山野颯想

山野走、山野歩、山野逍遥など、山野にかかわる事柄を中心に記載しています。

春の訪れ(スマホの寝屋川市の気温は“21度”)

2021年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
昨年の9月21日撮影の十月桜

2021年02月13日(土)
『春の訪れ』
<スマホの寝屋川市の気温は“21度”>
今朝の目覚めは、1時40分頃で、朝というよりも夜中であった。
NHKラジオ深夜便を聴きつつ、幾つかのやり残している事柄に手を付ける。
朝5時過ぎに街中歩に出掛けたのだが、そのときの寝屋川市の気温は「8度」であった。
いつもの道を進み、打上川治水緑地には東方より入り、外周と内周を一周ずつ歩き、
東方より治水緑地を離れ、まだ桜が咲いている“十月桜の道”を通り、
寝屋川左岸の遊歩道を西方へと進み、いつもの道で帰路につく。
7時12分、雲量は「0」のように見えるが、生駒山系が霞む。
我が家南向き窓際にある室温計は「13.7度」を示していた。
スマホの寝屋川市の気温は「8度」と表示。
ニコライ・シムスキー=コルサコフ作曲、交響組曲 ≪シェエラザード≫作品35 を聴きながら、独り朝食を頂戴する。
12時30分、雲量は「4」で白雲が見られる。
エアコン無しで、我が家南向き窓際にある室温計は「25.9度」を示していた。
スマホの寝屋川市の気温は「21度」と表示。一気に春が訪れた。
19時17分、エアコンが稼働せずとも室温計は「23.1度」。
スマホの寝屋川市の気温は「15度」と表示。
ほんとうに暖かい。待ち遠しかった春がやって来た。
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我が街中歩(お饅頭を購入して帰宅する)

2021年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム
打上川治水緑地

2021年01月24日(日)
『我が街中歩』
<お饅頭を購入して帰宅する>
雨降る中、5時01分のスタート。スマホの寝屋川市の気温は「7度」と表示。
昨日、一昨日と降雨が続き、2日間街中歩に出掛けなかったゆえ、
少しぐらいの雨なら明朝は、“我が街中歩”を愉しもうと、昨晩布団に入るときに考えていた。
終始傘を閉じることはなかったが、穏やかな小雨だったし、寒気を感じることもなく、
ズボンの裾がホンの少し濡れたくらいであった。
成田山不動尊の奥の院(閉)にお参りし、本堂にもお参りして、いつもの道を行く。
打上川治水緑地には東方より入り、先ずは外周を、続いて内周を一周ずつ歩き、東方より緑地を離れ、いつもの帰路ではなく往路を帰る。
往路を帰るのには目的があった。往路に朝6時には開店している和菓子店があり、
昨日、上さんが「仏壇に普通のお菓子はあるんやけどお饅頭が無い」と呟いていたのを覚えていたので、お饅頭を購入して帰ろうと考えていたからだ。
20数年前の大学2年のときに、我々よりも先に逝ったK世子の高校時代のことだったと思うのだが、
「学校に持って行くお弁当に、お饅頭を一個入れておくことがあった」と上さんがいつの日にか語っていた。
僕は知らなかったのだが、それ程にK世子はお饅頭が好きだったようだ。
それゆえ、「K世子の遺影前に、お菓子はあるんやけどお饅頭が無いのが淋しい」と上さんは言いたかったのかも知れない。
また、お饅頭を前にした孫達の笑顔を思い浮かべながら、
“御萩”6個と“田舎饅頭”6個を購入して、小雨降る中、濡れないように胸前に抱えて7時頃に帰宅する。
雨降る今朝の“打上川治水緑地”には、昨年の12月28日の如き景観は無かった。
あのときの透明感溢れる秀麗な景観に、再度出合えるかもしれないと期待してやって来たのだが、残念であった。
併しだ、あのときと違って今日は、治水緑地にやって来たのが5時40分頃でまだ暗かった。
そして、6時半までには緑地を離れていたので、仕方がないのかも知れない。

