よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

薩摩街道(豊前街道)を歩いています。3日目(その2)「羽犬塚(筑後市)~瀬高(みやま市)」

2021-05-27 18:22:28 | 薩摩街道(豊前街道)

(その1)からの続きです。

タマホームスタジアム筑後の先の信号を左折します。このあたりに「今寺番所跡」があるそうですが、見つけられませんでした。

旧街道は、光明寺を通ってまた県道96号線に戻ります。

  

筑後広域公園プールを過ぎるとみやま市瀬高町に入ります。

 

行基が造った「行基橋」。橋の手前には、行基を祀った「お堂」があります。※326 本郷の行基橋 瀬高町 (biglobe.ne.jp)

 

行基橋を渡ると、右側に瓦葺の堤防があります。多分高貴な方の渡し場の跡ではないでしょうか?

 

本郷の信号の手前、右側に神社があります。何て書いてあるかわからず、近くの魚屋さん、農家の方に聞きますがわからないとのこと。

帰って調べると「聖母宮(しょうもぐう)」だそうです。お宮なのに聖母?何か不思議に感じますが、もともと長崎県壱岐市にあるお宮で神功皇后をお祀りしているそうです。

 

 

中山のゑびす像あたりから、柳川市三橋町に入りました。三橋町も昔は、山門郡でしたが、平成の大合併で柳川市に合併しました。

中山の大藤の信号の先に「二里石」があります。説明文を読むと、

関ヶ原の合戦で石田三成を捕らえた田中吉政は、慶長6年(1601)に筑後33万石の領主として柳川城に入りました。吉政は柳川城の大掛かりな改修や長大な干拓堤防(慶長本土居)の築造、

柳川城と支城の久留米城とを結ぶ通称田中道を初めとする幹線道路の整備などを行いましたが、筑後全域の道路に柳河辻町の札の辻ノ辻の標石(現在の柳川市辻町交差点)を基点とする

一里ごとの標識を置きました。標識として、瀬高道、三池道など筑後南部には標石(一里石)が建てられ、田中道(久留米往還)など筑後北部には塚(一里塚)が造られました。

この二里石は、柳川から矢部川沿いに豊後国(大分県)に向かう道路に置かれたもので、川に近い二里石付近は堤防上に道路がつくられいました。手前の一里石は久末にあります。

この道は二里石の先で二手に分かれ、もう一方は現在の筑後市を経由して久留米に向かっています。逆に中山から柳川に向かうと、柳川から肥後、薩摩に向かう街道に合流します。

そのため、江戸時代の中山周辺は人の往来が盛んであったと考えられます。
当時の二里石は大正期に堤防を低めた際に失われ、現在の二里石は昭和57年に地元有志によりほぼ元の位置に復元されたものです。          平成22年3月   柳川市

  

街道とは、ちょっと離れますが、「中山の大藤」がある熊野神社に立ち寄ります。

毎年「中山の大藤」は、見に来ているのですが、昨年、今年とコロナ禍で「密」になりそうなので行きませんでした。写真は2019年のものです。

来年こそ、マスクを外して見に行きたいですね。

 

 

街道に戻ります。三軒屋の信号を左に行けばよかったのですが、真っすぐ行ってしまいました。途中、金屋久橋で間違っていることに気づき、三軒屋信号迄戻ります。往復約2,5kmのロス。

 

三軒屋の信号から瀬高町上庄になります。瀬高町は、瀬高橋を挟んで上庄と下庄に分かれて宿場がありました。

瀬高町は、酒造業が多い町です。江戸時代柳川藩では、藩の財源を図り、酒に適した豊富なコメと良質な水があり、更に矢部川には、輸送に適した港があることから瀬高に酒造業を推奨しました。

 

 

ふくおかウォーキング協会の〇〇さんの母校「福岡県立山門高校」です。

国道443号線と交差する所が、瀬高上庄のお茶屋跡です。現在はその遺跡が見られません。バス停だけがその姿を残しています。

 

国道を横断し旧道を歩きます。このあたりは、国道から離れているせいか、旧家が残っています。

みやま市に入って思うことは、みやま市には、歴史的建造物の案内板が少ないということです。前もって調べておかなくては、迷うこともあることでしょう。

 

瀬高町上庄の八坂神社です。上庄八坂神社では毎年7月21日に「提灯ぞろえ」、24、25日には「大人形祭」を開催。魚鱗・魚皮・虫の羽・貝殻・木皮などを材料とした高さ2.5m・直径1mの

大提灯には人物、風景などが描かれ、氏子の若者によって町内を回ります。高さ約2mの大人形は、柳川藩祖立花宗茂公が霊夢を見て始められたと伝えられ、向かって右が八幡太郎義家、

左は安倍宗任もしくは貞任を毎年交互に立て、中央に祇園宮の被壇を設けます。大人形の股をくぐれば、無病息災のご利益があるといわれ、昭和31年(1956)、県の有形民俗文化財に

指定されました。

  

八坂神社の隣は、児童文学者「與田準一」の生家です。「ことりのうた」を作詞。【童謡】ことりのうた♪ - Bing video

 

與田準一生家の向かえは、「菊美人酒造」です。北原白秋の実姉が嫁がれた酒蔵です。そういう縁で與田準一と北原白秋は交流があったそうです。

與田準一記念館は、みやま市図書館にあります。(現在緊急事態宣言で休館中)

菊美人酒造から瀬高橋を渡ります。

 

橋を渡った左側には、「池田屋酒造」です。

 

橋を渡ると瀬高町下庄になります。

 

旧道の突き当りが星隈酒造です。その先の新町公民館の前には、「伊能忠敬測量基点之地」の碑が建っています。

碑には、「伊能忠敬は、寛政10年(1800)より十七年の歳月を費やして全日本地図を完成した人で当地方を測量して廻ったおり、この地点を測量基点と定めた」とかいてあります。

  

 

旧街道の中ほどには、「松尾宮」があります。松尾宮の詳細はわかりませんが、瀬高には、酒造の蔵元が多く、京都の松尾神社(酒造りの神)を勧請したのではないでしょうか?

  

13:45JR瀬高駅にゴールしました。

本日のGPSです。

 

 


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