今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

国定忠治が磔の刑に処せられる

2005-12-21 | 人物
12月21日国定忠治が磔の刑に処せられる 。
1850(嘉永3年)年12月21日、「赤城の山も今宵は限り~」でおなじみの国定忠治(本名長岡忠次郎)が磔(はりつけ)の刑という悲惨な最期を迎えた。
国定忠治(忠次)は、1810(文化7)年上野国左位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)の農家に生まれ、本名は長岡忠次郎。博徒となって赤城山中を縄張りに上州から信州一帯を舞台に活動した江戸時代後期の侠客。信州街道の大戸(吾妻町)の関所を破る。碓氷関所(群馬県松井田町-長野県軽井沢町)を破った事により1851(嘉永3)年12月21日(旧1月22日)磔(はりつけ)の刑という悲惨な最期を遂げた。享年41。群馬県伊勢崎市国定町の養寿寺に墓がある。
長岡忠次郎は、天保の飢饉で農民を救済した侠客国定忠治として脚色され、講談や、浪曲、新国劇、映画の題材とされ、新国劇や映画で、沢田正二郎、辰巳柳太郎、坂東妻三郎、三船敏郎といった大物俳優らが、義理人情に厚く、弱きを助け悪政を許さない“ヒーロー国定忠治”を演じ、大人気を博した。国定忠治の映画は、数多く製作され、明治・大正・昭和にかけての国民的ヒーローであった。しかし、理由は分らないが、17歳で人を殺して、ヤクザの世界に入り、組を構えてから、賭場荒らし、縄張り抗争など、悪の限りを尽くしている彼が何故に、ヒーローになったのだろう。こうした忠治の事績を後世に伝えた者がいる。それは、羽倉外記(羽倉簡堂羽)という国定村の代官もつとめた男である。外記は水野忠邦の天保の改革に重用された役人で、納戸頭から勘定吟味役にもとりたてられたいう、忠治とは対極にいた幕吏であった。その外記が『劇盗忠二伝』(『赤城録』)を著して、凡盗にあらずして劇盗と評しているという。以下、参考の高橋敏 『国定忠治』 (岩波新書)によると、 ”賭博,伊三郎・勘助殺し,関所破りなどで有罪となり,最も重い関所破りの罪により磔の刑に処されることになる。関所破りの場合、その管轄地で刑を執行される事になっていたようで、忠次郎は上州と信州の境の大戸の関に護送された。忠次は、その処刑前日、大戸加部氏醸造の銘酒を一椀所望して飲み,雷のようないびきをかいて寝た。翌朝、また一椀飲み,「本州の酒を飲み本州の土と為る、快なるかな」と言った。更に勧められると,「刑に望みて沈酔するは死を畏るる者之事也」と断った(羽倉外記「劇盗忠二小伝」)。そして、いよいよ槍で突かれるに際しては,「手前儀,悪党を致しまして国のみせしめになって御成敗と決まり有難うござんす。お陰で小伝馬町牢内でも身持大切にできやして,かように天下の御法に叶うことに相成り,天にものぼるような喜びにござんす」と言った。目を閉じ、一槍付いては引き抜くごとにかっと目を開き、1500人といわれる見物人を見回した。また目を閉じ・・・と12回まで繰り返し,13度目で死んだ。(楡木宿惣左衛門談)” ・・・とある。
忠次の刑に連座して、何人もの人物が各種の刑にあい、そのうち最も重い罪に問われたのが田部井村の名主で、名主でありながら忠次郎と組んで悪行を行ったとして打ち首の刑になっているそうだ。当時の刑罰で、最も重い刑が「磔(はりつけ)」であった。「死罪」(斬首=打ち首、残された家族の財産も全て没収)以上のこのような極刑を受けるのは非常に悪質な犯罪を犯した者に限られており、権力機構に挑戦した者などが、この刑をうけたようだ。しかし、忠次は、この「磔(はりつけ)」に処せられており、このことが、後に、忠治は、庶民の為に、権力機構に挑戦した者=義賊という形で伝説化されたのではないかといわれている。長岡忠次郎が、「磔(はりつけ)」の刑にあってから18年後に徳川政権は崩壊し、明治維新となる。
