よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

薩摩街道(豊前街道)を歩いています。その1「石櫃(福岡県朝倉郡筑前町)~古賀茶屋(久留米市宮ノ陣)」

2021-05-12 11:21:14 | 薩摩街道(豊前街道)

今度の街道歩きは、「薩摩街道(豊前街道)」です。

薩摩街道は、福岡県の山家で長崎街道から分岐して久留米・熊本・八代・水俣・出水を経て串木野から薩摩半島を横断して鹿児島に至る約395kmの街道です。

久留米では、坊津に通じる道から「坊津街道」、熊本では、熊本城を起点に薩摩に通じる道を「薩摩街道」、江戸方面の豊前(福岡県北九州市)までの道を「豊前街道」と

呼んでいます。今回は、山家から熊本までの「豊前街道」(約110km)を歩いてみたいと思っています。

豊前街道は、山家をスタートし、(今回は、石櫃の追分石から)松崎宿(小郡市)~筑後川~府中宿(久留米市)~羽犬塚宿(筑後市)~瀬高宿(みやま市)~原町宿(みやま市)~

南関宿(熊本県玉名郡)~山鹿宿(熊本県山鹿市)~味取新町(熊本市)~熊本宿(熊本市)まで歩く予定です。

薩摩街道(豊前街道)第1日目 2021年(令和3年5月9日)

朝8時半に福岡の自宅を出発し西鉄朝倉街道駅からバスで石櫃まで行く。豊前街道は、山家が起点ですが、先月、山家から日田街道を歩いていますので石櫃の追分石からスタートします。

10:12スタート。

  

筑前町のマンホールです。筑前町は、平成17年(2005)夜須町と三輪町が合併して発足しました。町の木と花、鳥は、松、藤、鶯です。

  

県道53号線沿いに歩くと、「東小田峯遺跡」があります。説明書を読むと「弥生時代を中心とする一大拠点集落で竪穴住居跡457軒、甕棺墓532基などを検出しました。

前期の墓地は、八基の土壙墓をコの字形の溝で区画し、盛土をもつ墳丘墓で小型の壺が副葬されていました。各土壙墓間に身分の差はありませんが、選ばれた人たちの墓地でしょう。

中期の墳丘墓は10号甕棺墓に副葬品が集中し、中国の前漢時代(紀元前202~紀元8年)のガラス製の壁2個、青銅鏡2面の他、鉄製の剣、戈(か)、毛抜きが出土しました。

この甕棺墓は、この地方の「王墓」と考えられています。」

先月日田街道を歩いた時もこの筑前町には、梨子木遺跡、大木遺跡がありました。また、朝倉市には大規模な平塚川添遺跡があります。

古代この辺りは、大きな集落があったのでしょう。

 

曽根田川を渡って右折します。左側には、「水神社」があります。ここは、曽根田川と宝満川が合流する所です。水害被害除けとして勧請したのでしょうか?

入口には「河工事記念碑」もありました。

  

しばらく歩くと筑紫野市に入ります。このあたりは、昨年小郡市のカエル寺に行ったときに通りました。

  

野添の天満宮を通ります。その先の右側には、筑前国と筑後国の「国境石」が立っています。筑前側が「従是北筑前国」筑後側が「従是南筑後国」。

車のナンバープレートも筑前側は、「福岡」ナンバー、筑後側は、「久留米」ナンバーになります。

  

乙隈の国境石を過ぎると小郡市に入ります。乙隈の信号の先には、「野越堤」があります。平成28年の道路工事中に、旧薩摩街道の全長約90メートルにわたって石垣・石敷が発見されました。

道路西側法面に高さ1.5メートルにわたって6段に石が積まれ、下面には幅1.5メートルにわたって5石分の石敷きがあり ます。確認調査の結果、粘土と砂を交互に積み重ねて造った街道に、

石垣と石敷を施していることがわかりました。使用された石材は大きさ30~60センチメートルの花崗岩で、石質・色味から花立山古墳群の石室に使用されていたものを再利用した可能性が

考えられます。この野越堤は、参勤交代道である薩摩街道を北側を流れる草場川の洪水から守るための施設です。洪水で水がオーバーフローした際に、流水で街道が壊されることを防ぐため、

石垣・石敷によって野越しの機能を持たせました。これにより、洪水による崩壊を最小限に食い止め、破損個所も限定させて復旧を速やかに行うことができるようになります。

当時の人々の自然災害に対する考え方や工夫が分かる重要な発見で、水利土木史上貴重な遺跡です。(小郡市HPより)