(写真・上)成田山不動尊
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僕のブログ概要欄(訂正する必要があるのかも知れない)

2021年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ほしだ園地内、ピトンの小屋(2018年11月18日撮影)

2021年01月05日(火)
『僕のブログ概要欄』
<訂正する必要があるのかも知れない>
僕のブログ概要欄に、「山野走、山野歩、山野逍遥など、山野にかかわる事柄を中心に記載しています」と記しているのだが、
その中の「山野走」と「山野逍遥」という言葉を消さなければならないのではないかと思っている。
[山野走]という言葉は僕が勝手に作った言葉で、文字の如く「山野を走る」ことなのだが、
また、孫と山野を歩いたときの記録を[山野逍遥]と称しているのだが、
何れも現在のブログの概要文としてはふさわしくないものになってしまっているからだ。
それは、ブログを書き始めたころには山野を走ることにより、
僕に与えられた少しの時間で、山野の景観等を愛で楽しんでいたものなのだが、
この7年間はまったく走ることがなく、今はもう山野を走る身体力も気力も存在しないという現実があるからだ。
2013年の7月6日に、京阪電鉄・私市駅から“ほしだ園地と飯盛霊園の鞍部”間往復の山野走を楽しんだのが最後で、
それ以降はまったく走っていない。
また、一番上の孫とは十数回、“くろんど園地”や“ほしだ園地”を歩いていて、
昨年の9月20日にも孫三人と“ほしだ園地”を訪れているのだが、
これを除くと、もう何年もの間、孫と山野を歩いていないからだ。
ところで、僕が山野を走る切っ掛けを作ってくれたのは[ランニング登山]という、何処かの大学の先生が記した本だ。
本棚中を探せばその書籍がある筈なのだが、いつの日にかこの本に出合ったことにより山野を走り始めた。
しかし、[ランニング登山]に書かれているような日本アルプスや富士山のような高山ではなく、
“くろんど園地”や“ほしだ園地”という、我が家から近場にある“府民の森”が主体のランニングであった。
当時僕は、山野の景観を楽しみたいのだが時間がなくて山に行けないという現実があった。
そのころに[ランニング登山]という書籍に出合い、短時間で山野を楽しむには走ればよいのだと気付き走り始めたのだ。
この2日と3日に、生駒山系縦走路を歩いた。そのときにもトレイルランナーを何度も見かけたのだが、
僕が走り始めた頃には、ランナーに出会うことはまったくなくて、山中を走っているのは僕だけだったように思う。
あの頃には“トレイルラン”という言葉は一般的でなく、否、まったく使われていなかったのではないだろうか。
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僕のご飯作り(もう10年間作り続ける必要がありそうだ)