長岡忠次郎が、国定忠治として脚光を浴びたのは、あの有名な、「講釈師見てきたような嘘をつき」の川柳もあるように、宝井馬琴の孫弟子で、明治の講談師宝井琴凌という人物が『馬方忠治』という講談をヒットさせたのが始まりと言われている。長岡忠次郎が生まれた上州はもともと穀物の稔りにはまったく不向きの土地で、そのため唯一桑畑と養蚕によって経済社会をつくっていた(後には、それで桐生や足利が栄えるのだが)。そして、忠次郎が育った時代の前半は「天保の飢饉」で関東が冷えきっていた時期にあたる。又、後半は、大塩平八郎の乱などが勃発し、日本がしだいに不穏な空気に包まれていた。やむなく水野忠邦が政治改革にとりくむが、倹約と奢侈の取り締りはかえって百姓を苦しめ、逆に下っ端役人の不正をふやしていくことになる。上州は関八州の管轄で、関東取締役出役が見回りをしていたが、彼らは私腹を肥やし収奪にあけくれる。また、神宮・神社・山陵に幣帛を捧げるための例幣使とよばれる公家たちが、年中行事として日光参内に名を借りて、さかんに関東一帯で賄賂を取り立て(入魂金)、強請をほしいままにしていたという。
忠次郎は貧農の生まれといっても長岡と言う姓をもつ元武家の子とも言われている。渡世人の間では悪の限りを尽くしていた一方で、窮民を助けたり、灌漑用の溜池などを農民のために作るという一面もあったようだ。この当時のような食べるものにも窮している貧しい人たちの多い時代、当時の人の悪人のとらえ方は今の時代とは随分違っていたのではないか?。恐らく、ヤクザ同士の争いがいくらあろうと、普通の庶民に迷惑さえかけなければ、それは、大して悪い人間とは見なかったとも考えられる。それが、今でも義理・人情のヤクザの世界として芝居や映画などで受け入れられているのだろう。
今の時代は、おとなしそうな顔をして、お上の顔色を伺いながら、お金のためには平気で、悪いことをする人がはびこっている。昔の、貧しい時代より、今は、性質の悪い、残虐な犯罪が増えたことが哀しくなる。地震大国の日本で、地震が来れば倒壊するような建物を平気で売って金を稼ごうとする輩(やから)が今、世間を騒がせている。法改正し、刑罰を見直し、最近世間を騒がせている極悪非道の悪人などは、見せしめの為に、磔の刑にでも処するようにしないと、もう、駄目な日本になってしまったのかも知れない。
(画像は新国劇辰巳柳太郎演ずる「国定忠治」チラシより)
参考:
My town いせさき 国定忠治 群馬県伊勢崎市佐波郡の地域情報 ...
http://www.news.imap.ne.jp/cat6/021220tyuji/
高橋敏 『国定忠治』 岩波新書
http://www.geocities.jp/ktmtkg2000/review/1029.html
虚構の義賊国定忠治伝
http://www.ryomonet.co.jp/p-soft/chuji/index.html
酔雲庵・侠客国定忠次一代記の創作ノート
http://www.geocities.jp/suiun_an/newpage136.html
やくざと日本人
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0152.html

霧笛記念日

2005-12-20 | 記念日
今日(12月20日)は「霧笛記念日」
1879(明治12)年」12月20日、津軽海峡の本州側東海岸にある尻屋崎灯台に、日本で初めて霧笛が設置された。
青森県下北半島の東北端に位置し、津軽海峡と太平洋を仕切るところで,沖合1600mに暗礁があり、昔から難所として知られている。その暗礁を照らす照射灯が設けられている。1876(明治9)年、東北地方で最初の灯台として建設され、当時は石油灯であったが、1901(明治34)年に日本初の自家発電による電気式燈台となった。現在の光度は200万カンデラで日本最大らしい。この燈台は、光波・音波・電波による総合的な航路標識として機能し、総合燈台と呼ばれているそうだ。
船舶が海上での位置を知るための道しるべとなる岬・港湾に立つ灯台や無線方位信号所、霧信号所などを航路標識と呼んでいる。
航路標識の中で、視界が悪いときに音で船舶に位置を知らせる音波標識として、霧信号所があり、これは、「霧笛」とも呼ばれているが、霧が出やすく灯台の明かりが見えにくくなるたいていは灯台と同じ場所に設置されていて、その鳴り方(周期=鳴っている時間と休んでいる時間の間隔)が灯台毎に異なっているために、どこから発せられているか識別できるようになっているのだそうだ。現在も霧笛を出す灯台は20弱残っているようである。ただ最近は電波 による位置の確認技術が進んでいるため霧信号所を廃止する所が多くなっており、この尻屋崎灯台の霧笛も1994年に廃止されてしまったようだ。
