「ジュリコの名はジェリコー」
「ジュリコ」の本当の名前は「ジェリコー」という。
ジェリコーとは18世紀末から19世紀始めにかけて活躍したフランス人画家テオドール・ジェリコーのことで、写実に徹し、後の印象派などにも影響を及ぼしたといわれる西洋絵画史上、重要な画家である。蛇足だが、「ジェリコ」と語尾を切ると、人類史上最も古く約9千年前に築かれた城壁都市の名前になる。難攻不落のジェリコの砦の言い伝えでよく知られた町であり、現代の地図にその位置を求めると、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区の地点に行き着く。
この雑文で記述しようとしているのは、画家ジェリコーの名前をつけた犬の話であるが、家族は、名前の由来に関する知識が乏しかったため、その犬を常にジュリコと呼んだ。ジュリコは、ペットショップにいたアメリカンコッカースパニエルの純血種の雌で、そのころの稚内では見ることがない珍しい犬種だった。一目惚れした妻と彼女の妹は、二日間、高価な値札がついた子犬の許に通った。
昭和51年、妻の実家にやって来たジュリコはあまりにも小さく弱々しかったので、家の中に数ヶ月置かれたのだが、飼い主が排泄のしつけ方に失敗したことや、夜中に人間が寝静まると、居間のゲージの中で鳴き続けたため、とうとう玄関先の犬小屋に住むことになった。昔から動物を飼っていた家だったので、何代か前からのお古の犬小屋があった。ジュリコは子犬のころそれほど吠えない犬だったというが、あるとき人間たちのいざこざを目の当たりにしてからは、外からやって来る人間に対し敵意を抱くようになった。家族には懐いたが、親しくない人間や犬猫に対しては、激しく吠え立てた。
私が妻の実家を初めて訪れたのは、会社の同僚たちといっしょに稚内の南にあるサロベツ原野にドライブするため、妻を迎えに行ったときだった。家に近づいた私に対し、ジュリコは敵意をむき出しにして猛烈に吠え、飛びかかろうとまでした。危険を感じた私は、玄関から遠く離れて立ちすくんでいたことを今でも覚えている。
私は、昭和52年4月、生まれて初めて稚内の地を踏んだ。25才まで京都市内の大学にいたが、何をしていいか将来設計が立てられないままある会社の試験に合格したため、勤務地の稚内にやってきた。そして同じ職場の同年輩の人間たちと遊びほうけていた。妻もその仲間の一人で、彼女の実家にときどき通うようになると、次第にジュリコから一目置かれるようになり、いつしか吠えられなくなった。半年ほど経つと、私の顔を見て尻尾を振って歓迎の気持ちを表してくれるようになった。序列はともかく家族の一員として認められてからは、よく散歩や公園に連れて行った。私が鎖を持つと飛び上がって喜んだ。車に乗せて公園に行くと、人間と同じように、ブランコに乗りたがり、滑り台やジャングルジムによじ登って遊んだ。
全身の毛が柔らかくカールしていたため、毛に泥やゴミが絡みつくのだったが、それを取るときに誤って、この犬種に特徴的な長い耳の端をはさみで切ったことがあった。それ以降、はさみを見ると暴れ方があまりにもひどく手に負えなかったので、一度病院で麻酔して毛を切ってもらった。家に戻ってきたジュリコの身動きできない様子を見たとき、そんなことはすべきでなかったと後悔した。
私たちが昭和54年に結婚した後、一人きりになった妻の母親が、娘の一人と同居したのはその年の秋ごろだったと思う。実家の土地と建物は隣家の人に買ってもらうことになったのだが、稚内在住の子供たちは皆アパート暮らしで、ジュリコを引き取る環境にある家族はいなかった。
その当時、実家の近所に懇意にしていた家族がいた。母親と息子夫婦、二人のまだ小さな孫娘という家族構成で、動物好きのやさしい人たちだった。その家族は、実家の窮状を知り、ジュリコを飼ってくれることになった。犬小屋とともにジュリコをその家に連れて行くと、ジュリコは新しい家族に引き取られたことを理解しているかのように、彼らにすぐ慣れ親しんだ。私たちのアパートはそこから10キロメートルほど離れていたが、できる限りジュリコに会いに行くようにした。私たちに会ったときのジュリコはどれほどの喜びだっただろう。私たちの体に何度も飛びついて止めようとしなかった。