  

干潟の一里塚 赤松医院を過ぎると、一里木というバス停があります。そのバス停の所に半分土中に埋まった「一里塚」があります。昔は、榎が植えられ、その木陰で旅人たちが休んで

疲れを癒した所でした。

   

立石の信号から右折しなければいけなかったが、直進してしまい、干潟信号の所で気づき引き返します。

小郡市立立石中学校の入り口には、薩摩街道(豊前街道)の説明版があります。立石中学校の近くには、造園業者が何軒か立ち並んでいます。街道の脇には、植木が植えられています。

 

大分道の高架下を過ぎると、「松崎」です。松崎宿の入口には、霊鷲寺があります。

霊鷲寺(りょうじゅうじ):もともと三潴郡西牟田(現筑後市)にあった寺で、延宝八年(1680)、松崎宿の鎮護としてこの地に移されてきた。勅願寺であるため、街道を通る諸大名も

この寺の前では、駕籠や馬から降り、礼拝してから通過したといわれている。

  

霊鷲寺の参道には、両側に杉並木が植えられています。

 

「松崎」の地名は、有馬豊範が久留米藩から御原郡19ヶ村一万石の分地を受け、寛文9~12年(1669~72)に御原郡内の山隈原の一角「鶴崎」の地に城を築き、鶴崎を松崎に

改めたことに由来します。延宝二年(1674)従来の往還である久留米より横隈への宝満川右岸を通る横隈街道に代わり、北は山家宿(筑前町)、南は府中宿(久留米)に至る松崎街道が

天下道と定められたのに伴い、城下町である松崎の地が宿場町として整備されていった。貞享元年(1684)の松崎藩改易の後も参勤交代道として、薩摩藩(島津氏)、熊本藩(細川氏)、

柳川藩(立花氏)等九州の主だった大名がここを通り重要な宿場町として繫栄していった。

慶応年間の資料によれば、松崎宿の総戸数は、129軒で大名や小名が宿泊する「本陣」「脇本陣」を含めて旅籠が26軒、賄の付かない「木賃宿」が若干あったという。

旅籠以外には、「駅伝(継立)」を設けて物資・書状の運搬にあたったほか、旅人の為の「立場茶屋」もあり、これに食料品や日用品を扱う商家も含めれば当時の松崎宿の賑わいが

しのばれる。こうした宿場町の運営は、庄屋・町別当があたり、必要があれば問屋(駅伝)、町年寄、組頭らが加わった寄り合いによって合議されていたという。

  

松崎宿歴史資料館は、三原家の土蔵の跡です。

 

旅籠「油屋」は、西郷隆盛も宿泊したそうです。

 

 

桜馬場の標識から右折します。

   

途中、詩人「野田宇太郎歌碑」がありました。野田宇太郎は、小郡市の出身です。

  

桜馬場の突き当りには、「松崎城跡」があります。

 

松崎城の本丸は、現在の県立三井高校の中にありました。

 

先に進みます。鶴小屋というのがあります。(現在は空き家みたいですけど)黒岩家の住宅で、黒岩氏は元和6年(1620年)吉兵衛が久留米有馬氏と共に丹波(京都府福知山市)より入部し、

御鶴番(鶴は高級食材として重宝された)として久留米藩に仕えた。御鶴番は松崎の最南端(現下岩田)にあり、軍事的役割も担ったとされる。この後、幕末から明治にかけて

「御宿 鶴小屋」を始めた。現存する家屋は明治28年(1895)に建てられ、平成12年まで実際に居住されていたそうです。そういえば、松崎の町の名前の前身が鶴崎、関係ありそうですね。

 

枡形道路の先には、松崎宿北構口です。

  

下岩田に着きました。標識には「消えた薩摩街道下岩田」と書かれています。何かテレビのサスペンスドラマのようです。これは後で説明します。

  

古飯と書いて「ふるえ」と読みます。ここには、二人の偉人の記念碑が立っていました。

高松凌雲は、日本赤十字精神の祖と呼ばれています。天保7年(1836)古飯の庄屋高松家の三男としてこの地に生まれた。成人するに及んで久留米藩家老の家臣川原弥兵衛の養子となるが、

24歳の時に脱藩して医学の道を志す。江戸で医学の修養に励んだ後、文久元年(1861)には、大阪の緒方洪庵塾(適塾)への入門が許されている。その後一橋家に仕官したのをきっかけに

慶応2年(1866)には、15代将軍徳川慶喜の奥詰医師を命じられた。慶応3年には、徳川昭武(慶喜の実弟)に随行してフランスに赴きそのままとどまって医術(外科学)の研究を続けていたが、