灯台(とうだい)と言われているものは、航路標識の中の光波標識の一種であり、正しくは航路標識灯と言う。岬の先端や港内に設置され、コンクリートやレンガなどでできた塔状の形をしており、最上部には数キロ先からでも識別可能な強力な光源がある。夜間には光源が明滅(大型のものは、指向性を持ったレンズを回転させている)し、航行する船舶が明滅周期により場所を識別する目印にされている。記録に残る最古の灯台は、紀元前7世紀にエジプトのナイル河口の寺院の塔上で火を焚いたことに始まると言われている。日本最初の灯台については、839(承和6)年に復路離散した遣唐使船の目印として、九州各地の峰で篝火を焚かせたと続日本後記にあるのが最初と言われている。江戸時代に入り、海運が盛んになると、日本式の灯台である灯明台や常夜灯が岬の上や港に近い神社の境内などに設置されるようになった。現役最古の灯台は兵庫県西宮市にある今津灯台で、1858(安政5)年に再建されたものが航路標識として海上保安庁から正式に承認されているそうだ。灘五郷の東端が今津郷である。かつて酒の積み出しでにぎわった港に建つ和風灯籠形灯台は酒造家・長部家(現大関)の5代目当主・長兵衛が、船の出入りの安全を願い1810(文化7)年に、私費を投じて建造したもので、。現在の灯台は6代目当主・文治郎が再建したものを基本に復元されたもので、正式名称は「大関酒造今津灯台」と言うそうだ。木造の袴腰付灯籠形行灯式灯台で、建設当時は油を燃料にしていた。現在の今津港あたりはヨットハーバーのような景観になってしまったが、今津灯台だけは昔ながらの姿で電灯に代わった今も港の安全を見守っている。又、日本最初の洋式灯台は1869(明治2)年に点灯した観音崎灯台である。着工した1868年(明治元年)11月1日(新暦)が灯台記念日となっている。日本の開国は1854(嘉永7=安政元)年であるが、日本近海は暗礁も多い上、光達距離の短い灯明台や常夜灯の設置のみで航路標識の体系的な整備が行われていなかったため諸外国から「ダークシー」と呼ばれておそれられた。このため1866(慶応2)年5月にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヶ国と結んだ改税約書(租税条約、江戸条約)の中で8ヶ所の灯台、翌1867年4月にイギリスと結んだ大坂約定(大坂条約)の中で5ヶ所の灯台を整備することが定められた。明治維新による政権交代があったため着工が1年遅れたが、順次建設された。これらの設計・建設には、お雇い外国人である英国人、リチャード・ヘンリー・ブラントンなどが携わった。リチャード・ヘンリー・ブラントンは、1868(明治元)年8月、妻子及び助手2人を伴って来日。当時26歳。この時から1876(明治9)年までの日本滞在中に、26の灯台、5箇所の灯竿、2艘の灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げた。また灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだ。
和田岬灯台(兵庫県)は、大坂条約の中で5基の洋式灯台の建設を約束した。和田岬灯台はこの中の一つで兵庫の開港を前に設置されたものである。初代の灯台は1871(明治4)年に完成し、1872(明治5)年10月1日に初点灯された。このときの建物は八角型の木製灯台で、後に1884(明治17)年二代目となる鉄製灯台に改築され、1963(昭和38)年に廃灯になるまで神戸初の水族館「和楽園」や和田岬砲台などのあった和田岬に設置されていた。現在残る鉄製の灯台は「日本の灯台の父」と称されるイギリス人リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計されたもので、高さが15.76メートルの三階建て、初代とは異なって六角形の形をしている。またこの2代目灯台は現存する日本最古の鉄製灯台で歴史的文化財的価値が高く、1998年(平成10年)には国の登録有形文化財に指定され、和田岬から須磨海浜公園に移設保存されている。尻屋埼灯台(青森県)も彼の建造によるものである。
その後、海運の発展とともに航路標識の整備も進み、第二次世界大戦直前期には400基を数えるようになったが、依然として諸外国の水準とは隔たりがあり、「ダークシー」と呼ばれる状況は続いた。昭和初期になっても式根島(東京都新島本村式根島)では私設灯明台が建てられている。この 1935(昭和10)年頃、ッ船の往来の烈しかった瀬戸内海は濃霧による船の事故が続いていたようであり、その時の状況は、以下参考の「新聞記事文庫:海運」を見ても良くわかる。