2020年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
2020年12月22日(火)
『僕のご飯作り』
<もう10年間作り続ける必要がありそうだ>
僕は、日々パソコンで日記を付けているのだが、一年前の日記が即座に見ることが出来るように仕組んでいる。
先日、その一年前の日記に次のような記載があった。
「色彩が無い上さんの眼ではどのように見えているのかは僕には判らないのだが、夕飯時に上さんが『栄養満点!』と呟いた。
今晩のご飯献立は、“豚肉のチーズ巻き”“大根&玉葱&豆腐の味噌汁”“椎茸&わかめ&胡瓜の酢の物”
“大豆水煮で簡単煮豆(蓮根.人参.昆布)”“夏野菜の揚げびたし(南瓜. 茄子. ピーマン. ミニトマト. 土生姜)”の五品で、
使った食材は、味噌汁の味噌まで含めると19種類だ。
僕が普段夕飯の為に作る料理のなかでも、今日は特段、食材が多かったのだろうが、
15時過ぎより作り始め、調理が終わったのが19時前頃ゆえ4時間近く掛かっている。
一向に上達しない包丁捌きや、レシピを見つつ作るゆえ、時間が掛かってしまうのは仕方がないのかも知れない。
そのレシピとは、パソコンからとり出したものが殆どなのだが、今日作った“豚肉のチーズ巻き”は、上さんに教えてもらったものだ」と。
眼前に霧がかかり、色彩が無く、視力が極めて弱くて、照明などで明る過ぎると眼に負担がかかるゆえ、屋外に出るときにはサングラスを掛けている上さんの眼。
普段より眼鏡を幾つも準備していて、再三眼鏡を換えている上さんに代わって、僕が台所仕事を担い、ほぼ6年が経過した。
「料理をしているのは僕ではなく、レシピが作っている」と僕はいつも上さんに表現している。
また、僕が台所仕事を担い始めたのは、近くに住む娘夫婦が商いを始めたことも大きな理由だ。
それまでは、娘が仕事先から帰るのが遅くなるときのみ、上さんが作って、預かっている孫共々、住いまで運んでいたのだが、
二人が商いを始めてから、台所を担う筈の娘があまりにも仕事が忙しく、仕事から解放されるのが、22時や23時、ときには24時が廻るときもあるゆえ、
また、上さんの眼では、7人分のご飯を作るのは無理だろうとの判断に至った。僕のご飯作りは、娘家族、孫も含めて5人の為に作っていると言っても過言ではない。
二人目の孫のK子がご飯作りの手伝いことが出来るようになるには、後、10年近くが必要だろうと思われるゆえ、僕は後10年ほど作り続ける必要がありそうだ。
ところで、この料理の写真は、今日のお昼に作った“茄子と豚肉のしぎ焼き”だ。
この料理は、NHK みんなの料理にて、2011年6月29日に放送されたもので、2017年10月12日にパソコンより取り出し印刷したレシピを見ながら作ったものだ。
さて、後10日余りで2021年を迎えるのだが、来年もご飯作りを頑張らねばならない。
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我が夢・“美空ひばり”が現れる

2020年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
2020年09月13日(日)
『我が夢』
<“美空ひばり”が現れる>
我が夢に“美空ひばり”が現れた。それは目覚め前の6時頃のように思う。
我が夢に芸能人が現れるのは、もしかすれば初めてのことかも知れない。
原っぱで、“美空ひばり”の誕生日会が行なわれている様子であった。
ファンが“美空ひばり”を10㍍ほど離れ取り巻く。
歌う姿は無くて、司会者らしき人と“美空ひばり”が語っている姿であった。
その姿は10代だ。
僕は最前列で原っぱに腰を下ろして“美空ひばり”の姿と語らいに夢中になっている様子であった。
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打上川治水緑地・街中歩の折り返し地点

2020年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
2020年09月10日(木)
『打上川治水緑地』
<街中歩の折り返し地点>
4時58分にスタートして、いつもの道を行く。
打上川治水緑地には東方より入り、先ずは内周を、続いて外周を、一周ずつ歩く。
東方より緑地を離れ、十月桜の道より寝屋川左岸の道を歩いて帰路につく。
今、治水緑地で開花する花は、百日紅(サルスベリ)くらいだろうか。
他には開花する植物は見当たらないような気がする。
百日紅は、紅が濃いものと少し紫がかったものがあり、先日、寝屋川公園で見掛けた白色のものは無いようだ。
僕が今朝に歩いた距離は、日々歩くそれとほぼ同じくらいの「約9km」なのだが、
今朝は、嘗て歯医者さんの本棚から借りて来た書籍に記してあったが如く、
「歩幅は普段よりも大股で」「かかとで着地し、つま先でけり出す」を終始意識して、しっかりと歩き続けた。
今朝スタートするときには、足下が雨で濡れていたので、傘を持って出掛けたのだが、帰宅するまで幸い降ることはなかった。
成田山不動尊で行なわれているラジオ体操参加と、昔時折走っていた我がランニングコースを歩くのが、
当初の目的で、昨年6月の中旬よりスタートした。
しかし、ラジオ体操は我が身体には合わないように感じ10日余りで終了し、歩くことのみに専念する。
そして、その早朝の我が街中歩を続けるには、街中に咲く花を愛で、写真機に収めることが、
街中歩を続ける為の糧になるに違いないと考え、7月3日より写真機を携え歩くようになった。
そんななか、7月8日になって初めて訪れた“打上川治水緑地”。その日まで、僕は“打上川治水緑地”の存在を知らなかった。
程良い面積と、メタセコアやクスノキ、ケヤキ、カエデなどが立ち並ぶ景観に魅せられ、
そのときより打上川治水緑地を、街中歩の折り返し地点として、必ず訪れるようになった。