翌年戊辰戦争勃発の報を受け、急遽帰国した。帰国後は、榎本武揚らと行動を共にするが、箱館では病院頭取として敵味方なく傷病兵1300余人の治療にあたった。

戊辰戦争後は、一介の町医者として開業し、明治12年(1879)には、医師仲間と「同愛社」を設立し貧民治療に努めた。凌雲は大正5年(1916)東京の自宅で生涯を閉じるが、同愛社は、

昭和20年まで続き戦前の日本における社会福祉医療の一端を担った。

日本赤十字というと、佐賀藩の佐野常民を思い出します。高松との接点があったのでしょうか?

古屋佐久左衛門:幕末開国論の先覚者古屋佐久左衛門は、高松虎之助直道の次男として天保4年(1833)筑後古飯に生まれる。(高松凌雲とは、3歳上の兄)

医学を志し大阪に出ますが、医学が性に合わない事を悟り、江戸に向かい英語や洋学を学び、洋学書の翻訳などを手がけます。また婿養子で古屋家を継ぎ幕臣となります。

戊辰戦争では坂本龍馬を斬ったとされる今井信郎(のぶお)と共に衝鋒隊を率い北関東、越後、会津、箱館と転戦し最期は官軍の艦砲射撃に合い被弾、37歳で幕府に殉じます。
語学堪能で神奈川奉行所で通訳していた頃に横浜で町屋の子供がイギリス人の乗った馬に蹴られ大怪我をする事故が起こりますが、泣き寝入りになりそうなところを佐久左衛門が

イギリス領事館に乗込み交渉、治療費を出させたと言う逸話を残しています。

   

古飯の町を先に進むと、「郡境石」があります。この境石は、当時の御井郡(北野町他)と御原郡(小郡市など)の境界を示すために文政12年(1829)に建てられました。

  

マップでは、天満神社を大きく廻るようになっていますが、先を行くと「圃場整備の記念碑」が立っています。それからの道がありません。

少し戻って畑の手入れをしている方に聞くと権藤鉄工の方から公民館の方に向かったら国道322号線に出るとのこと。

なるほど、「消えた薩摩街道」というのは、これの事だったんですね。

江戸時代に参勤交代の道として利用された薩摩街道は、小郡市内の光行から乙隈まで、市東部を縦断しています。小郡市東部はのどかな田園風景が今でも残っている地域で、薩摩街道も

ほぼ現存しています。ただ、数箇所で昭和56年(1981)に着工した御原圃場整備などの影響で道が無くなっています。道が突然消えているので不思議な感じがします。

消えたポイント ①平方区松行の平方圃場整備事業竣工記念碑の数10m先の途切れた場所

 竣工記念碑の南側は田が広がり、その中を街道は光行茶屋方面へ道は伸びています。しかし、数10mで突然、街道は途切れています。

        ②古飯南枡形で消えた場所    枡形の形状がかなり失われていると同時に当時の街道も失われています。

        ③下岩田区藤三町(トウゾウマチ)で途切れた場所

 古飯の北枡形を過ぎて下岩田に入ってすぐにT字路になり、T字路の先の部分の街道は消えています。田が利用されていない時には、旧街道跡がうっすらと見えることもあるそうです。

        ④下岩田区寺川で途切れた場所  下岩田区野田に旧街道の一部が残っていますが、その前後の街道は田んぼとなっています。(小郡の歴史と文化を守る会より引用)

  

何とか、国道322号線に出ることができました。

 

光行土居は、宝満川などの氾濫に備えた土手で、中世から街道に利用されたと考えられます。大正時代頃までは、十数本の榎の大樹があり、その付近には茶屋が6〜7軒

あったと伝えられています。現在では、桜並木になっています。
市境を越えてすぐ、久留米市宮ノ陣町八丁島の国道322号線の脇には、一里塚跡の碑が立っています。

  

光行土居を歩いているときは、車に気を付けなくてよかったのですが、土居が途切れた所から国道322号を歩きます。この国道交通量が多く、大型のトラックがスピードをあげて

通り過ぎています。おまけにこの国道には、歩道がありません。怖いです!ふと、土手の下を見ると国道と平行した道があります。こっちの方を通ればよかったかな・・・・

 

15:23 今日のゴール西鉄古賀茶屋(こがんちゃや)駅にゴールしました。

  

福岡県は、12日から緊急事態宣言が発出されましたので次回はいつ行こうかと考えています。

今日のGPSです。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