灯台と言えば、1957(昭和32)年に製作された木下恵介監督の映画「喜びも悲しみも幾年月」を思い出す。この映画は、実在の灯台守の妻・田中キヨの手記に基づいて作られたもの。灯台守の夫婦を佐田啓二と高峰秀子が演じていた。夫婦は、戦争の影の迫る昭和初期(昭和7年)の神奈川県観音崎灯から始まって、北海道から九州まで各地の灯台を転勤して回り,、その間、苦難を共にして生きていく夫婦の姿を描いたものである。この映画は、先月、NHKのBSでも再放映されていたが、心に残る名画の一つだ。「おいら岬の~灯台守は~」この映画の主題歌、若山 彰の朗々と歌うあげる歌も良かったな~。しかし、かつて灯台といえば、この映画に描かれた僻地の灯台に暮す灯台職員のイメージと強く結び付いたが、、現在では、無人化が進み、ごく一部の灯台で、数日間交代で職員が滞在するケースが残されているだけで、かつてのような住み込み勤務は全くなくなったという。先に挙げた屋埼灯台(青森県)は今も、職員の勤務する数少ない燈台だそうだ。
下は、映画「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」歌詞つきMIDIです。歌を聴きながら、名画の名場面を思い起こしてみては・・・。
MIDI「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」作詞・作曲:木下忠司、唄:若山 彰

(画像は「和田岬の灯台」神戸市須磨区に保存)
参考:
灯台 ( Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AF%E5%8F%B0
航路標識法
http://kaiun.hourei.info/kaiun43.html
灯台用語集
http://gauss0jp.hp.infoseek.co.jp/tyougo.htm
リャード・ヘンリー・ブラントンの灯台
http://www.k-oka.com/kiminchi.htm
灯台の歴史について
http://www.kaiho.mlit.go.jp/05kanku/osaka/syoukai/history.htm
新聞記事文庫:海運
霧禍を解消せよ! : 魔の瀬戸内海に”霧笛信号機”設置 : 関係一府六県を一丸として交通安全運動起る (大阪毎日新聞 1935.7.5 (昭和10))
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00159563&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00159563
灯台事始め一覧
http://www.kaiho.mlit.go.jp/01kanku/muroran/hoanbu/toudai/kotohajime.html
日本船主協会:208 無人化が進んだ現代の大型沿岸灯台
http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_208.html
尻屋埼燈台
http://hp1.cyberstation.ne.jp/toudai/siriya.html
歴史街道(酒蔵のある町・伊丹と西宮 )
http://www.asahi.co.jp/rekishi/04-01-20/01.htm

トークの日

2005-12-19 | 記念日
毎月19日は「トークの日」。「トー(10)ク(9)」の語呂合わせから、NTTが制定し、1986(昭和61)年6月19日からスタートしたそうだ。電話でおしゃべりをしてほしいという意味が込められているのだとか。
そういえば、1985(昭和60)年にNTT民営化されたばかりのNTTが薬師丸広子の「あなたを・もっと・知りたくて」をテーマ曲にして大々的にCMを打ち出し、積極的な姿勢を見せていたのを思い出す。その内容は曲名の通り 「あなたを・もっと・知りたくて……電話してもいいですか・・・」だった。 その翌年に、この「トークの日」が設定され、NTTのCMは同じく薬師丸広子の曲「ささやきのステップ」で、その内容は ”世の中の明るさのみを吸ふごとき黒き瞳の今も目にあり・・・”といった洒落たもの。その翌年には”「電話ぐらいしろよな・・・”といった内容のCMもあったのじゃ~なかったかな?。ま!NTTとしては、電話ぐらいしてもらわない儲からないよね!(^0^)。
