黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

人生二巡目の悲惨なスタート

2012年02月16日 09時55分20秒 | ファンタジー

 十干十二支のことを昔々勉強したことがあるが、その起源や用法など、すっかり忘れてしまった。今年が壬辰(みずのえたつ、じんしん)の年ということも知らなかった。ただ、殷の時代にできあがった年代法で、以来三千年以上にわたり、断絶することなく、使い続けられてきたという記憶だけが残っている。しかし、今回はその年代法の仕組みなどを、あれこれこね回すような面倒なことは省略し、まったく別の話をしたい。
 還暦を迎えて61年目の人生に入ってすぐ、関係者からお祝いの席に招待された。名前の通った料理屋にセッティングしたのは私の妻で、総勢7名のこぢんまりした宴会だ。口にこそしなかったが、一週間前くらいから、なんとなくソワソワした気持ちになっていた。
 ところが、当日の未明のこと、突然胸の悪さに目が覚めた。あわてて階段を下り、水を飲み飲みトイレにかけ込んだ。酒を飲み過ぎたときは案外楽に吐くことができるのだが、このときは気持ちが悪くてたまらないのに、喉の奥からゲーゲーという嫌な声と、口からよだれ、目から涙が出るばかりで、なかなか胃から内容物が出てこない。昨日の晩酌のとき、フリーズドライの大豆を食べ過ぎたのだろうかと後悔したが、時すでに遅し。
「坂の上の雲」の秋山真之氏の死因が虫垂炎をこじらせた腹膜炎だったというが、あれは炒り豆の食べ過ぎではなかったかと、ふと頭の隅に浮かんだ。そこまで懸念する必要はまったくないのだが、人の頭の構造というのは、つい最悪の事態を思い描くものなのか。それともネガティブな精神の私特有のものなのか。
 喉の奥に指を突っ込んで、わずかばかり吐くと少し落ち着いたので、ベッドに戻った。しかし、すぐに吐き気はやって来た。またトイレに逆戻りだ。2時間そんなことをしているうちに、4回目にしてとうとう大量の吐瀉物を出し終えた。こんなにたくさんの豆を食べたのかと唖然とするやら、ほっとするやら、今度こそ寝直しできるぞと勇んでベッドに入ろうとしたら、今度は下痢が始まった。
 一通り用を済ましてから、眠ったような、そうでもないような時間がしばらく続き、目を開けると2時間くらい経っていた。頭を上げようとしたら、なんだか枕に後頭部がひっついたように上がらない。この数ヶ月、経験したことがない頭の重さなのだ。それに全身が寒くてたまらない。寝汗もかいている。そこまで確認した私は、自分が今晩の催しの主賓であることをありありと認識し、肝心なときにまた取り返しのつかない過ちを犯してしまったことに愕然とした。
 私の記憶にある失敗の数々は、今回のような、なんでこんな間の悪いことになってしまうんだ、といったものばかりだ。私にとって、それ以外の数限りない過ちなど、気にするほどではないのだろう。やっとのことで暦を一巡して新しい人生に踏み出したばかりなのに、やっぱり一巡目の人生と同じように、輪廻の輪の上をヨチヨチと歩き回っているような気分だ。
 私はベッドの中で、しっくりこない自分の人生を抱きかかえながら、とにかく夜までにいくらかでも体調が回復するのを期待して、ベッドにしがみついていた。しかし、妻が様子を見に来た昼過ぎになっても、吐くほどではないが胃のむかつきは収まらない。熱は37度3分だが、食べ物はなにも受け付けず、体調はきわめて悪い。もし猛威を振るっているインフルエンザだったら、会場へ行ってはいけないだろう。私は飛び起きて、休日の当番医を調べ急ぎインフルエンザの検査を受けることにした。待合室で1時間半待って、結果は陰性。ただし、ウィルス性の下痢嘔吐だとしたら人にうつす恐れがあるからと注意を受けたが、これならなんとかなるとほっと胸をなで下ろした。
 その夜は気のおけないメンバーばかりの集まりだ。私は普段から、懇談の場を盛り上げる役回りをしたことがない。場の雰囲気を気にするような、繊細な神経の持ち合わせがないとよく言われる。その私がいつもより多少、もの静かだとしても、彼らは、私の調子がいいのか悪いのか判断がつかないはずだ。
 和やかな雰囲気で懇談が進み後半に入ったころ、私は食欲の復調の兆しなく、最初の数品を食べただけで箸を置いていた。そのとき、彼らの中の一人が、私の状態に気が付いて、こんなことってあるんだろうかと、驚きの声を上げた。その声を聞きつけた面々は注意深い視線を私の手元に注ぎ、次の瞬間、皆の顔色が青ざめた。それ以降、せっかくの懇談の場に咲いた花は、あらかた摘み取られ、座は白けてしまった。この話は、私のどん欲な食欲について知っている者にしか理解できないと思う。
 それにしても、この歳でも二十歳代の基礎代謝があるから、どれだけ食べても太るわけがないと無茶食いする性癖をどうしたものか。人生二巡目にもなったら、まず、そういう本能的な悪弊からすっぱり足を洗うべきだろう。他にも、年相応に身につけるべき礼儀作法がたくさんある。たとえば、場を白けさせない、ここ一番のとき人に不安感を与えない、妻はじめ迷惑かけている方々や世話になっている方々に、ちゃんとした言葉と態度で感謝の念を伝える、などといった大人の振る舞いだ。一巡目で犯した過ちのつじつまを、二巡目で合わせられるかという難題もある。こんな課題ばかり上げていくと、ほんとうにきりがなくなってしまうから、この辺で止めておくが、悠々自適というような境遇はいったいどこにあるのか、言葉を作った人によくよく確かめてみたい。(H24.2.16了)

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする