって「かわらけ」という小さな小皿を投げます。その小皿、かわらけが見事鳥居をくぐりぬければ、龍神様が願いを叶えてくれる
そうです。(鳥居の下には、かわらけがたくさんあり、白い砂のように見えます)
竹生島神社を下り、船着き場に戻ります。ちょうど彦根港から来た船が停泊していました。井伊家の家紋などでラッピングされていました。
11:15 竹生島発の船で今津港へ戻りました。