ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

“捨てるヒトあれば 拾うヒトあり” 神がヒトに化けた?

2017-06-06 06:35:54 | 雑感
 軍手にトング(火バサミ)とレジ袋のいつもの恰好で、いつものようにゴミ拾いをしながら信号待ちをしていたときのことです。同年配ぐらいの女性が私に声を掛けてきました。

「いつもいつも、ご苦労さまぁ! 大変ネェ・・・。」
「まぁ、好きでやっていますから。」私は当たり障りなく言葉を継ぎました。
「これでも以前に比べたら随分マシになったんですがねェ・・・、続けているからでしょうかね。ただ目障りだからと、黙って続けているだけなんですが・・・。見て見ぬふりはダメですよね。」
「そうそう、そうよネ。この辺りはお陰様でネ。・・・でもネ、JRの駅の近くはヒドイものよ、誰も気付かないはずはないのにネェ。目も当てられないぐらい!」
「人通りが多いから・・・、あの辺は。誰かやる人、いないんですかねェ・・・?」
「そうよネ! 誰かがやらなきゃネ。実は私も、見習ってこの辺り(のゴミ拾い)をちょっとはやっているのよ。」その言葉にはちょっとビックリさせられました。女性は続けて、
「“捨てるヒトあれば 拾うヒトあり”、よ。ゴミ拾いは誰かが黙ってやるしかないのよネ。黙ってやるのがイイのよ、そうよネ!」そう言い残して女性は去って行きました。

 「(何と不公平な! “捨てる神あれば 拾う神あり” のはずなのに、ついに神が人に化けたか?!)」他人事みたいに言った女性の言葉に割り切れなさを覚え、つい皮肉りたくもなりました。しかしすぐに、“捨てるヒトあれば 拾うヒトあり” と割り切るのも悪くないと思い直しました。

 道を歩いていても、恐らくポイ捨て常習者にはゴミなど目に入って来ないのです。自分自身が荷担した不始末など見たくもないのは当然ですし、人間の目は見たくないものは見えないよううまく出来ているのです。だから、多少散らかっていようがいまいが、歩ける道でありさえすればそれでいいのです。多少のゴミなどほとんど気にならないのが普通です。かつての私がそうでした。

 ポイ捨てされたゴミがどんなに目障りで情けない光景と映るのか、それを体感してもらうには、実地でこざっぱりした道を歩いてもらうしかありません。

 人は、たとえ些細なことへの “気づき” でも、その “気づき” を転機に成長できる生き物のはずです。目に映っている光景が目障りで情けないと気づけさえすれば、自分の至らなさにも気付けるはずです。不要なモノを捨てるにしても作法というものがあるのです。“気づき” を契機にまともな作法を身に付けてもらえるなら、黙って拾い人に徹するのも人助けには必要なのでしょう。

 恐らく、女性の真意はこんなことだったのではないでしょうか。
 “捨てるヒトあれば 拾うヒトあり” なかなか乙な言葉です。



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