トークと言えば、アメリカなどでは、トーク・ショーにすごい人気が有るようだ。トーク・ショー、というのは基本的には視聴者参加番組で、スタジオに客を入れ、ゲストを呼んで司会者が話を聞く、ゲストは時の人のこともあれば、普通の民間人の場合もあり、このトーク・ショーのホストこそ、今アメリカのお茶の間でもっとも人気のあるTVタレントだといわれているそうだ。しかし、日本には、余り良質なトーク・ショーといえるようなものは見られないね~。トーク・ショーといえるかどうかは知らないが、トーク番組で、長く続いているいものには、1976(昭和51)年から始まっている「徹子の部屋」がある。毎回、黒柳徹子が色んなゲストを招いて、その人に関するお話をする番組であるが、その第1回ゲストには、森繁久弥さんなどがいるらしい。このトークショは、今も続く長寿番組であるが、兎に角、黒柳徹子の機関銃のような早口だけが、やけに印象に残っている。また、落語家の桂三枝さんが新婚さんを招いてのトーク番組「新婚さんいらっしゃい!」も、1971(昭和46)年放送開始の長寿番組である。三枝がビックリして椅子ごと転げるパフォーマンスが視聴者の笑いを誘い、また、「いらっしゃ~い」のせりふとポーズはよく真似もされている。又、ゲストの新婚さんの話も面白い。三枝さんの話芸が、新婚の若いカップルから面白い話を引き出すのだろう。もっとも、離したくて仕様のない者が出演しているのだろうけれどもね。又、今や、テレビ界で、好感度No.1と言われている、明石家さんまさんと、さんま宅へ、毎回訪問するゲストのプライベートな話を覗いてしまおうというトークバラエティ「さんまのまんま」これも、さんまの巧みな話術に、トークに、ついプライベートな話までも出てしまうところが面白い。これらに比し、「徹子の部屋」の方は、話の内容は、真面目であるが、面白さはゲストの話し次第と言う感じがする。相対的に、日本人は、話べたといえ、こういった会話形式のものは苦手なのだろう。アメリカ人など外国人は、非常にジョークが巧みで、話が面白い。三枝さんやさんまさんなどは元々落語家出身であるだけに話芸の基礎が、できているだろう。他にもいくつかのトーク番組はあるがやはり、お笑い系の人がホストを務めているものが多い。やはり、舞台などで、人を笑わせることを見につけているからだろう。ただ、同じ笑いをとるにしても、アメリカなどのユーモアーのあるトーク・ショーとはちょっと、異質なものではある。
日本で、落語とは“噺”、“話”、“咄”、(すべて“はなし”と読む)とも書くように、話す芸すなわち話芸(わげい)ということができる。日本では、面白く話す話術と話芸が巧みなのはやはり落語家だろう。しかし、この、落語が、テレビなどには殆ど出番がなくなったのが寂しい気がするね~。
今日は、NTTのトークの話から、トーク番組に脱線してしまったが、親元などから離れて生活している人などは、出来るだけ、親に電話をして、元気な声を聞かせてあげて欲しいね~。話の内容など何でもいいよ。親ってのは、元気な子供の声を聞くだけでうれしいのだからね。
画像は朝日放送の「新婚さんいらっしゃい!」以下参考のHPより)
参考:
朝まで生テレビ
テレビ朝日の討論番組。視聴者からの意見を募集している。パネリストの紹介ページや過去の放送の資料を収録。
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/
トップランナー
バックナンバーや次回予告などを掲載した公式サイト。出演ゲストへのメールも送れる。毎週金曜23:45から、NHK総合にて放送。
http://www.nhk.or.jp/tr/
徹子の部屋
一週間分のゲストとトークの一部を掲載している。1996年7月放映分からのバックナンバーや戦争特集のデータなど。月~金曜午後1時20分~1時55分、テレビ朝日系で放映。
http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/
徹子の部屋辞典
番組内容の紹介があるファンサイト。放送後に随時更新されている。
http://www.h4.dion.ne.jp/~giten/
新婚さんいらっしゃい!