その年の暮れ、大晦日が間近に迫った日のこと、突然その家から、ジュリコが死んだと電話があった。ジュリコは犬小屋の中で凍死していた。まだ、3歳の若さだった。外の犬小屋で冬を越すのは4度目であり、寒さが死因だとは思えなかった。胴に鎖が巻き付いていたのは、体に何らかの異変が起き、苦しがって転げ回ったことによってそうなったのかと思ったが、死因は不明だった。その家の人たちによると、ジュリコの様子は前日まで食欲があり特に変わったところがなく、夜中に声や物音などにもまったく気がつかなかったという。引き取って3ヶ月ほどで死んでしまったジュリコの亡骸の傍らで、彼らは言葉少なに悄然と立っていた。しかし、動転した私と妻は、彼らの気持ちを推し量り、それまでお世話になった礼を言う余裕もなく、ジュリコを家に連れ帰った。
妻はジュリコの凍った体を抱きながら、何時間も泣いた。後日、死の1、2週間前にその家の人が撮った写真を見ると、ジュリコの顔には寂しそうな表情が浮かんでいた。そのころから体調が悪かったのだろうか。忙しさにかまけて、死ぬ前の数日間、会いに行ってなかった。ジュリコの3年間の生涯は幸せなものではなかったかもしれない。実家にやって来た時期は、父親の死後、残った借金のことで親戚を巻き込んだ騒動になっていた。その後の2年間、3人の娘たちが次々と結婚し実家を出た。一人残った母親までもが引っ越してしまい、自分が忘れられてしまうのではないかと随分心細く思ったことだろう。
現在、妻と二人の妹たちは、それぞれの家庭で動物とともに暮らす生活を選んで20年になる。彼女たちは、今でもジュリコに対する自責の念を抱きながら、ジュリコにかけられなかった愛情を他の動物たちに捧げようとしていると思えてならない。(H21.10了)
「ジュリコ」の本当の名前は「ジェリコー」という。
ジェリコーとは18世紀末から19世紀始めにかけて活躍したフランス人画家テオドール・ジェリコーのことで、写実に徹し、後の印象派などにも影響を及ぼしたといわれる西洋絵画史上、重要な画家である。蛇足だが、「ジェリコ」と語尾を切ると、人類史上最も古く約9千年前に築かれた城壁都市の名前になる。難攻不落のジェリコの砦の言い伝えでよく知られた町であり、現代の地図にその位置を求めると、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区の地点に行き着く。
この雑文で記述しようとしているのは、画家ジェリコーの名前をつけた犬の話であるが、家族は、名前の由来に関する知識が乏しかったため、その犬を常にジュリコと呼んだ。ジュリコは、ペットショップにいたアメリカンコッカースパニエルの純血種の雌で、そのころの稚内では見ることがない珍しい犬種だった。一目惚れした妻と彼女の妹は、二日間、高価な値札がついた子犬の許に通った。
昭和51年、妻の実家にやって来たジュリコはあまりにも小さく弱々しかったので、家の中に数ヶ月置かれたのだが、飼い主が排泄のしつけ方に失敗したことや、夜中に人間が寝静まると、居間のゲージの中で鳴き続けたため、とうとう玄関先の犬小屋に住むことになった。昔から動物を飼っていた家だったので、何代か前からのお古の犬小屋があった。ジュリコは子犬のころそれほど吠えない犬だったというが、あるとき人間たちのいざこざを目の当たりにしてからは、外からやって来る人間に対し敵意を抱くようになった。家族には懐いたが、親しくない人間や犬猫に対しては、激しく吠え立てた。
私が妻の実家を初めて訪れたのは、会社の同僚たちといっしょに稚内の南にあるサロベツ原野にドライブするため、妻を迎えに行ったときだった。家に近づいた私に対し、ジュリコは敵意をむき出しにして猛烈に吠え、飛びかかろうとまでした。危険を感じた私は、玄関から遠く離れて立ちすくんでいたことを今でも覚えている。