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東京池袋の交通事故(親爺を想い出す)

2019年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム
2018年04月20日(土)
『東京池袋の交通事故』
<親爺を想い出す>
昨日の東京池袋の横断歩道における交通事故で、
自転車に乗っていたと見られる31歳のお母さんと3歳の女児が亡くなったという。
事故を起こしたのは87歳の男性で、最近、運転をやめると周囲に告げていたとのこと。
その時の男性が如何なる体調にあったのかは分からないのだが、
この親子が亡くなったという痛ましい事故のニュースがNHKラジオより流れたときに、
僕の脳裏に蘇ったのは我が親爺のことであった。
ある年の夏、自身が営む店舗向かえの道路を挟んだ処にある駐車場から道路へと、
親爺が車をスタートさせたときに、曲がることなく正面にある店舗に車がまっすぐ突っ込んだのだ。
店舗は全面がガラス張りゆえ、自動ドアも含めてガラスは木っ端微塵となったのだ。
それを切っ掛けとして親爺は車の運転をやめたのだが、その事故は不幸中の幸いであった。
なぜなら、他車や歩行者を巻き込まなかったからだ。
また助手席に乗っていた御袋にも怪我はなかった。
フェリーを利用して自身の車で北海道を旅行したこともあり、
親爺は車が大好きで、お袋と二人でよく、車を利用して旅行に出掛けていたのを思い出す。
それより数年後、親爺に認知症の症状が現れた。
この8月には70歳になる僕は、後何年車の運転が出来るのだろうか。
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天災(準備をやっていかなければならない)

2018年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
八丁平(2018年6月17日)

2018年09月12日(水)
『天災』
<準備をやっていかなければならない>
八丁平(京都北山)山行を楽しんだ6月17日の明くる日、
丁度朝8時頃に地震があり、我が家は上下に激しく揺れた。
それは阪神淡路の震災以来の恐ろしいくらいの揺れ方で恐怖を感じた。
その後も暫くの間余震が続き、その度に緊張したのを今も忘れることができない。
大阪北部地震と命名されたその地震は、震度6弱、我が地域では5強との報道であった。
ところでこの地震が山中、それも谷筋に僕がいるときに起きたなら、
落石や山崩れ、倒木等が生じて山中は如何なる様相になったのだろうかと不安を覚えた。
次に、7月4日より降り始めた雨は、
我が家には幸いなことにその影響は殆どなかったのだが、
しかし西日本を中心に各地に甚大な被害を及ぼした。
またその頃より気温が上昇し、7月、8月と異常とも言える高温が日々続き、
熱中症で亡くなる方が例年と比して多くなったという。
例年ならあまりクーラーを使用しない僕であってもかなり使ったように思う。
そして9月4日にやって来た台風21号は、僕が経験した台風の中でも最強のものであった。
恐ろしいほどの激しい風雨が二時間近く続き、14時頃には我が家から灯が消えた。
電気が戻ってきたのは明くる日の朝7時半で、
これ程の長時間に亘る停電の経験は僕にとって嘗てないことであった。
夕飯は一つの大きめの懐中電灯を食卓上にぶら提げ、
僕の山用ヘッドランプや水を入れると輝く灯を使用して済ませた。
20時頃には布団上に転がったが、目覚めの一回目は22時台。
その後、ベッドから離れた朝6時半頃までに三~四度ほど目覚め、
その度に電気が復旧しているかどうかを確認することとなった。
幸い我が家に被害はあまりなかったのだが、
近くに住む娘の家屋根の瓦に損傷が生じブルーシートが今も被っている。
また、娘夫婦のスタジオの二階前壁上部が風で剥がれ飛んでしまった。
そして9月6日の北海道の地震だ。ニュースを聴く度に気鬱になってしまう。
併しだ、今後30年以内に70%~80%の確率で発生すると言われている南海トラフ巨大地震を始め、
甚大な被害をもたらす天災時のための準備をしっかりとやっていかなければならないと、改めて思った今夏であった。
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僕の最期のとき(ご飯作りと会社の経理事務が出来なくなったとき)

