今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

シンザン(日本の競走馬)が5冠を制した日

2005-12-26 | 歴史
1965(昭和40)年の今日(12月26日)、ナタの切れ味”と呼ばれた日本の競走馬「シンザン」が有馬記念を勝ち5冠馬となった。
1964(昭和39)年、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が営業を開始(ともに10月)した。まだ、経済的には明るい状況ではなかったが、この2大ニュースは戦後から完全に立ち直って新しい時代に突入したことを示す象徴的な出来事であった。当時の物価は週刊誌50円、大卒公務員の初任給が平均で約2万円、で、競馬の馬券一枚100円の価値は高かった。こんな時代背景のもとに、セントライト以来23年ぶりに、シンザンが史上2頭目のクラシック三冠馬になった。「シンザン」は、まさにこれからの時代を象徴するような馬として我々の前に出現した。そして、翌1965(昭和40)年、春の宝塚記念、秋の天皇賞(当時東京芝3200)を制して4冠馬となった「シンザン」は、堂々のファン投票1位で12月26日の第10回有馬記念に駒を進めてきた。このレースでは、陣営は、3年連続リーティングジョッキーになっていた関東の闘将加賀武見に騎乗を依頼するが、加賀は「シンザンに乗るよりもシンザンを倒したい」という考えから依頼を断りミハルカスに騎乗した。又、他の関東の有力騎手とも折り合いがつかず自厩舎の松本善登がシンザンに騎乗することになった。その事から「無敵シンザンに死角あり」とマスコミから騒がれたが、それでも、当日は単勝1.1倍の圧倒的1番人気だった。レースはシンザンがいつもの様に後方中団から進めてきたが、最後の4コーナーで、ライバル・ミハルカスの加賀武見騎手の奇策でシンザンは大外に振られて、TV中継のカメラの視界から消え、実況をしていたアナウンサーからも「シンザンが消えた!」と言うほどだったがこれはシンザンの松本善登騎手の好判断で自ら大外ラチ沿いからゴールを目指していたのである。そしてTVカメラが次にシンザンの姿を捉えた時は、シンザンが先頭でゴール板を駆け抜けていた。シンザンは見事な5冠馬となったのである。
競馬には現在、階級的に頂点のG1と呼ばれるレースがあるが、これは約20年前に導入されたものであり、シンザンの頃にはなかった。シンザンの頃にはG1に相当するものとして、八大競走と呼ばれるレースがあった。それは、皐月賞、日本ダービー(東京優駿)、菊花賞の3冠のほか、桜花賞、オークス(優駿牝馬)、天皇賞・春、天皇賞・秋、有馬記念の5レースである。このうち桜花賞とオークスは牝馬しか出走できないので「シンザン」は出走できない。更に当時は天皇賞に勝ち抜けという決まりがあり、一度天皇賞を制した馬は、もう天皇賞にでられない。だから、「シンザン」が5冠を制したということは、今で言う全てのG1を制したことになるのである。史上初の5冠馬となって、ミスターシービーやシンボリルドルフが出現するまで、日本競馬界の目標は長いこと、「シンザンを超えろ」であった。日本競馬史上有数の名馬「シンザン」は、通算成績は19戦15勝、しかももすべて連対(1着および2着)で、これは今も中央競馬レコードだそうである。内国産種牡馬としての功績も際立っており、競馬生活すべてにおいて、比類のない存在感を保った。競走馬の最長寿記録も作った不世出の名馬は、1996(平成8)年7月13日、35年の偉大な生涯を閉じている。
話変って12月25日に本競走が開催される時には『クリスマスグランプリ』と言われる。昨、12月25日’05年のフィナーレを飾る有馬記念(中山)が開催されたが、正にその『クリスマスグランプリ』に当たっていた。このクリスマスの日に本競走が開催されたのは、今年、2005年の第50回記念大会(5年に1度の記念大会として初開催)で5度目。