私は、昭和52年4月、生まれて初めて稚内の地を踏んだ。25才まで京都市内の大学にいたが、何をしていいか将来設計が立てられないままある会社の試験に合格したため、勤務地の稚内にやってきた。そして同じ職場の同年輩の人間たちと遊びほうけていた。妻もその仲間の一人で、彼女の実家にときどき通うようになると、次第にジュリコから一目置かれるようになり、いつしか吠えられなくなった。半年ほど経つと、私の顔を見て尻尾を振って歓迎の気持ちを表してくれるようになった。序列はともかく家族の一員として認められてからは、よく散歩や公園に連れて行った。私が鎖を持つと飛び上がって喜んだ。車に乗せて公園に行くと、人間と同じように、ブランコに乗りたがり、滑り台やジャングルジムによじ登って遊んだ。
全身の毛が柔らかくカールしていたため、毛に泥やゴミが絡みつくのだったが、それを取るときに誤って、この犬種に特徴的な長い耳の端をはさみで切ったことがあった。それ以降、はさみを見ると暴れ方があまりにもひどく手に負えなかったので、一度病院で麻酔して毛を切ってもらった。家に戻ってきたジュリコの身動きできない様子を見たとき、そんなことはすべきでなかったと後悔した。
私たちが昭和54年に結婚した後、一人きりになった妻の母親が、娘の一人と同居したのはその年の秋ごろだったと思う。実家の土地と建物は隣家の人に買ってもらうことになったのだが、稚内在住の子供たちは皆アパート暮らしで、ジュリコを引き取る環境にある家族はいなかった。
その当時、実家の近所に懇意にしていた家族がいた。母親と息子夫婦、二人のまだ小さな孫娘という家族構成で、動物好きのやさしい人たちだった。その家族は、実家の窮状を知り、ジュリコを飼ってくれることになった。犬小屋とともにジュリコをその家に連れて行くと、ジュリコは新しい家族に引き取られたことを理解しているかのように、彼らにすぐ慣れ親しんだ。私たちのアパートはそこから10キロメートルほど離れていたが、できる限りジュリコに会いに行くようにした。私たちに会ったときのジュリコはどれほどの喜びだっただろう。私たちの体に何度も飛びついて止めようとしなかった。
その年の暮れ、大晦日が間近に迫った日のこと、突然その家から、ジュリコが死んだと電話があった。ジュリコは犬小屋の中で凍死していた。まだ、3歳の若さだった。外の犬小屋で冬を越すのは4度目であり、寒さが死因だとは思えなかった。胴に鎖が巻き付いていたのは、体に何らかの異変が起き、苦しがって転げ回ったことによってそうなったのかと思ったが、死因は不明だった。その家の人たちによると、ジュリコの様子は前日まで食欲があり特に変わったところがなく、夜中に声や物音などにもまったく気がつかなかったという。引き取って3ヶ月ほどで死んでしまったジュリコの亡骸の傍らで、彼らは言葉少なに悄然と立っていた。しかし、動転した私と妻は、彼らの気持ちを推し量り、それまでお世話になった礼を言う余裕もなく、ジュリコを家に連れ帰った。
妻はジュリコの凍った体を抱きながら、何時間も泣いた。後日、死の1、2週間前にその家の人が撮った写真を見ると、ジュリコの顔には寂しそうな表情が浮かんでいた。そのころから体調が悪かったのだろうか。忙しさにかまけて、死ぬ前の数日間、会いに行ってなかった。ジュリコの3年間の生涯は幸せなものではなかったかもしれない。実家にやって来た時期は、父親の死後、残った借金のことで親戚を巻き込んだ騒動になっていた。その後の2年間、3人の娘たちが次々と結婚し実家を出た。一人残った母親までもが引っ越してしまい、自分が忘れられてしまうのではないかと随分心細く思ったことだろう。
現在、妻と二人の妹たちは、それぞれの家庭で動物とともに暮らす生活を選んで20年になる。彼女たちは、今でもジュリコに対する自責の念を抱きながら、ジュリコにかけられなかった愛情を他の動物たちに捧げようとしていると思えてならない。(H21.10了)