2018年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
僕が利用している、NHKみんなの料理のレシピの一つ
2018年08月08日(水)
『僕の最期のとき』
<ご飯作りと会社の経理事務が出来なくなったとき>
朝スタジオに入り、最低限の仕事を済ませ、我が家に戻って来たのが8時半頃だっただろうか。
今日は昼飯を作る必要もないというところで、二階の机前に坐ったのだが眠ってしまう。
目覚めたのが11時頃。
直ぐにベッドに横になりまた眠ってしまい、
上さんの「ごはんですよ!」という声で目覚め三階に上がって行くと13時であった。
孫達は、上さんが作ったカレーライスをお代わりして食べていた。
僕と上さんは昨晩の残り物で昼食を済ませる。
今日は夕飯も作る必要がないので、
15時頃二階に下りてきて暫くしてまたベッドに横になり眠ってしまう。
孫のK子の「ご飯だよ!」という呼び声で目を覚まし三階に上がって行ったのは19時がかなり廻ってからであった。
今日はほんとうによく眠った。
先日までと比して気温が下がり、日中であってもエアコンを稼働させる必要がなかった。
何もすることが無ければ、今日のような生活が続くのだろうか。
そして死んでゆくのかも知れない。
今朝、津川雅彦さんが亡くなったというニュースがあった。
奥さんである朝丘雪路さんが亡くなってまだ然程月日が経っていないと思うのだが、
認知症が進んでいたという奥様が亡くなり、
津川さんは生きていなければならないという気概を失ってしまったのかも知れない。
ところで、僕にとって今やらなければならない事柄は、
家族の為のご飯作りと娘夫婦の為の会社の経理事務なのだが、
それらをやる必要がなくなったとき、或いは出来なくなったときが、
僕の最期のときなのだろう。
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人の命の儚さ(我が娘の在りし日の姿が脳裏に蘇る)

2018年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
我が家の仏壇
2018年03月05日(月)
『人の命の儚さ』
<我が娘の在りし日の姿が脳裏に蘇る>
2月27日の日記に
「KDさんの処の女性従業員さんが亡くなり、今晩がお通夜だそうだ。
暫く前に娘婿から、
『癌を病み歩けない状態で、身寄りが無くKDさんが面倒を看ている』と聞いていた。
彼女は、娘婿と同い年らしく、上さんが『ちょっと早いね』『可哀想ね』と言ったが、
『もしかすれば、彼女にとって好かったのかもしれない』『彼女にとって丁度よい時なのかも知れない』と返した。
人は亡くなった時が、その人にとってもっとも好ましい時なのだろうと思うからだ。」と僕は記している。
あれから六日目の今日、
KDさんが●●●●に来られ、上さんがKDさんと話す機会があり、彼女の癌とは大腸癌であることを知った。
「オシメの交換は娘がやってくれた」とKDさんは仰ったそうなのだが、
KDさんのお嬢さんは、まだ高校生くらいだと思うのだが、
その娘さんが30歳半ばの女性の介護を如何なる気持で担い、如何なる心中で看取ったのだろうか。
至極心の優しいお嬢さんに違いないと思うと同時に、人の命の儚さを思うとき、
我が娘の在りし日の姿が脳裏に蘇った。
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