桂三枝師が新婚さんを招いてのトーク番組。
http://www.asahi.co.jp/shinkon/
薬師丸ひろ子ワークス
http://www.din.or.jp/~daruma/hiroko/yakushimaru/works/tv_cm.htm
落語の歴史
http://www6.ocn.ne.jp/~fukudnj/fukuweb/funs/list/hist01.html
話芸“きまり文句”辞典
http://wageiidiom.cocolog-nifty.com/takmat/


18゛の日(ファーストエイドの日)

2005-12-18 | 記念日
毎月18日は「18゛の日(ファーストエイドの日)」だそうだ。「18゛の日制定委員会」が2001(平成13)年に制定。1で「ファースト」、8に濁点を附けて「エイド」と読む語呂合せとか。
私は、良く知らないので、以下参考のHPなどを見ると、「ファーストエイド」とは、応急手当・救急救命等のことだそうである。
医療行為ではない手当ては、救急法とか応急手当て、応急救護、ファーストエイド、救命法、蘇生法 などがあるが、専門的には、本来、ファーストエイドというのは「応急手当て」のことを言い、人工呼吸やCPRを含まない、病気やケガに対しての一般市民(医療従事者ではない)の手当てのことをさし、CPRなどは、救命法。基礎生命維持法とも呼ばれている(Basic Life Support )ようだが、ここでは、広義に解釈し、医療行為ではない応急手当・救急救命等全般を指しているようだ。
このブログに添付の画像の本には、”救急車が来るまでの対処法を学ぶガイドブック”との副題が付いている。もし、救急車が到着するまでの6分間、あなたにできることは何か?・・・と、問われたら、????この本は読んでいないが、以下参考の「ファーストエイド講習会」を見ると、
・自分の家の近くで地図に載っているような大きな施設がすぐでてくるか。
・そこからの道順を地図を見ている相手に的確に伝えられるか。
・わかりにくい場所ならば誰かに大通りまで救急車を迎えに行ってもらう。
・エレベータ付の建物ならば1Fで止めておく。
など、これらの事項を抑えているのといないとでは、救急隊が到着するまでの時間が2分、3分と変わってくる。平均到着時間が5~6分なので、かなり重要である・・・とあった。なるほど、簡単なことだけれども、なかなか、緊急の場合には咄嗟には出来ないだろうな~・・・。だから、救急手当のやり方などといったことだけではなく、こういうことも、日ごろから、ちゃんと整理して、身につけておくことが大事だろうな~と思った。
ファーストエイドの基本は、ネンザでも肉離れでも打撲でも、ケガが起きたらすぐに”PRICES”を実施することだそうで、これは、応急処置に必要な事項を英語表記し、その頭文字P:Protection(保護)、R:Rest(安静 )、I:Ice(冷却)、C:Compression(圧迫)、E:Elevation(高挙)、S:Support(補助)のPRICESをとったものだが、どのようなことかなどは、以下参考の「ファーストエイドとリハビリ:CramerJapan」をどうぞ・・・。
実際に目の前に怪我人がいる場合、なかなか、日ごろから訓練していない人には、難しいことは思い出せない。せめていざと言う時に、この合言葉と、その意味くらいは覚えておかないとね。
防災の日があるように、月に一回位、応急手当やファーストエイド、老人や、子どもたちの安全や救急ケアについて考えてみる日があってもいいとは思うよね!