今年は、8日の有馬記念ファン投票の最終結果でも1位の座を獲得した無敗の3冠馬「ディープインパク」が主役だった。私は普段余り競馬を見ないが、話題の馬と話題のレースは見る。競馬で活躍する馬は、大きくてパワフルな馬というのがこれまでの常識であるが、三冠のかかった菊花賞で見た「ディープインパク」は、「ちっちゃい馬だなあ」と言うのが最初の印象であった。しかし、前半大きく離されていた「ディープインパク」が見せた最後の差し足は驚くほどの早さであった。ディープインパクトに騎乗の武豊騎手も、「空を飛ぶような走り」と表現しているが正にバネのある、常識を越えるほどの強い馬だった。ただ、1番人気 で単勝 7100 円では・・・。 『クリスマスグランプリ』有馬記念ではどうかと大いに期待していたが・・・。残念ながら、ハーツクライに半馬身及ばず、2着。デビュー8戦目で初黒星を喫した。ディープインパクは終盤の瞬発力が売り物だが、昨日は、最後の伸びが今ひとつであった。騎乗の武豊は「いつもの走りじゃなかった。こんなことは初めて、負けてはいけない立場で負けてしまい、ノルマを果たせなかった力のなさを感じます」(朝日朝刊)と感想を述べている。改めて、「シンザン」の強さを見直した感である。
(画像は、シンザン像。京都競馬場。以下参考のシンザン - Wikipediaより)
参考:
シンザン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%B3
名馬を振り返る50年/時代を駆け抜けた名馬たち/シンザン
http://www.jra.go.jp/50th/html/50horse/02.html
日刊競馬で振り返る名馬 - シンザン(1964年・菊花賞)
http://www.nikkankeiba.com/jra50/02/02.html
Yahoo!ニュース- ディープインパクト
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/sports/deep_impact/

クリスマス(キリスト降誕祭)

2005-12-25 | 記念日
今日(12月25日)は、「クリスマス(キリスト降誕祭)」。イエス・キリストの降誕記念日。
西暦336年にイエス・キリストの降誕の日と決定された。キリストがこの日に生まれたという確証はなく、ローマの冬至を祝う「太陽の祝日」と結び附けられたものと言われている。Xmas"とも書かれる。日本では1874年に最初のクリスマスパーティーが開かれ、現在では宗教を越えた年末の国民行事となっている。このクリスマスについては、既に、私のブログ、今日(12月24日)は、「クリスマス・イヴ」
で書いたので省略する。
福音書には、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ、以上の四つがある。福音書とは、新約聖書の中に「使徒言行録」や多くの手紙、「ヨハネの黙示録」と共に収められているもので、イエスの生(受肉)から死(十字架)、そして復活に至るまでの生涯を纏めた言行録であると同時に、人類に救いをもたらす喜びの知らせ、という意味で、福音の書と呼ばれている。
この中で、イエスの降誕は「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」のみに書かれているそうだが、それによれば、イエスはベツレヘムで生まれたという。マタイ福音書では、ヨセフは初めからベツレヘムに住んでいたように読めるが、ルカ福音書の場合は、住民登録のためにヨセフはマリアと共に先祖の町ベツレヘムへ赴き、そこでイエスが生まれたという形をとる。ベツレヘムはダビデの町であり、メシアはそこから生まれるという預言があった。これはそれにあてはめるための記述で、実際のイエスは恐らくナザレで生まれたと考えられている。
名前の「イエス」というのは、当時のユダヤ人の間ではごく普通の名前で、それに対して、「キリスト」は、「油を注がれた者」という意味のヘブライ語「マーシアハ」(これを日本語では「メシア」と呼んでいる)のギリシア語発音(正確なギリシア語発音では「クリストス」)に由来している。「具体的には、油注がれて「王」となったダビデの子孫から出て、終末の時にイスラエルを解放する政治的救世主として、ユダヤ人によりその来臨を待望されていた存在」を指す尊称。従って、「イエス・キリスト」というのは、イエスはキリスト(=メシア=救い主)である、という告白を圧縮した呼び名と言え、このことはとても重要なことだそうだ。それは、イエス・キリストは、キリスト教にとってのメシア/神/神の子であるが、イスラム教にとっての預言者だという。私は、その点について詳しく知らないので、興味のある人は、こちらを御覧ください。→イエス・キリスト
ルカ福音書では、宿が混んでいたために泊まれず、イエスを飼い葉桶に寝かせる。具体的にどこで産んだかは書かれていないが、伝統的にはこの場所、つまり厩(または牛小屋)ということになっている。その時に、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたため、彼らは幼子イエスを訪れる。
