09.11/2 548回
三十六帖【柏木(かしわぎ)の巻】 その(31)
夕霧も涙をお止になることができません。夕霧は柏木の老成ぶりが早死の運命であったかと、
「この二、三年のこなたなむ、いたうしめりて、物ごころ細げに見え給ひしかば、『あまり世の道理を思ひ知り、物深うなりぬる人の、すみ過ぎて、かかる例心うつくしからず、かへりてはあさやかなる方のおぼえ、薄らぐものなりとなむ』、と(……)」
――(柏木は)この二、三年来というもの、ひどく沈みこんで心細そうにしておいででしたので、「余り人生が分かり過ぎて考え深くなった人が、悟り過ぎて、普通の人情の心を失い、返って世間の評判を失う(知性)のではありませんか」と、(申し上げますわたしを、反対にお諌めになられました――
「よろづよりも、人にまさりて、げにかの思し歎くらむ御心の中の、かたじけなけれど、いと心苦しうも侍るかな」
――何よりも、お話の落葉の宮の大そうなお嘆きのご様子が、勿体ない言い方ですが、とてもお気の毒でございます――
などと、夕霧はやさしく、心細やかに申し上げます。
「かの君は五、六年の程の年長なりしかど、なほいと若やかになまめき、あいだれてものし給ひし。これはいとすくよかに重々しく、男々しきけはひして、顔のみぞいと若う清らなること、人にすぐれ給へる」
――柏木は、夕霧より五、六歳年上でしたが、それでも大そう若々しく優雅で、人懐っこいかたでした。夕霧の方は大そう生真面目で、落ち着いており、雄々しいご様子で、お顔だけがお若く際立って綺麗なのが、人に優れていらっしゃる点です――
若い女房達は、悲しみも少しは紛れて、この夕霧をお見送り申し上げます。夕霧はお庭先の桜を眺めて「今年ばかりは(古歌=深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け)」を思われましたが、これは不吉な歌なのでこの場に相応しくないと口には出されず、「あひ見むことは(古歌=春ごとに花の盛りはありなめどあひみむことは命なりけり)」と口ずさんで、夕霧の(歌)
「時しあればかはらぬ色ににほひけり片枝枯れにし宿の桜も」
――春が来たので昔と同じ色に咲きました。片枝の枯れた宿の桜も(未亡人になられた落葉の宮もお元気でお栄えください)――
御息所はすぐにご返歌を、(歌)
「この春は柳の芽にぞ玉はぬく咲き散る花のゆくへ知らねば」
――今年の春は柳の芽に露の玉を置くように、私どもは目に涙を宿して暮らします。柏木が世を去り、花の消息もございませんので――
夕霧は、御息所がその昔、まあまあの評判の更衣(朱雀院の更衣)でいらしたのを思い出されて、なるほど噂通りの、ほど良いお心構えの方であるとお思いになります。
夕霧はこうして間もなくお帰りになりました。
◆あいだれて=愛垂る=甘える、人懐こい。
ではまた。
三十六帖【柏木(かしわぎ)の巻】 その(31)
夕霧も涙をお止になることができません。夕霧は柏木の老成ぶりが早死の運命であったかと、
「この二、三年のこなたなむ、いたうしめりて、物ごころ細げに見え給ひしかば、『あまり世の道理を思ひ知り、物深うなりぬる人の、すみ過ぎて、かかる例心うつくしからず、かへりてはあさやかなる方のおぼえ、薄らぐものなりとなむ』、と(……)」
――(柏木は)この二、三年来というもの、ひどく沈みこんで心細そうにしておいででしたので、「余り人生が分かり過ぎて考え深くなった人が、悟り過ぎて、普通の人情の心を失い、返って世間の評判を失う(知性)のではありませんか」と、(申し上げますわたしを、反対にお諌めになられました――
「よろづよりも、人にまさりて、げにかの思し歎くらむ御心の中の、かたじけなけれど、いと心苦しうも侍るかな」
――何よりも、お話の落葉の宮の大そうなお嘆きのご様子が、勿体ない言い方ですが、とてもお気の毒でございます――
などと、夕霧はやさしく、心細やかに申し上げます。
「かの君は五、六年の程の年長なりしかど、なほいと若やかになまめき、あいだれてものし給ひし。これはいとすくよかに重々しく、男々しきけはひして、顔のみぞいと若う清らなること、人にすぐれ給へる」
――柏木は、夕霧より五、六歳年上でしたが、それでも大そう若々しく優雅で、人懐っこいかたでした。夕霧の方は大そう生真面目で、落ち着いており、雄々しいご様子で、お顔だけがお若く際立って綺麗なのが、人に優れていらっしゃる点です――
若い女房達は、悲しみも少しは紛れて、この夕霧をお見送り申し上げます。夕霧はお庭先の桜を眺めて「今年ばかりは(古歌=深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け)」を思われましたが、これは不吉な歌なのでこの場に相応しくないと口には出されず、「あひ見むことは(古歌=春ごとに花の盛りはありなめどあひみむことは命なりけり)」と口ずさんで、夕霧の(歌)
「時しあればかはらぬ色ににほひけり片枝枯れにし宿の桜も」
――春が来たので昔と同じ色に咲きました。片枝の枯れた宿の桜も(未亡人になられた落葉の宮もお元気でお栄えください)――
御息所はすぐにご返歌を、(歌)
「この春は柳の芽にぞ玉はぬく咲き散る花のゆくへ知らねば」
――今年の春は柳の芽に露の玉を置くように、私どもは目に涙を宿して暮らします。柏木が世を去り、花の消息もございませんので――
夕霧は、御息所がその昔、まあまあの評判の更衣(朱雀院の更衣)でいらしたのを思い出されて、なるほど噂通りの、ほど良いお心構えの方であるとお思いになります。
夕霧はこうして間もなくお帰りになりました。
◆あいだれて=愛垂る=甘える、人懐こい。
ではまた。