(画像:「ファーストエイド/CPR―応急手当マニュアル&フィールドガイド 」 愛知県外科医会 、日本リガメント発売)
参考:
日本ファーストエイドソサェティ
http://members.aol.com/junejfas/HOME.htm
MFA(メディック・ファーストエイド)日本支部 
http://www.emp-japan.co.jp/
ファーストエイド講習会
http://www2u.biglobe.ne.jp/~fiveclub/firstaid.htm
これだけは知っておきたいファーストエイド - アウトドア - 環境goo
http://eco.goo.ne.jp/nature/outdoor/firstaide/oukyu/

江戸幕府が、大名監視の為の「大目附」を設置した。

2005-12-17 | 歴史
1632(寛永9)年の今日(12月17日) 、江戸幕府が、大名監視の為の「大目附」を設置した。
大目付(おおめつけ)は、江戸幕府の役職の1つ。目付とともに老中の配下として位置づけられている。若年寄支配下の目付が、旗本・御家人の監察を任務とするのに対し、大目付は、大名の監視のほか、交替寄合(参勤交代をする上級旗本)、高家の監察など、幕政の最重要な監察を任務とし、法令の伝達にもあたった。1632(寛永9)年、秋山修理亮正重、水野河内守守信、柳生但馬守宗矩ら3人を総目付として任じたのがこの職の起源。大名目付ともいわれた。以降、この任には,定員4,5名で旗本の上位の者がえらばれ、その待遇は大名並みであった。室町時代の初期に所司代の被官として設けられた目付は,戦国大名も,被官や土豪,敵国の内情探査のため設置していたが,江戸幕府では,大名統制の主要な任務として、その耳目としての情報収集、善悪の糺名、文言・判形の取調べなど多岐にわたる職務があった。鎖国政策がとられてからは,外国貿易や宗門改め,道中奉行をも兼務することもあった。江戸中期以後の幕府体制の確立とともに,本来の職制から変わって式部官的な傾向が強くなった。職務が多岐にわたったために月番とともに,分担制で任務を行うようになった。
徳川家康は大阪の陣によつて豊臣氏を滅ぼし、徳川氏への対抗勢力を一掃し、全国の大名を支配することとなった。しかし、それは、所謂、幕藩体制といわれるもので、その中心にある徳川氏自体は最大の一大名であり、400万石の直轄領地天領を所有すると共に、全国66国を分轄して諸大名(藩)に領地として与え、領内の政治は一切大名に委任していた。したがって、幕府の権力維持のためには大名統制がもっとも重要であったが、2代秀忠、3代家光に至つて益々強固なものとして整備されていった。まづ、大名を親藩、譜代、外様の三つに分け、その領地は徳川氏の安全を図る為に巧妙に配置された。又幕府の要職は譜代又は親藩で占め、外様大名は一切除外された。一方武家諸法度を制定してこれに違反する大名をどしどし罰し、その領地を没収し、その家を取潰した。
1632年(寛永8)に秀忠が死去すると、3代将軍家光はそれまでの大御所との二元政治であったものを解消して将軍親政による政治を始める。老中・若年寄・奉行・大目付の制を定めて、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。そして、諸士法度の制定、加藤忠広など大名の改易を断行して武家統制の強化を図った。また、1635年(寛永12)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。対外的には長崎貿易の利益独占目的から、貿易統制ならびにキリシタン弾圧を強化し、1637年(寛永14)の島原の乱を経て1641(寛永18)年までに鎖国体制を完成させた。これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われているそうだ。
3代将軍家光の設置した「大目附」の中に、柳生但馬守宗矩がいる。
柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)は、大和国柳生庄に、石舟斎宗厳の五男として生れる。幼少にして才があり、父宗厳が柳生に隠居した1573(天正元)年の3歳、のころから1594(文禄3)年までの20余年間の大部分は父の膝下で新陰流兵法をはじめ諸種の兵法、軍法、和漢の学問、文芸、茶道などを学んだという。