ルカによる福音書によるキリスト降誕の様子はこちらを見れば良くわかる。→La nativite/ キリスト降誕
このイエスの誕生を祝うキリスト降誕祭がクリスマスである。ところで、クリスマスイブは「クリスマスの前日」ではないってことはご存知?。英語で書くと 「Christmas Eveninng」、直訳すれば「クリスマスの夕べ」。実はクリスマスは24日の夜にキャンドルを灯してから始まり、翌25日の礼拝で一区切りするお祭りだったのだ。そして、イエス=キリスト誕生以前から、古代ヨーロッパの人々は冬至の夜(当時の暦で12月25日の前の夜)に「太陽の復活」を祝う冬至祭を行い、姿を隠した太陽神を拝み、酒を酌み交わして来たる年の豊作を祈ったという。つまり、真冬の折り返し点の、緑と太陽の復活を祈り、生命の誕生を祝う意味が昔からあったのだ。そして、この冬至祭の夜にはキャンドルを灯す。キャンドルの灯りに太陽の復活を願い、来年の豊作を祈ったのだ。地方によっては「火起こしの儀式」と言って、大きな薪を燃やし続けることもある。兎に角、冬至祭は炎の祭りでもあったのである。このような思想は、古今東西共通していて、日本の冬至の行事、「柚子湯」や「冬至粥」とも共通しているよね。この日本の冬至については、私のブログ、12月22日の「冬至」でも書いた。
中世ヨーロッパの農村では、11月には収穫を終えるが、この農閑期に結婚する習慣も、古今東西に見られる習俗であり、、ヨーロッパ中世農村での結婚相手探しの、一番のヤマ場がクリスマスにあったというのだが、このことが、現在の「恋人たちのクリスマス」のルーツかも知れないのだとか。その昔、アダムとイブは、楽園にある知恵の木の実(リンゴ)を食べて神の怒りを買い、罪を背負って楽園を追放された。おかげで人間は、神を裏切った罪のために寿命が来たら死ぬように定められた。これに対して、信仰のための「生命の樹」というものがあり、宇宙や神の教えを集約したこの樹は実在のものではないが、美しい三角形に枝をつけ、年中葉が枯れることのないモミの木が、この生命の樹に見立てられて信仰されるようになったという。このモミの木信仰と冬至祭の飾りつけが合体したものが、クリスマスツリーなのだそうだよ・・・。だから、クリスマスは、元々日本の行事ではないけれども、その始まりは、日本の冬至の行事(新嘗祭)と同じ様なものなのだということだけは理解できたかな・・・?。
(画像は、「イエス・キリスト 6世紀の宗教画」以下参考のキリストの降誕-Wikipediaより)
参考:
キリストの降誕-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E9%99%8D%E8%AA%95
La nativite/The Nativity キリスト降誕
http://www.ne.jp/asahi/jun/icons/theme/nativite.htm
クリスマスの日の起源
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/rkxmas.htm
新約聖書 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8
新約聖書(口語訳)
http://www.wcsnet.or.jp/~m-kato/bible/bible.html
聖書の物語  聖人/キリストの降誕  Nativity of Crist ・・・聖書に関係する色々絵画ヶ見られる。
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/Bible/BYoung/01Mativity/01Nativity.htm
CityDO! クリスマス特集2003:クリスマスコラム
http://www.citydo.com/xmas/column/column02.html

納めの地蔵

2005-12-24 | 行事
今日(12月24日)は「納めの地蔵」
地蔵信仰は、苦を代わって受ける身代わり地蔵信仰、子供を守り救う子安地蔵信仰など中世から民間に広まった。
地蔵菩薩の縁日は毎月24日であり、12月24日はその年最後の縁日として「納めの地蔵」と呼ばれる。又、1月24日は1年で最初の地蔵の縁日で「初地蔵」という。 地蔵菩薩は、サンスクリット語で「クシティ・ガルバ(Koitigarbha)」であり、「クシティ(koiti)」が大地を「ガルバ( garbha)」が胎蔵を意味することから「地蔵」になるらしい。地蔵菩薩の元となったインド神話の神が、バラモン教を通して仏教に取り入れられた「地天」だそうである。この「地天」に対して「梵天」があり、こちらは天を司る神で、これに対応するのが虚空蔵菩薩である。このように地蔵菩薩と虚空蔵菩薩は対にして作られたものだそうである。その後の信仰において、虚空蔵菩薩に対して、地蔵菩薩に圧倒的な人気があるのは、「民間信仰」と深く結びついたためではないだろうか。
日本では平安時代後期に末法思想が広まり、浄土信仰が台頭してから、地蔵信仰が貴族のあいだで広まった。死者が冥土に赴いて地獄の閻魔の裁きを受けて、苦しむのを救ってくれる存在と考えられたからである。仏典の「地蔵十王経」によれば、地蔵菩薩は、閻魔大王の化身と言われ、釈迦入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間、六道(地獄道・餓鬼道・阿修羅道・畜生道・人間道・天道)の一切衆生を、救うことを主な役目とした菩薩さまだと言うことになっている。本来、地獄の思想と地蔵菩薩とは全く別個のものであるから、両者にはつながりがない。しかし、地蔵がもともと「地」を司る神であることから、日本の農耕民族にとって最大の恵みを齎してくれる「土地」への素朴な信仰と密接に結びつき「地霊・田の神」とも無理なく融合して、民衆の間に地蔵信仰が浸透していったものと思われる。そして、右手に錫杖、左手に宝珠をもつ地蔵の姿も古い形の僧形の地蔵から童子の姿の地蔵に変化してゆき、呼称も「地蔵菩薩」から「お地蔵さま」に変化していくこととなる。地蔵が現実界と異界の境に立って、冥界にいくのを救ってくれるといった性格が強調されるが、それはもともと大地の神であるゆえ、地下世界において地獄に堕ちる衆生の済度にあたると信じられたからである。そして、毎月24日を縁日として地蔵を念じ、その名号を唱えて西方浄土への極楽往生を祈願したのである。よくお地蔵さんが6体並んだ「六地蔵」が見られるが、この六体という数は、先の六道から来ているのである。こうした現実界と冥界の境に立って救ってくれるという性格が,現実世界の境に立って守ってくれるというふうに拡大され、境の神・塞の神、すなわち道祖神としての性格をもつようにもなるのである。
京都では五山の送り火が済み、夏の終わりに催されるのが子供の祭りである”地蔵盆”である。昔は地蔵祭とか地蔵会などと呼ばれていたが、いつしか盂蘭盆になぞらえて地蔵盆と呼ばれるようになった。地蔵盆は子供のための行事であり、この期間子供はいろいろと優遇される。地蔵はよく子供と結びつけられるが、これは賽の河原地蔵和讃において、地蔵菩薩が幼くして死んだ子供を守る仏として描かれていることによると思われる。もともと、地蔵盆も宗教的な行事である以上、お坊さんによる読経などもある仏教的なものもあるのだが、メインは子供向けのイベントであり、この期間は子供にはとっても、楽しい時であり、市内各町内で子供たちが”地蔵盆”を楽しんでいるのとは別に、8月23、24日の両日。市内六つの地蔵を巡る大人たちの姿がある。六つの地蔵がある場所は、山科、伏見、鳥羽、鞍馬口、桂、常盤と、いずれも洛中と洛外を結ぶ街道の出入り口にあたるところに祀られている。所謂結界である。「六地蔵巡り」は、800年もの京の伝統行事と言われている。
(画像は、神戸市須磨区須磨寺の「六地蔵」)
参考:
六地蔵尊
http://www1.odn.ne.jp/hibikinada/rokujizou22.html
地蔵菩薩の部屋
http://www.geocities.jp/jizo_3/
地蔵信仰 じぞうしんこう
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H298C100.HTM
お地蔵さまの「正体」を探る
http://www.ten-f.com/ojizousama.htm
地蔵和讃
http://www.ffortune.net/spirit/tera/lib/wasan2.htm
京の六地蔵巡り
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/rokujizou-meguri.htm


「一心太助 (魚屋)」の忌日?