1594(文禄3)年から父宗厳とともに徳川家康に招かれて伺候。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いではその功により旧領大和柳生を与えられる。1601(慶長6)年より家康の子秀忠の兵法師範となって正式に徳川の家臣となる。1614(慶長19)年,1615(慶長20)年の大坂の陣に参陣した。宗矩は,父石舟斎とは異なり政治に活路を見出し,その政治力によって家康・秀忠・家光と3代にわたって将軍に仕えるがいずれも信任厚く,1632(寛永9)年には江戸幕府初代の大目付,1636(寛永13)年には加増あって大和柳生1万石となり,諸侯に列することとなるが、柳生宗矩が一介の兵法指南役だけに収まらず、大名の監視を司る惣目付(大目付)にまで登りつめる事が出来たのは、影で柳生一族(俗に言う裏柳生)が暗躍し、忍者顔負けの諜報活動をしていたからだという説がある。 この柳生一族に関する武芸物は、数え切れないくらいに、小説、映画、ドラマ化されている。宗矩の長男 十兵衛三厳も剣豪として有名で多くの映画ドラマに登場する。恐らく、柳生の諜報網が確立したのは、全国の大名たちがこぞって将軍家に倣い、柳生石舟斉の門弟である新陰流の剣士たちを仕官させたから、宗矩はその門弟たちから各地の情勢を掴んでいたのではないかと思われる。
私は、大の時代劇ファンである。柳生と言うと思い出されるのが、五味康祐の小説『柳生武芸帳』である。1956(昭和31)年2月、創刊の「週刊新潮」に長期連載されたものであるが、私は、本は読んでいない。何でも、五味康祐はこれを長期にわたって完成するつもりのまま、昭和50年に、最後まで書き上げないままになくなったため未完の本であるらしい。この小説は、東宝で、稲垣浩監督の同名映画「柳生武芸帳」(1957年)として製作されており、この映画は見た。主演は、三船敏郎の「霞の多三郎」と鶴田浩二の「霞の千四郎」兄弟を主演にしたものであり、戸上城太郎が扮する柳生十兵衛は脇にまわってしまっていた。
柳生一族の長、柳生石舟斉と、その弟、松吟庵は、後日のため、暗殺者の候補者リストと、暗殺実行者がわかる文書を、3巻の暗号化した巻物として作成した。これが柳生武芸帳である。3巻が揃うと、柳生一門はもとより幕府の安泰や禁中の平穏をも危うくする秘密が露呈するらしい。そこで、柳生の秘密を守ろうとする宗矩と十兵衛の親子、九州鍋島柳生の本家・竜造寺一族の再興をはかる夕姫、それを扶ける忍者、将軍家の周辺、柳生の正体は「忍びの者」だと睨む唐津の山田浮月斎、それに霞の忍者の多三郎兄弟らが、縦横に入り乱れて暗闘を繰り広げるといったものである。映画は、豪華配役で面白く娯楽性はあったが、ストーリー自体は、なんか良くわからない映画ではあった。実際の小説は読んでいないので知らないが何でも、小説と映画では内容に異なる点があるようだ。そこらのことは、以下参考の「松岡正剛の千夜千冊『柳生武芸帳』上・下」を見ると詳しく書いてある。
又、時代劇の東映映画が、1965(昭和40)年の「宮本武蔵・巌流島の決闘」以来、12年ぶりの本格派時代劇として製作した映画、深作欣二監督、「柳生一族の陰謀」(1978年製作)は見ごたえがあった。内容は、二代目将軍・徳川秀忠の急死に伴って、 江戸幕府では後継者争いが表面化していた。三代将軍の座をめぐって、 秀忠の長男・家光を推すグループと次男の忠長を推すグループの派閥争いは、 次第に激しさを増していく。一方、 京都に押し込められて力を奪われた公家たちは、 後継者争いに幕府を倒すチャンスがあると見て、 いつまでも将軍宣下の詔を出さない。そんな中、 家光側につく柳生但馬守宗矩は、 息子たちと共に次々と策略を張り巡らせるが・・・、権力に生きる柳生一族の存続を賭けた陰謀が、次第に、骨肉の争いへと展開していく姿を描く。しかし、今までの時代劇とは違ったもの、それは、「時代劇じゃないよ。仁義なき戦いのようなチャンバラ風味のヤクザ映画だ」と言う人もいる。もし、萬屋錦之介 (柳生但馬守宗矩)の重厚な演技がなければ単なる荒唐無稽な映画に終わっていたかも・・・。兎に角、柳生の系譜は複雑で、謎の多い家系のようであり、作家も色々と想像を掻き立てられるのだろうね。
(画像は、東映映画「柳生一族の陰謀」パンフレットより)
参考:
徳川家光 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
幕藩体制 ばくはんたいせい
http://db.gakken.co.jp/jiten/ha/501730.htm
江戸幕府 えどばくふ
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C088R100.HTM
江戸幕府職制図
http://homepage1.nifty.com/gorozo/real/data/system.htm
松岡正剛の千夜千冊『柳生武芸帳』上・下
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0352.html
映画「柳生一族の陰謀」(1978)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18787/