2005-12-23 | 人物
今日(12月23日)は「一心太助 (魚屋)」の忌日?
「今日は何の日」の記念日を見ていると、1674(延宝2)年の今日(12月23日)が 「一心太助 (魚屋)」 の死亡した日となっている。何を根拠に一心太助の忌日と言っているのかは知らないが、一心太助 と言えば、江戸時代初期、一介の町人であるが、その義気を、天下のご意見番「大久保彦左衛門」に愛されたといわれる人物。太助が愛称で、腕に「一心白道(いっしんびゃくどう)」の4文字の入れ墨があったところから一心太助と称されたという。大久保彦左衛門と一心太助の物語は鶴屋南北の弟子で江戸末から明治にかけて活躍した河竹黙阿弥(1816-1893)が書いた歌舞伎で世に知られるようになる。歌舞伎「芽出柳翠緑松前(めだしやなぎみどりのまつまえ)」では、江戸っ子の典型的人物(実は三河の武士の出だとか)。魚屋を営み、義理人情にあつく、大久保彦左衛門の家来株として活躍する。(三省堂提供「大辞林 第二版」)・・・とある。
川勝丹波守の悪事を暴いたり、江戸茅町の穀商松前屋五郎兵衛の無実を晴らしたと言わる。のちに義侠心に富む江戸っ子の典型として、歌舞伎や浪花節、講談の主人公となった。
昭和に入っても映画監督の沢島忠氏が故中村(萬屋)錦之助を主演(一心太助 )に「一心太助 天下の一大事」('58)「家老と彦左と一心太助」('61)などの映画を撮っている。錦之助の当たり役である。それ以外にもテレビの連続ドラマや映画の題材に使われていることからも、太助 の人気の高さがうかがえる。しかし、彼は、飽くまで、伝説上の人物であるが、なんと、彼の墓が東京都, 港区白金2丁目 ・立行寺にあるという。この寺は、大久保彦左衛門により建立され通称、大久保寺といわれているらしい。戦国の生き残りとして将軍の御意見番と言われた、旗本大久保彦左衛門忠教の墓の裏手に、魚屋・一心太助の墓もあるのだとか。一心太助が虚構の人物であれば、大久保彦左衛門も同様らしい。
われわれの知っている大久保彦左衛門は、「天下のご意見番」で、三代将軍家光にたいしても、我儘勝手言い放題の人物という格好のいい人物像であるが、現実の彦左衛門の方は、小田原城主大久保忠世の弟ではあったが、何をすることもなく駿河台の自邸で、ぶらぶらしているただの零細旗本の一人にすぎなかったようなのである。それは、さておき、一心太助は、一本気の威勢のいい魚屋として描かれているが、江戸時代初期の当時の魚河岸や魚屋というのはどんなものだったのだろう?
1590(天正18)年、徳川家康が江戸入りした時、家康に従うように摂津国西成郡佃村(現在の大阪市淀川区佃町)の名主森孫右衛門が、佃及び隣村大和田村の漁師34名と共に江戸に出てきて、江戸向島(のちに佃島と名づけられる)を拝領するとともに、江戸近辺の海川の漁業権を与えられ、そのかわりに徳川家の御膳魚を納める役を仰せつかった。彼らの漁獲法は地獄網と呼ばれ、当時としては格段に優れたもので漁獲量はたちまち徳川家への献上分をオーバーしてしまう。そこで1610(慶長15)年には余った魚を市中で売る許可が幕府から下り、日本橋魚河岸(うおがし)が誕生したそうだ。生業的な漁業が産業への道を歩み出した第一歩である。1629(寛永6)年には、家光が武家と町人の同居禁止令を出し、一部漁民は佃島(つくだじま)に移る。これで日本橋に残る者と佃島に移る者との間に流通(魚河岸)と生産(佃島)の分業が確立、漁業は本格的な産業へと飛躍したそうだ。
現在「江戸っ子気質(かたぎ)」と呼ばれるものの大部分は魚河岸が育てたものだそうである。急成長する魚産業を背景に台頭してきた魚河岸の旦那衆は江戸文化のスポンサーとして歌舞伎役者などの贔屓(ひいき)筋となり、現在の江戸歌舞伎を育てたという。また足の早い鮮魚を扱う魚河岸の若衆は勢いせっかちで喧嘩早く、威勢のいい啖呵(たんか)を切る様になり、江戸っ子の基本の気質となっていったそうだ。
江戸時代の初期においては、金を持っていたのは武家であった。だから、当初の魚河岸が納魚を目的としたのは、江戸城以外にも大名や大身の武家が重要なお得意先であり、武家のふところの豊かさをあてにした商売だったわけである。しかし、武家の世の中もそう長くは続かず、平和な時代の到来により、武士の存在はやがて形骸化していき、やがて講談「一心太助」に語られる様な町の魚屋が出現、一般市民に魚が浸透して行くわけである。
しかし、当時の魚河岸などの魚店は、売問屋であり、魚屋は、映画などの一心太助などに見られるように、天秤棒でになって振売りする「棒手振り(ぼてふり)で、この名は、棒手箱(ぼてばこ)に入れて売り歩いたからとか。関西方面では天秤棒かつぎのことを棒手振りと呼んだが、江戸・東京では棒手振りといえば行商の魚屋を言うのだそうだ。その頃、魚河岸は「朝千両の商い」といわれるようになり、早朝だけで千両の売上げがあるということで、ほかにも昼は芝居町で千両、夜は吉原で千両、合わせて三千両という金が毎日江戸で動いていたといわれ、魚河岸の繁盛は当時を代表するものだったそうだ。
(画像は映画「一心太助天下の一大事」左:月形龍之介、右:中村(萬屋)錦之助。日本映画100年。アサヒグラフより)
参考:
KATOHDB: 「正義」の問題
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2762.html
日本の墓:一心太助
http://www.hakaishi.jp/tomb/06-4.html
魚河岸野朗
http://www.sakanaya.co.jp/index.html
フィッシュLabo さかな物語
http://www.sanspo.com/fish/labo/monogatari/sakana_fugu1.html
中村錦之助 (ナカムラキンノスケ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/103352/



冬至

2005-12-22 | 行事
今日(12月22日)は「冬至」に当たる。
二十四節気の一つで、新暦の12月22日ごろ(旧暦11月中の卯(なかのうの日)。太陽の黄経が270度に達し、冬至線の上に直射するときである。つまり、この日、北半球では太陽の高さが一年中で最も低くなる。そのため昼が一年中で一番短く、夜が長くなる。この日は「冬至粥」(とうじがゆ)を食べ、冬至風呂(柚子湯)に入って無病息災を祈る行事が行われている。
冬至とは「日短きこと至る(きわまる)」を意味している。古代人たちは、冬至の前後になると太陽の力が弱まり、人間の魂も一時的に仮死する。すなわち、陰極まれば万物みな衰えて死に、太陽の帰り来る「一陽来復」によって再びよみがえると考えた。この旧暦の11月を子(ね)の月と呼び、十二支の始まりとなる。旧暦11月の冬至のことを「復」とも呼ぶそうだ。
「冬至粥」(とうじがゆ)という習俗は、一陽来復を祈って、古代の人たちによって行われていた最も大切な行事、新穀感謝の祭に由来している。古代人は、稲の穂を摘むことによって穀霊が一旦死ぬと考えた。そこで一家の主婦は田から稲や粟(あわ)の初穂を抜いて家に持ち帰ると、それを寝具にくるんで添い寝し、新しく生まれてくる稲魂(いなだま)のすこやかな生育を祈った。ついで、その新穀を臼(うす)に入れ、復活の唄を歌いながら杵(きね)で搗く。得られた白米を、火を新しくしたカマドで炊きあげる。出来た固粥(かたがゆ。今の普通のご飯)と、同じ米で醸(かも)した神酒(ミキ)を供え、それらを神と共に飲んだり食べたりすることが祭そのものであった。これを新嘗(にいなへ、にへ)と呼び、復活した新穀を自らの体内に入れることによって、新たな生命(いのち)を得ると信じた。また稲を「トシ」、年も歳も「トシ」と呼んで、神人共食による新しい年の活力のよみがえりを期待したのである。このきわめて古い伝統をもつ民族の風習は、3世紀頃、王権の高まりと共に公的な行事として次第に儀式化(新嘗祭)されていった。その儀式(新嘗祭)は戦後、国民の祝日「勤労感謝の日」とされたが、この辺のことは、私のブログ今日(11月23日)は「勤労感謝の日(Labor Thanksgiving Day)」でも書いた。
こうした原始的な信仰は、日本に限らず世界の多くの民族に共通したものであり、一旦死にかけた太陽の復活を願って、「タマフリ」と称する鎮魂の行事が世界各地で行なわれるようになった。たとえば、炉の火を新しく替えることによって太陽を復活させ、人もまたこれで新たな生命力を得ようとした。現代に伝わっている「冬至風呂」(柚子湯)もそうした民俗風習の一つ。再生した火で風呂を沸かし、新しい力を得た湯に柚子を入れ、その精によって、衰えた体に新たな生命の復活を念じたものだ。「冬至」と「湯治」の語呂合わせは江戸庶民のものだとか。江戸時代には、冬至の日のゆず湯は大賑わいだったといわれているが、この「柚(ゆず)」も「融通(ゆうずう)が利きますように」という願いが込められているのだとか、なかなか旨いごろあわせだね~。しかし、柑橘類の成分は肌によく、美肌効果があったり、冷え性やリュウマチにも効くし、体が温まってカゼをひかないほか、ひび、あかぎれなどにも効果があるとも言われている冬にはぴったりだ。それに、昔から冬至の日に、冬至かぼちゃやを喰べると風邪や中風(現在の脳出血、脳梗塞にあたるもので、正式な病名ではない)にならないという言い伝えがある。「冬至かぼちゃに年とらせるな」などとも言うが、本来かぼちゃは夏が旬の野菜だが、かぼちゃは保存に強く、切ったり、傷をつけたりしなければ長期保存が出来る・・・とはいっても、冬至頃までが限度だよ、それに、それ以上とっといたって栄養価は下がるし、味だって落ちる。今のように温室栽培のされていない昔に、夏の太陽を浴びた栄養価の高いぼちゃを大事に保存し、風邪が流行したり緑黄色野菜が不足したりする冬季に、かぼちゃを食べる・・それも期限があるので冬至に食べてしまおうという先人の知恵である。
(画像は、かぼちゃ。以下参考の野菜図鑑のもの借用)
参考:
冬至(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC%E8%87%B3
冬至|日本文化いろは事典
http://iroha-japan.net/iroha/A04_24sekki/07_toji.html
野菜図鑑「かぼちゃ」
http://www.vegefund.com/panfu/pumpkin/pumpkin.htm
海上保安庁の天文情報天文(測地情報 & 水路観測所のページ)
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/
日出没にまつわるはなし
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/faq/astro/sunrise.html
国立天文台トップページ 
http://www.nao.ac.jp/index.html
国立天文台/天文情報センター/暦計算室
http://www.nao.ac.jp/koyomi/index.html
旧暦の仕組み
http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar.htm
暦の部屋にようこそ(陰暦(旧暦)変換プログラム等)
http://home10.highway.ne.jp/endakane/index.htm
平安神宮/御霊振り(ミタマフリ)」「魂振り(タマフリ)」という感覚がありますが、・・・
http://www.heianjingu.or.jp/04/0101.html
一陽来復について
http://www.st.rim.or.jp/~success/itiyou_ye.html